真性雑感 第四版

真性雑感 ~目次~

例によって、これといった題材がないので今回も思いつくまま気の向くままに。

今月で北海道に帰ってきて丸 5年が経過し、ようやくこの街にも根付いてきた感じではあるが、超高齢となった母親をいつまで一人にしておくかという問題もあり、いつ、どのタイミングでどうすべきかと考えなくもないが、やはりまだ老人と同居するような生活は送れないだろうと思ったりしている。

なにせ母親ときたら、夜の 7時や 8時には床につき、朝の 3時や 4時に起床する生活をしており、一つ屋根の下で生活するのは困難極まりないと言わざるを得ない。

夜の 7時と言えば仕事が一段落し、ブログ更新の準備にとりかかる頃であり、8時から晩御飯というのが今の生活で、それから海外ドラマなどを観て歯磨き洗顔、その日のニュースを見ながらブログ更新し、就寝は 0時を過ぎてからというのが日常だ。

時計の針を動かすように、グリっと 5時間ほど生活パターンをずらせば同居も可能かもしれないが、NHKの 7時のニュースを見ながらブログ更新して就寝という生活パターンを思い描くことすらできない。

昨年の帰省の際に、まだまだ同居する気はないと伝えてあるので母親も期待などしていないと思われるが、その日が来るのが一日でも先延ばしになれば良いと心底願っている。

多少は足腰が弱ってきたものの、実年齢よりはるかに若く見える風貌と、いつまでもよく聞こえる耳、あまり低下しない記憶力、鋼鉄のような胃袋の持ち主であるので当分は一人で生活することが可能だろう。

その若さと記憶力の維持には食生活が大きく関わっているのではないかと想像している。

朝食は、ほぼ 365日間いつも鮭を焼いて食べており、残すのは骨だけで皮もすべて胃に押し込んでしまう。

それを何十年も続けているからか医者からカルシウム不足を指摘されたこともないし、青魚の半分程度とは言え DHAも多く含まれるので視力や記憶力の衰えも表れないのかも知れない。

そこで、少しは母親を見習って我が家でも鮭を食べようと思ってはいるが、何せ朝はパン食なものだから毎日の食卓に登場させることは難しく、どうしたものかと考えているところだ。

早いものでもうすぐ 2月も終りとなる。

少しずつ日が長くなり、もう少しで朝の陽の光で朝刊が読めそうな感じだ。

今は今季最後と思われる寒波が来襲して異常に寒い日が続いているが、これが終われば春は目の前だろう。

ここ数年、北海道にとっての春である 5月くらいから秋まで大葉とバジルを育てているが、今年は大葉をやめてバジルを 2鉢にする計画だ。

大葉は割りと安価で手に入るし、バジルより育ちが悪いので育て甲斐がない。

バジルは生でパスタにしてもよし、天日干しにして乾燥させ、料理に使うもよしという便利さに加え、乾燥ハーブ類は購入すると割りと高額なのにも関わらず、自分で乾燥させたものより風味が劣るので、一度栽培するとやめられないのである。

そして、我が家では毎週パスタを食べるし、朝のパンでバジルを使うことも多く、それ以外にもトマト煮系の料理も好きなのでバジルの消費量が多い。

去年の収穫で乾燥させたバジルはまだあるものの、少し遠慮しながら使っているのも事実なので、今季は倍の量を育てて乾燥バジルも大量に作り、一年を通して遠慮なくふんだんに使おうという魂胆だ。

それと併せて料理にはパセリも使うことが多いので、今年はイタリアンパセリも育ててみようと思っている。

数年前、地元の農家さんが育てたイタリアンパセリを直売場で購入したところ、生のまま 3-4カ月は冷蔵庫で保存できたので、収穫量によっては年をまたいで食べられるかもしれない。

と、ここまで書いて上述した 『ふんだん』 という言葉が気になった。

もちろん、沢山、たっぷり、多くという意味は知って使っているが、どのような漢字を使うのか思い浮かばなかったので調べてみると、『ふんだん』 は 『ふんだん』 であって漢字はないようだ。

