2002年 1月
モラル モラル
小学館の国語大辞典によればモラルとは 「1 道徳。倫理。行為の正邪とその区別に関する態度、または教え。2 物語、出来事、体験などの内的な意味。」とあるが、最近ではもっと単純に常識がないことに対して 「モラルがない」「モラルの低下(または欠如)」 という使い方がされている。
モラルと言うよりもマナーの問題なのだが、電車の中はマナーの良し悪しが顕著に表れる場所である。「事故の原因となりますので駆け込み乗車はおやめください」 と繰り返しアナウンスされているのに必ずといっていいほど毎日のようにどこかの駅で駆け込み乗車がある。つい先日も自分の目の前のドアに駆け込んで来た。全速力で走って来たのか駆け込んで来た兄ちゃんは手をヒザにつきながらゼ〜ゼ〜言っている。
JR側も見せしめのためか 「ただいま駆け込み乗車がありました、危険ですのでくれぐれも・・・」 と絶妙なタイミングで車内アナウンスを始める。その兄ちゃんは恥ずかしそうにあたりを気にしていたが、そんなことよりも呼吸を整える方が重要だったようで 「すぅ〜・・・はぁ〜」 と深呼吸したりしていた。おまけに冬だというのに汗だくなのである。
何度もこの雑感に書いているが走ることが嫌いな自分にしてみると、なぜそこまでしてこの電車に乗りたかったのか不思議でしかたない。仕事に遅れそうだったのか、待ち合わせに遅れそうだったのかは知らないが、苦しい思いをするくらいなら駅までの時間を逆算して家を出れば良いし、何か正当な理由があって遅れるのならば相手に事情を説明すれば良いのである。
間にあうように努力することも必要だが、努力する場所が間違っているように思う。間にあうように朝起きて家を出る努力をすれば良いのである。駆け込み乗車をして事故にでもなったら JRはもとより、乗客の足を止めることになってしまい多くの人に迷惑をかけることになる。JR職員になりかわり、くれぐれも駆け込み乗車はおやめくださいと言っておく。
携帯電話に関してもいくら車内アナウンスがあろうと一向にマナーが改善されないようだ。この前も隣りのつり革につかまっていたおやじの携帯が鳴り、電話に出たそのおやじは大声で話をしている。人と人の会話はそれ程気にならないが、電話での会話は不思議と気になってしまう。どうやら会社の部下からの電話だったようで、なにやら指示を出している。そのおやじの指示が悪いのか部下の能力が低いのか分からないが、なかなか話が伝わらないようでおやじの声がだんだん大きくなってくる。
あまりにも腹が立ったので体を移動し、おやじの顔を思いっきり正面から睨んでやった。するとくるっと背中を向け、そそくさと話を終わらせて乗車口に移動してしまったのである。自分が上司で部下に指示しているのがカッコイイと陶酔していたのか知らないが、さっさと終われる話なら最初からそうすれば良いのである。第一、電車内では携帯の電源を切るように言われているではないか。
「携帯電話によるメール交換も・・・」とアナウンスされていても、あちらこちらで親指が動いている。会話とは違ってうるさくないので個人的には気にならないのだが、中にはピポピポと操作音を出したままの奴がいる。あの電子音はかなり気になるので操作音は OFFにしてもらいたいものだ。OFFにする方法が解らないのであれば使用せずに電源を切れ!と言いたい。
買ったばかりの携帯電話を分厚い説明書を読みながら操作しているおやじも見かけたことがある。何を設定したいのか、あちらこちらのページをめくりながら首をひねったりしている。その時もピポピポと操作音が出ていたので 「うるさいな〜」 と思っていた。しばらくすると、どう操作を間違えたのか大音量で着信用の音楽が奏でられた。本人も驚いたようで 「わぁ」 と言いながらあわてて止めようとしているのだが、止め方が解らないらしく結果的にはその曲を最後まで聞かされることになってしまった。
個人のモラルが低下しても被害を及ぼす範囲は狭いが、企業や政治家のモラルが低下するとその影響は広範囲に至るため問題が大きい。この雑感を開始した頃に食中毒事件を起こした雪印が今度は国に対する詐欺行為で問題になっている。輸入牛肉を和牛と偽って買い取らせた例の事件である。
