かしこいカラス かしこいカラス
「子供は遊びの天才である」とは誰の言葉だったか。近所の空き地から聞こえていた”天才”たちの声が冬の訪れとともに消えてしまった。寒い外で遊ぶよりも暖かい家の中でぬくぬくとして遊んでいるのだろう。「子供は風の子」という言葉は死語になってしまったのかもしれない。
今は玩具が豊富にあるので家の中でも退屈しないのであろうが、本当にそれで良いのか考えてしまう。昔の子供は本当に「遊びの天才」だった。大人が企画し、作り出した道具などなくても朝から晩まで遊んでいることができた。石ころひとつ、釘の一本、紙一枚、木の枝一本、とにかく何かがあればそれを道具として自ら遊びを創り出す。その遊びのルールまでも子供同士の協議によって決定していたものである。
しかし現在は TVゲームにせよ、ベイブレードにせよ大人が道具を用意してルールまでも設定している。子供たちに創造の余地はない。これでは子供の創造力や想像力が失われてしまうのではないだろうか。失われると言うよりも育たないというのが正確なのかもしれないが。
現在の教育制度改革では「日本の子供はつめこみ教育の犠牲者」と定義され、学習指導要領は”ゆとり教育”路線へまっしぐらである。しかし、1993年から本格的に導入された”ゆとり教育”は学力低下を招いていると問題視されている。今年春から実施予定の新要領では内容が約 3割減ることから、更なる学力の低下が心配されているのであるが、それは当然のことだと思う。
ただ闇雲に勉強時間を減らせば良いというものではない。短時間で詰め込まれるだけという結果になりそうな気がするからである。短時間に詰め込むことができる子供は優秀で、それができない子供達は落ちこぼれていくという状況になってしまわないだろうか。
それよりも道具から遊びを創り出すように、教えられたことを応用するような場を提供することの方が重要に思える。足し算、引き算を習ったら教科書に載っている問題を解くだけでなく、子供たちが”店員さん”と”お客さん”になって買い物などをする遊びをさせておけば良い。”店員さん”は”お客さん”が買った品物を足し算で合計し、受け取ったお金から引き算をしてお釣を渡すので充分に復習になる。”お客さん”も予算を決めておけば買い物をする時に足し算、引き算が必要になってくる。
基礎的な教育時間を 3割減らしても習ったことを応用する時間、つまりは学習指導要領にはない先生や生徒が自由に応用学習する時間を増やすことで教育の質を向上させるべきだと思う。生徒が遊んでいる姿を見れば、詰め込んだ内容を理解しているかも判断しやすい。計算できなかったり、迷っている生徒がいれば先生がもう一度教えてあげれば良いのである。
・・・などと書いているが、まともな学校生活を過ごして来たわけではないので自分には偉そうに語る資格などないのかもしれない。しかし、最近の若い人はいろんな事を知っていても、それを応用する力や物を創り出したりする力は劣っているように思えてしかたがないのである。
話を表題に戻すと、子供ではなく道具を使って遊びを創り出しているカラスを二度目撃した。通勤のため線路沿いの道を歩いていると一羽のカラスが上空を旋回している。上から糞でも落とされたら嫌だなと思いながら見ていると、駐輪場の屋根が「ガン!ガラガン!」とすごい音を立てた。当然中にいた人達は「わぁ!」とか「おぉぉ!」とか言って驚いている。たまたま横を歩いていた自分もビクッとして立ち止まるくらい大きな音だった。
それから数カ月して同じ道を歩いていると、線路にいたカラスが飛び立った。空高くまで舞い上がったカラスが何か落とすのが見えた。その途端に駐輪場の屋根が「ガン!ガラガン!」とすごい音を立てた。不幸にも中にいた人達は例によって大騒ぎである。すると上空を旋回していたカラスが「カァ〜」と鳴いてどこかに飛び去ったのである。
あのカラスは明らかに故意にやっていると思う。線路に敷いてある石を拾い、上から落として人間を驚かせているのである。普段は不気味で憎々しいカラスだが、それを見て思わず笑ってしまった。そして、子供のイタズラみたいだとも思った。冒頭で触れたように昔の子供はイタズラをして近所の大人に叱られもしたが、何でも遊びの道具にしたり新しい遊びを創り出したりしていた。
良くも悪くもそういう遊びが創造力や想像力を養っていたに違いないと昔の子供だったおっさんは考えているのである。
2002 / 01 / 20 (日) ¦ 固定リンク