順序

今国会では企業での女性登用を増やすため、仕事と家庭の両立を支援する助成金の制度や税制上の措置を拡充していくことを検討するとのことだ。

働きたいのに働けない女性が約 300万人以上いるといわれており、アベノミクスの 3番目の矢である 『成長戦略』 の中核が女性の活躍であることから様々な措置を講じるということらしい。

しかし、ものには順序というものがあるだろう。

確かに男女共同参画、男女雇用機会均等法の観点からも女性の社会進出、女性の登用は積極的に進めるべきだとは思う。

が、しかしである。

働きたいのに働けない女性が約 300万人以上いるということは、少々乱暴な計算ではあるが 2013年現在の出生率 1.41を掛けた場合、423万人の子どもがいるということになり、それだけの数の子どもを預かる施設が必要になるのではないだろうか。

横浜では待機児童数が 0になったと大々的に発表した途端に転居者が増え、どんどん人が集まってくるものだから一瞬にして待機児童数が増えてしまったと聞く。

それだけ保育所、保育園などに子どもを預けて働きたい人がいるということなのだろうから、助成金や税制で女性を優遇したところで家庭から出るに出られない人が減る訳ではないだろう。

だとすれば税収を減らしたり予算をつけても無駄に終わる危険性が高い。

アベノミクスによる景気浮揚を実感している企業が 40%止まりである現在、また、相変わらずの就職難で大学の卒業生が戦々恐々としたり右往左往している昨今、さらに業種や企業によっては今でもリストラが続き、千人単位での人員削減がなされている今、働きたい 300万人の女性が一斉に手を上げたところで雇用の受け皿があるはずもなかろう。

予算のバラマキは税金の無駄遣いでしかないのだから、本気で 300万人の女性に社会進出してもらいたいのであれば、まずは残り 60%の企業にも好景気が実感できるくらい経済を安定させて雇用を増やさなければなるまい。

さらに思い切った規制緩和を実施し、公共施設等の建設、維持管理、運営等を民間の資金、経営能力、技術を活用して行う PFI(Private Finance Initiative:プライベート・ファイナンス・イニシアティブ)と呼ばれる方式で託児所や保育所を増やして全国津々浦々にまで待機児童数 0を広げなければならないものと思われる。

そこまでやって、やっと子どもを持つ女性が社会進出する環境が整うというものであり、それこそが現実路線であって個人を支援するための支出は最後の一手ではないだろうか。

全国のあちらこちらで託児所や保育所を作れば建設業界だって潤うだろうし、大量に保育士を必要とするので雇用も生み出し、施設で子どもたちが使う教材や玩具も売れ、仕事で弁当や晩御飯を作る時間がなくなった家庭では外食が増えたり冷凍、レトルト食品の購買率も上がるかもしれない。

自然エネルギー開発に負けず劣らずの成長産業となって多大な経済効果をもたらす可能性すら秘めているかも知れないのだから、ここは小手先だけではなく社会を作り直すくらいの覚悟を持った、思い切った施策が必要なのではないだろうか。

日本の政治家や官僚は、聞こえの良いことや見栄えの良いことばかりやって結果的に何の成果も残らず、単に予算を使っただけということが数多くある。

助成金、優遇税などと個人が実感しやすく、共感を得やすいことばかり提示せず、たとえ回り道であっても、会社ばかり優遇されると文句を言われようと大局的見地に立ち、抜本的な対策を練らなければならないだろう。

すでに労働人口の減少に転じ、国際競争力も失いつつある日本企業にとって女性の登用は待ったなしの状況なのだから、政治もグズグズしている場合ではないのである。

真性雑感 第六版

真性雑感 ~目次~

この真性雑感と銘打つ時は、そう、ネタがない、思いつかない時である。

今週は久々にプログラミングを再開し、途中までは順調に進んでいたものの、最後の最後で行き詰まり、どうにもこうにも正常動作してくれないという事態に陥っていたため、とっても疲れたし世間の出来事に関心を示したり何かを思ったりする余裕がなかった。