一度でもあってはいけないのだが、食中毒事件の時に 「二度とこのような不祥事は・・・」 と言っておきながらの不祥事である。前回の雪印乳業とは別組織とはいえ同じ雪印(SNOW BRAND)という冠をつけているのだから消費者の不信感、ブランド力の低下は避けられないだろう。すでに全国の小売店の一部では雪印関連の商品を撤去している。
前回は業績悪化に苦しんだが、今回は経営危機にまで発展するかもしれない。自業自得と言ってしまえばそれまでだが、牛乳を納めていた酪農家や宅配の牛乳屋さんなどを含めると相当大きな問題に発展してしまう。第一報を聞いた時にも感じたが 「なぜ?どうして?」 としか思えない。まさに企業または社員のモラルの欠如としか言いようがない事件である。
本国会は重要な議題が多いというのにまた田中眞紀子 vs 鈴木宗男である。あまりにもバカバカしいので内容には触れないが、言った言わないの子供の喧嘩と同じだ。マスコミも面白がって報道しているようだが、鈴木宗男氏が関与していたかという問題よりも世界中に恥をさらし、日本でも有力な NGOが政府に批判的な意見を言っただけで重要な会議に出席できなかったことが問題なのである。
企業にしても政治家にしても彼らのモラルはどうなっているのだろう。長くなってしまったが、あまりにもくだらないので最後に、ある ”架空の学校” でのできごとを・・・
マキコさん 「センセー鈴木君が全校集会のとき〜一部の人に入っちゃだめって言ってました〜」
ムネオくん 「センセー僕そんな事言ってませーん」
マキコさん 「いいました〜」
ムネオくん 「じゃぁ何日の何時何分何秒に言いましたか〜」
学級委員長のフクダくんと担任のコイズミ先生は困って笑っています。
2002 / 01 / 27 (日) ¦ 固定リンク
かしこいカラス かしこいカラス
「子供は遊びの天才である」とは誰の言葉だったか。近所の空き地から聞こえていた”天才”たちの声が冬の訪れとともに消えてしまった。寒い外で遊ぶよりも暖かい家の中でぬくぬくとして遊んでいるのだろう。「子供は風の子」という言葉は死語になってしまったのかもしれない。
今は玩具が豊富にあるので家の中でも退屈しないのであろうが、本当にそれで良いのか考えてしまう。昔の子供は本当に「遊びの天才」だった。大人が企画し、作り出した道具などなくても朝から晩まで遊んでいることができた。石ころひとつ、釘の一本、紙一枚、木の枝一本、とにかく何かがあればそれを道具として自ら遊びを創り出す。その遊びのルールまでも子供同士の協議によって決定していたものである。
しかし現在は TVゲームにせよ、ベイブレードにせよ大人が道具を用意してルールまでも設定している。子供たちに創造の余地はない。これでは子供の創造力や想像力が失われてしまうのではないだろうか。失われると言うよりも育たないというのが正確なのかもしれないが。
現在の教育制度改革では「日本の子供はつめこみ教育の犠牲者」と定義され、学習指導要領は”ゆとり教育”路線へまっしぐらである。しかし、1993年から本格的に導入された”ゆとり教育”は学力低下を招いていると問題視されている。今年春から実施予定の新要領では内容が約 3割減ることから、更なる学力の低下が心配されているのであるが、それは当然のことだと思う。
ただ闇雲に勉強時間を減らせば良いというものではない。短時間で詰め込まれるだけという結果になりそうな気がするからである。短時間に詰め込むことができる子供は優秀で、それができない子供達は落ちこぼれていくという状況になってしまわないだろうか。
それよりも道具から遊びを創り出すように、教えられたことを応用するような場を提供することの方が重要に思える。足し算、引き算を習ったら教科書に載っている問題を解くだけでなく、子供たちが”店員さん”と”お客さん”になって買い物などをする遊びをさせておけば良い。”店員さん”は”お客さん”が買った品物を足し算で合計し、受け取ったお金から引き算をしてお釣を渡すので充分に復習になる。”お客さん”も予算を決めておけば買い物をする時に足し算、引き算が必要になってくる。