そもそも、最近のニュースは好景気であることを伝える以外は実に腹立たしいことが多く、見ていて気分が悪いのでチャンネルを変えてしまうことが多い。

韓国がアメリカでロビー活動を激化させ、バージニア州で公立学校の教科書に 『日本海』 と韓国の呼び方である 『東海(トンヘ)』 を併記するよう定める法案が委員会で可決されたり、アメリカの各所に従軍慰安婦碑を建立したりしていることや、中国政府が北京などに駐在する外国メディア記者を対象に抗日戦争記念館を案内し、旧日本軍の残虐行為を宣伝・強調するプレスツアーを実施したりしているのを知らされると、
「中国も韓国もいいかげんにしなさいっ」

とツッコミのひとつも入れたくなるし、以前の雑感に書いたように最近になるまで抱くことのなかった差別意識や偏見が心の中で肥大化してくるのを抑えることが難しい。

竹島、尖閣問題にしても、有識者と呼ばれる人たちは対話こそ重要などと偉そうにぬかすが、海洋資源、海底資源までも含む領有権の争い、平たく言えば縄張り争いなのだから話し合って解決するはずがなかろう。

だからと言って戦争で解決することなどできるはずもないのだから、ここは国際的な審問機関である国際司法裁判所に判断を委ねるのが妥当なのだろうが、韓国も中国も現時点において委ねる気などさらさらなく、世界中でロビー活動を展開し、各国を味方につける根回しから始めて将来的な裁判を有利に進めることを目指している。

しかし、日本はどうもそういう外交が苦手だったり下手だったりするので、上述した教科書問題や慰安婦碑問題に関しても発覚するまで安穏としているばかりであり、事が起きてもうろたえるのが先に来て手も足も出ないという実に情けない国家だ。

そんなこんなで苛立たしさや腹立たしさが増すばかりなので最近はニュースも見たくない。

で、もっぱら海外ドラマを見たりスマホのゲームをしたりしながら過ごしているのだが、それというのも地上波のテレビ番組、ゲーム専用機のソフトがつまらなくなったからだ。

この雑感や独り言に何度も書いているように、最近のテレビは本当に面白くなく、録画してまで見たいと思うドラマやバラエティー番組は極めて少ない。

以前はアメリカに住む義兄に日本の番組を見せてやりたいということと、自分たちでも楽しんで見ていたこともあって週に何本もの番組を録画し、週末にそれを消化するのが大変だった。

それが今では数えるほどしか録画しておらず、その内容も政治・経済に関わる番組や情報番組ばかりでバラエティー番組が 1-2本、ドラマの録画は無しといった内容で、去年ブレイクした 「倍返しだっ!」 の半沢直樹も 「じぇじぇじぇ~」 のあまちゃんすらも見ていない。

その二本は別として最近の国内ドラマは医療モノと刑事モノで溢れているが、どれもこれも海外ドラマのマネ、悪く言えばパクリばかりでオリジナリティのカケラもないとネットの記事で読んだ。

そんなことばかりやっているから益々業界は衰退し、企画力も構成力も失われていくに違いなく、以前の雑感に書いたようにテレビ局が単なる電波の配信屋さん化していくのが顕著になって行くのは避けられないだろう。

ゲーム業界は業績の好調さにあぐらをかいているうちにスマホ業界に足をすくわれてしまった感が強く、よもやここまで急速にスマホが普及し、山のようにゲームが作られ、ゲーム専用機のソフトの 1/10くらいの価格で売られるとは思っていなかったに違いない。

CDや DVD、BDメディアの莫大な容量を好き放題に使える専用機のゲームと異なり、スマホのゲームは実にコンパクトに小さなプログラムで動作する。

そこには目を見張るようなコンピュータ・グラフィックスや映画さながらの動画はなく、単に面白く、アイデア勝負のコンセプトが詰まったゲームが数多くあり、低価格ながらも十分に楽しく、中には専用機を凌駕するような秀逸なゲームも存在する。

しかも、その価格が 80円とか 120円、高くても 250円であり、中には驚くほど良く出来たゲームが無料配信されたりしてる状況にあっては、いくら専用機にしかない魅力を強調されてもスマホと変わらない価格でゲーム機本体を購入し、月額のパケット代に匹敵する価格の面白いか面白く無いか分からないソフトを何本も購入するユーザーは今後もますます減る一方だろう。

以前まで世に出たゲーム機をすべて保有し、寝るのも忘れてゲームにのめり込んだ自分だが、もう 7-8年はゲーム機の電源すら入れていない。

時代も生活も多様化し、テレビの前に長時間座っていたり、時間を忘れてゲームすることが少なくなったのは確かだが、テレビ業界、ゲーム業界が時代を読み違えたのも確かだろう。

うかうかしていると、これから先 10年で時代はすっかり様変わりし、その変化について行けなくなったりするのではないかという若干の不安を自分でも感じつつ、今日のところはこれくらいで勘弁してやることにする。

デジタル化の波 Signal-14

デジタル化の波 ~目次~

写真や動画のデジタル化は社会を大きく変えた。

ネット環境が急速に整い、大容量なデータを高速に転送できるようになったことも大きな要因だが、その技術革新によって世の中はずいぶん便利になったものだ。

どこでも手軽に、そして簡単に画像を撮影し、電波さえ届いていればどんな場所からでも、そして国内はおろか地球の裏側にさえ短時間でデータを送信できる。

その画像にデジタルな文章を添えれば記事の出来上がりとなるのだから新聞社などは劇的に仕事が楽になったことだろう。

昔、映画の配給会社などは文字通り 16ミリや 35ミリフィルムを物理的に配給していたが、今となってはデジタルデータを転送すれば良いのでマスターフィルムから転写する必要もなければ何日もかけて輸送する必要もない。

そして、海外の作品に刻む字幕もデジタル処理できるので以前のようにカリカリと手作業する必要がなくなり、職人さんは仕事を失ってしまっただろうが作業時間は劇的に短くなっただろう。

そもそも動画自体をコンピュータ・グラフィックス(CG)で作成できるため、どんな危険なシーンでも作り出すことがきるのでスタントマンの仕事も激減したのではないだろうか。

どんな生き物だろうと、どんな乗り物だろうと、どんな風景だろうと CGで作成できるので最近の映画は昔では考えられなかった演出や映像を楽しむことができるのだが、技術の進歩に反比例するように映画がつまらなくなっているような気がする。

人の手によって物理的に作られた物の質感とか温かみなどは CGで表現することができず、映画に血が通っていないように感じてしまうのだろうか。

昔の修学旅行、社員旅行では数日後に撮られた写真が回されて来たもので、ほしい写真に自分の名前を書いたり印鑑を押したりしていた。

胴元というか、その写真を管理する側は記された名を数えて必要数を写真屋さんで焼き増し、希望者ごとに必要な写真を振り分けた上で配り、後に代金を回収したものである。

今となってはそんな手間は必要なく、ネット上に写真を掲載しておけば写真がほしい人は勝手にデータをダウンロードするなり印刷するなりすれば事は足りる時代になった。

それはそれで便利この上ないのだが、人間関係が希薄化してしまうようで少し寂しい気もしないではない。

デジタル技術は社会や時代を変え、とても便利になっていくし、自分もその業界の片隅にいたりするのではあるが、どこかに不安やさみしさを感じてしまうのはなぜだろう。

きっと時代の流れ、技術の進歩があまりにも早く、感覚的について行けない年齢になりつつあるのも一因であると自覚はしているのだが・・・。

2014年の始めに

昨年末からダラダラとした日々を過ごし、身も心もトロントロン状態で間もなくカスタードクリームのようになるのではないかと思われるほど超ゆるゆるな環境に身を置きっ放しであるから、リハビリもなしに週が明けた 6日からもろに 5日間続く平日を無事に乗りきれるのか多少の不安もなきにしもあらずといったところである。

ゴールデンウィークや夏季休暇の際にも同じようなことを書いているように、明日の日曜日に帰省先から帰ってきたり、海外から帰国したりする人も少なからずいることだろうが、それがいつも不思議でならない。

昨日のニュースで伝えられたように火災や事故で交通機関がマヒすることだって想定されるし、とくに冬は気象条件によって陸海空の交通がマヒすることも少なくないのだから、仕事の前日に帰宅を予定するのは危険極まりないのではないだろうか。

おまけに何のインターバルもとらず、リハビリ期間もなしに翌日になれば疲れもとれて体力が回復し、スパッと気持ちも切り替えて仕事に臨めるのだろうか。

自分にはとても信じられないことではあるが、実際にはそれが可能な人が多いのかもしれない。

かなり前に勤めていた会社では、若い社員が集まって夜行バスに乗って遠く離れたスキー場まで行き、朝から晩まで遊んで帰りも夜行バスに乗って車中で睡眠をとり、朝の 5時くらいに市内に戻って一旦は帰宅し、着替えてそのまま出社するという離れ技を難なくこなしていた。