基礎的な教育時間を 3割減らしても習ったことを応用する時間、つまりは学習指導要領にはない先生や生徒が自由に応用学習する時間を増やすことで教育の質を向上させるべきだと思う。生徒が遊んでいる姿を見れば、詰め込んだ内容を理解しているかも判断しやすい。計算できなかったり、迷っている生徒がいれば先生がもう一度教えてあげれば良いのである。
・・・などと書いているが、まともな学校生活を過ごして来たわけではないので自分には偉そうに語る資格などないのかもしれない。しかし、最近の若い人はいろんな事を知っていても、それを応用する力や物を創り出したりする力は劣っているように思えてしかたがないのである。
話を表題に戻すと、子供ではなく道具を使って遊びを創り出しているカラスを二度目撃した。通勤のため線路沿いの道を歩いていると一羽のカラスが上空を旋回している。上から糞でも落とされたら嫌だなと思いながら見ていると、駐輪場の屋根が「ガン!ガラガン!」とすごい音を立てた。当然中にいた人達は「わぁ!」とか「おぉぉ!」とか言って驚いている。たまたま横を歩いていた自分もビクッとして立ち止まるくらい大きな音だった。
それから数カ月して同じ道を歩いていると、線路にいたカラスが飛び立った。空高くまで舞い上がったカラスが何か落とすのが見えた。その途端に駐輪場の屋根が「ガン!ガラガン!」とすごい音を立てた。不幸にも中にいた人達は例によって大騒ぎである。すると上空を旋回していたカラスが「カァ〜」と鳴いてどこかに飛び去ったのである。
あのカラスは明らかに故意にやっていると思う。線路に敷いてある石を拾い、上から落として人間を驚かせているのである。普段は不気味で憎々しいカラスだが、それを見て思わず笑ってしまった。そして、子供のイタズラみたいだとも思った。冒頭で触れたように昔の子供はイタズラをして近所の大人に叱られもしたが、何でも遊びの道具にしたり新しい遊びを創り出したりしていた。
良くも悪くもそういう遊びが創造力や想像力を養っていたに違いないと昔の子供だったおっさんは考えているのである。
2002 / 01 / 20 (日) ¦ 固定リンク
年末年始酔っ払い事情 年末年始酔っ払い事情
年が明けて約 2週間が経過した。すっかり正月気分も抜けて学生は勉強に、社会人は仕事に・・・と思っていたら、社会人の方は年末の忘年会、正月、年が明けての新年会と、ず〜と酔っ払いモードのままである。
仕事帰りの電車の中は酒臭いおっさん同士が大きな声で「どわははは」と笑っているし、両手でつり革を握ってぐらんぐらんしていたりする。明るい酔っ払いならまだましだが、大阪駅では喧嘩しているおっさんを目撃した。原因は分からないが、そのおっさんと若いサラリーマンが口論していた。若いサラリーマンは酔いも浅いようで途中からおっさんをなだめたり、「わかった、わかった俺が悪かった」と言ってその場を治めようとしていた。
しかし、治まりがつかないのは完全にできあがっているおっさんの方である。若いサラリーマンが下手に出たのをいいことに、ますますボルテージが上がり「ふざけるな!」とか「あやまれ!」とか大声でわめいている。そうなるとお互いにエキサイトしてしまい、若いサラリーマンがおっさんの肩を突き飛ばした。かなり酔っているおっさんはヨロヨロと後退してそのまま尻餅をついてしまったのである。
喧嘩の常套手段であるヒット・アンド・アウエイで、若いサラリーマンはその場を去ろうとしたのだが、おっさんもやられっぱなしでは気がすまない。一段と大きな声で「がぉ〜」と吠えて追いかけ出した。これ以上は関わりたくない若いサラリーマンは駅構内を人とぶつからないようにヒョイヒョイかわしながら走って逃げていく。必死に後を追うおっさんだったが、酔って足がもつれているのと普段の運動不足が祟ったようで、途中の床が傾斜しているあたりで「どざざ〜」とヘッドスライディングするように転んでしまった。
その後もよほどくやしかったのか、「くぉら〜!」とか「まて〜!」「どこいった〜!」などと一人で騒いでいたのである。それを見ていると情けないやらおかしいやらで、笑いが込み上げてきてしまった。周りのひとも同じだったようで、多くの人がニヤニヤしていたのだが、おっさんが起き上がり怒った顔で周囲を見回し始めたので、からまれるとたまらないと思いそそくさとその場を立ち去った。
見知らぬ人と喧嘩したり、酔った勢いで女の人にちょっかいを出したりする酔っ払いは最悪であるが、会社の宴会でも身内とは言え度が過ぎる酔っ払いは困りものである。今までも酒の飲み方を知らずに正体がなくなるまで酔っ払った奴を何人も見てきた。トイレに入ったまま意識を失い、1時間も 2時間も篭城するのはまだ可愛い方で、道路で平泳ぎのマネをしてる奴、酔って海に落ちて救出された奴など痴態のさらし放題である。
昔勤めていた会社の宴会では芸を披露すると言って人差し指で座布団をくるくる回して拍手喝采を浴びた奴が、調子に乗って「たたみ回しま〜す」と敷いてある畳をメリメリと剥がして頭上に掲げた。よせばいいのに回りの人間も「お〜」と言いながら拍手している。だが、酔っている上に畳の重量は相当なものだったらしく、勢いよく回そうとした途端に横にすっ飛んでしまった。畳が食卓の上に落下したため、器は割れ、料理はぐちゃぐちゃになってしまう大惨事に発展した。当然の結果としてその店は出入り禁止になってしまった。
極端な例はさておき、実のところ一番嫌いなのは酒を飲むと態度が豹変する奴である。普段はそうでもないのに酒を飲むと後輩をいじめる奴、誰彼かまわず絡みだす奴など様々だが、自分のやったことを次の日にはすっかり忘れている。覚えており、恥というものを知っていれば次からは気をつけるのであろうが、覚えていないので自分がどんな醜態をさらしているのか本人に自覚がない。周りの忠告は真摯に受け止めて正体がなくなるような飲み方を止めるべきである。
もう 20年も前の話になるが、新入社員の歓迎会をやった時のこと。新人の一人には酒乱の気があったらしい。気の合う仲間とくだらない話をして盛り上がっていた席にその新人が割り込んできた。最初はその子に酒を注いでやったり、話に加えようとしたりしていたのだがどうも様子がおかしい。完全に目が据わっていて、こちらの会話に入ってもこない。「どうした?」と聞くと、とたんに絡みだしたのである。
最初は適当に相手になっていたが、だんだん腹が立ってきたので「あっちに行け」と追い払ったのだが、席に居座って一人ひとりに絡んでくる。その中で気の短い奴が「いいかげんにしないと殴るぞ!」と警告したところ、「やれるもんならやってみろ」と言って顔を突き出す。それでも自制心があるので掌で顔を軽く叩いたところ、「そんなものですか?情けない」と言い、短気な奴の怒りに触れてしまった。今度は胸ぐらをつかんで往復ビンタである。
それで大人しくなると思ったら「あんたはね〜」などと指をさし再び絡みはじめたので、その手にタバコの火を押し付けてやった。同期の子があわてて飛んできてその酒乱を連れて行ったのでその場は治まったが、翌日になって上司に呼ばれ叱られてしまった。「謝って来い」と言われたが当時はこちらも若かったので「本人が謝れと言ってきたら謝るけど、こちらから出向いて行って謝る気はありません」と反抗していた。
それから数週間後にまた宴会があり機嫌よく酒を飲んでいたところ、例の酒乱が近づいて来て自分の手の甲を見せながら「この火傷はわすれませんからね」と絡んできた。翌日になると自分のした事を覚えていないくせに酒が入ると記憶が蘇えるようである。こちらも怒りが蘇えり「なんならもう一つ増やしたろーか?」と言ってやった。すると急に顔が蒼ざめピュ〜と逃げていってしまったのである。
本当に気をつけなければ酒は人間関係にすら影響を及ぼす。社内の揉め事で済んでいるうちは良いが、仕事関係で取引先の人と酒を飲む機会もあることだから、酒の許容量が分からないととんでもないことになってしまう場合だってあるのだ。
自分には自制心があるつもりだが他人様の醜態を見ると、改めて醜い酔い方だけはするまいと心に誓ったりしている今日このごろである。
2002 / 01 / 13 (日) ¦ 固定リンク
新年(齢) 新年(齢)
新年が明けてしまった。子供の頃は正月は楽しい行事のひとつだったが、おっさんになると特に楽しくもなく粛々と迎える行事になってしまった。これでまた確実にひとつ歳を重ねるという意識の方が強いわけである。ここまできたら、それが憂鬱なわけでもないが「わーい、お正月だー」とはしゃいでばかりもいられないのである。