いや、中には疲れ果てて居眠りをする社員もいたので全員ができたことではないし、朝 5時着など吹雪でバスが立ち往生すれば団体で会社に遅刻してしまうというリスクを伴うではないか。

いくら体力や精神力に自信があったとしても、やはり少しは余裕のあるスケジュールで行動するのがよろしいのではないかと気が弱くて体力に自信のないオッサンは思ったりするのである。

昨日の夜で御節料理を食べ尽くしてしまったので今日からは普通食に戻るが、土曜の夜はパスタと何年も前から決まっている我が家のしきたりであるし、日曜日の昼は蕎麦を食べるというのも同様なので米に味噌汁という通常食にもどるのは明日の夜からだ。

北海道では大晦日の夜から御節料理を食べる家庭が多いが、我家の場合も前日の 30日から料理の仕込みを開始し、31日にはだし巻き卵の端やカマボコ、伊達巻きの端、煮崩れた料理や割れてしまった数の子などを集めて三箇日に食べる量とほとんど変わらないくらいの料理を食べ始める。

つまり、大晦日の夜から 1月 3日まで夜は御節料理を食べ続け、三箇日の昼は雑煮を食べ続けることになるのだが、それだけ食べても不思議に飽きることはないどころか、1月 3日の最後の夜などは名残惜しくて仕方がなく、『お買い物日記』 担当者と二人でしょんぼりしたりするのだ。

食べ飽きないのが日本食の偉大なところであろうかとも思うが、そもそも自分の好きな味付けのものしか並んでいないので飽きが来ないのだろう。

もちろん数の子を自分で味付けたり、魚のすり身からカマボコを作ったりする訳ではなく、買ってきたものを切って並べるだけというものもあるにはあるが、品数の半分、食べる量の 7割以上は手作りしている。

それというのも既成品の中には苦手な味付けのものがあり、少し口をつけただけで捨ててしまうことが以前から何度もあったからだ。

保存性を考慮してのことだろうが、必要以上に味が濃かったり甘すぎたりするものが多く、中には保存料をたっぷり使用しているのか化学の味がしたりするものがあったりで、飽きる以前に多くを食べることができない。

そんなこんなで、あれも手作り、これも手作りとしているうちに少しずつ作るものが増えてしまい、今では年末の 29日から下準備を開始して 30日は朝から晩まで、31日も食べ始める直前まで料理している。

幸か不幸か自分は包丁を使えるので、『お買い物日記』 担当者と二人で二日間はキッチンに立ちっぱなしというのが毎年のことだ。

出来上がったものは大晦日と三箇日の 4日分に小分けして保存するので、朝昼兼用の雑煮は出汁を温めてもちを焼くだけ、夜の御節は盛りつけるだけで食事にありつけるため、それ以外はただひたすらダラダラと過ごすのが我が家の正月である。

そのダラダラはゴロゴロしながらテレビを見て過ごすのが常だが、年を追うごとに見たい番組が少なくなっているのが寂しい。

5-6年前まではクリスマス時期から始まる年末年始の特番を何本も録画し、休みになってから見始めるものだから年が明けてもクリスマス特番を見ることになったり、正月特番を見終わるのが 10日くらいになるので、いつまで経っても正月気分が抜けなかったりしたものだが今はそれが極端に少なくなっている。

今回の年末年始も毎年恒例となっている特番から卒業することにした。

一応は録画して見てみたのだが、全体の 1/4ほど見た段階でギブアップし、来年からは録画の必要はないと判断するに至ったので、もう二度と見ることはないだろう。

そんな感じで我が家の年末年始の過ごし方も少しずつ変わってきている。

そして次回の年末年始は・・・。

とりあえず作る御節料理の量を減らさなければなるまい。

いい歳をして腹が割れそうになるまで飲み食いし、毎晩のように胃薬を飲んで寝ている場合ではないのである。

ここ数年、いつも来年こそは量を減らそうと 『お買い物日記』 担当者と話してはいるのだが、いざ作り始めるとついつい例年通りの量になってしまうということを繰り返しているので、次回こそ、次回こそは量を減らすことを宣言しつつ、今年最初の雑感を終えようと思う。