以前の雑感で視力が衰えていないことを書いたが、最近は少しずつ衰えはじめているようだ。長時間 PCの画面を見ていると遠くの景色がぼやけて見える。初めての経験なので最初はその現象が理解できずに目をゴシゴシこすっていた。それが毎日続くため「もしや」と思い片目ずつで遠くを見ると右目が特にひどいのである。「遂にこの時が来たか」と少しがっかりしていたが、よく考えてみると過酷な条件のもとで酷使してきたのだから我が眼球もよくぞ長年耐えてくれたものだと感謝しなければいけないと思うようにしている。
白髪も多いし腹も出ているので、どこからどう見ても間違いなく”おっさん”なのだが、それを自覚したのはほんの数年前からである。よく言えば気が若く、悪く言えば精神年齢が低いのか、年下の人とも違和感なく会話できていたつもりであるし、若い人が着ている服を見ても特に抵抗感はなかった。
ところが数年前から若い人の会話が理解不能になってきた。最悪の場合は聞き取る事すらできない。耳まで遠くなったわけではないが、会話中に知らない単語や解読困難な略語が多く登場するため、脳の処理が追いつかなかったり、処理が停止してしまうのである。
ファッションにしても最近は理解の範囲を超える格好をしている若い人を見る。梅田を歩いているとパンツ(ズボン)を腰よりも下に引っ掛け、まるでずり落ちたようにして履いている男の子を何人も見かける。パンツの股がヒザぐらいのところに来ており、とっても歩きづらそうなのだがそれはファッションであるらしい。3-4人固まって歩いているのを見るとまるでペンギンの群れのようである。
昔「短足」と言えば屈辱的な欠点のひとつであったが、最近の若い人は確実に背も高く足も長い。電車などで隣り合わせになると若い人の腰が自分の腹くらいの位置にあってびっくりすることも多い。しかし、今のファッションであれば足の長さなどどうでもいいように思うのだが、今でもやはり足の長さを気にするのであろうか。それすらも理解する事ができない。
感性や感覚が若い人と合わなくなってきていることも”おっさん”になった証拠であるが、体力や運動能力が衰えてきているのも”おっさん化”を自覚する要因になる。子供の頃は足も速く、瞬発力、跳躍力などどれをとってもクラスでは上の方だった。球技は好きではなかったが、スキー、スケートなどは下駄のようなものだった。
一度自転車に乗ることができるようになると、二度とそれを忘れることはないと言う。何年間のブランクがあっても乗る気になれば乗れるものらしい。実際に 10年間ほど自転車に乗っていなかった時期があるが、10年後に何の苦労もなく乗れることができた。
それと同じようにスキーやスケートも感覚的には覚えているし、イメージでは簡単に滑ることができるような気がしている。しかし、現実にはイメージ通りにはいかないのかも知れない。頭の中にある感覚はあくまでも当時のものなので、当時のままの体形、体重、体力でなければならない。体形も変わり、体重も増え、体力が衰えた現在ではイメージ通りにいくはずがないと弱気になっている。
去年あった選挙で近所の小学校に投票に行ったとき、投票を終えて校舎から外に出た瞬間に鉄棒が目に飛び込んできた。その時に「今でも逆上がりができるのだろうか?」という疑問がふと過ぎったのである。子供の頃は逆上がりなど朝飯前だったので感覚的にはできそうな感じだ。
おもむろに鉄棒を握り、当時の感覚のまま逆上がりを試みた。・・・が、それは失敗に終わってしまった。自分の体はイメージとはかけ離れて重く、腕の力は衰えている。「こ、こんなはずでは・・・」と鉄棒を握ったまましばし呆然としていた。逆上がりができなくなってしまった事に少しうろたえてしまったが、すぐ気を取り直してイメージを修正した。地面を蹴る強さ、腕で体を引き寄せるタイミングを現在の体重、筋力に置き換えて二度目の挑戦である。
一度は失敗した逆上がりであるが、二度目ですぐに成功することができたので、やはり体が覚えているようだ。ざま〜みろ!と鉄棒に向って胸を張ってやった。このようにすぐに修正して感覚を取り戻せるのであればスキーだってスケートだってできるはずである。しかし、転んで怪我でもしたらと考えるとちょっとスキーやスケートは・・・などと思ってしまう。
そんなことに臆病になってしまうのも”おっさん化”した証拠だったりするのかもしれない。
2002 / 01 / 06 (日) ¦ 固定リンク