絶え間なく続くことを意味する漢語 『不断(ふだん)』 が音変化したものらしく、途切れることなく続くということから物が多くあるという意味になったらしい。

またほんの少しだけ賢くなれたところで真性雑感は終わりである。

浮揚感

日本の、そして一部の地域や業界では、いわゆるアベノミクスと呼ばれる自民党安倍政権の景気浮揚策に乗じて投資を拡大して春間近と期待しているようだが、北海道の、それも中心都市ではない田舎に暮らしていると何の実感もなく、浮揚感が地方に波及する前に景気減速におちいるということが過去に何度も繰り返されている。

それでも景気回復を期待するというのは悪いことではない。

『気』 というくらいで、何となく良い方向に進みそうだとか、良いことがありそうだという期待や気分になるだけでも好景気への入り口なのかもしれないし、実際に財布の紐が緩むというものだ。

今どきの財布にヒモなどついているはずもないが、相変わらず財布の紐が硬いとか緩むとかいう表現を使うのは他に適切な表現がないからなのかと思ったら、同義語に財布の口が固い、緩いというのもあった。

どんな財布にもお金を出し入れする口はあるので、現代においては財布の口とするのが良いのではないかと一人で思って納得したりしている。

それはさておき、アベノミクスなどとカタカナで表そうと、実のところは以前までの自民党型バラマキ政策と大きな違いはなく、あいかわらず公共事業に何兆円とか真水で何兆円などと自慢気に中身を披露しているが、真水で何兆円だろうと官僚が支配する財団、公益法人、外郭団体に数兆円が流れ、下流である民間まで流れ着く頃には半分以下に目減りしているに違いない。

景気浮揚策の一つが規制緩和だとか言いつつ、ネット通販の裁判で負けた市販薬の扱いに関して法律で規制しようと動いてみたり、言っていることとやっていることがバラバラなのでイマイチ安倍ちゃんは信用できず、結局は業界団体と、それに寄生する族議員、官僚の呪縛から逃れられなさそうだ。

従来とは異なる手法だの何だの言ったところで、カンフル剤の種類を替えたに過ぎず、世の中の仕組みを根本から組み立て直すというほどの治療ではないので、今回の補正予算で多少は景気が上向いたとしても長続きするとは思えない。

また、過去の轍は踏まないのが賢いやりかたであるにも関わらず、少し景気が持ち直して参院選で勝利すれば完全自民党型政治に逆戻りするばかりか、日銀は金融緩和を控え、消費税の増税の追い打ちで一気に景気が減速するという典型的なパターンになるような予感がする。

バブル景気とまでは言わないが、本格的に景気が回復し、それが持続可能と判断されるまで増税を待つべきだと思うが、財政難を理由に待ったなしで消費税率を引き上げてしまうことだろう。

浮揚感とは、文字通り浮いた感じなので、そもそも不安定な状態でもある。

高速エレベーターの下りで少し体が軽くなったような、絶叫マシンのフリーフォールで一気に落下して体が浮いたような、胴上げされて頂点に達した時のような、気持ちが良いようで実はとてつもなく不安定な状態が長く続くはずはない。

我が世の春を謳歌してきた中国ですら景気に陰りが見え始めたし、信じられないほどの金が動いていたドバイも総崩れした今、シェールガス特需に湧くアメリカの景気回復に賭けるしかない世界情勢ではあるが、日本はその一翼を担うことができるだろうか。

この浮揚感は安倍政権による参議院選挙までの繋ぎ政策であって、そこで大勝すれば官僚の言いなりとなって一気に緊縮財政、増税へと舵を切りそうな気がする。

そんなことをすれば、また政権交代が起こるという恐怖感は今の自民党にはないだろう。

何せ民主党があのザマで、第三極もまとまりきれずにいるのだから。

偏見

育った環境が要因かもしれないが、子供の頃から差別意識や偏見を持つということが一切なく、人が一部の人をなぜ忌み嫌うのか理解することができなかった。

また、北海道は歴史が浅く、大多数の人が移民であるため雑多な文化が入り混じっており、それぞれを尊重するためか、逆に確固たる信念がないためか、文化や作法が違ったとしてもさほど気にすることもない。

それゆえに北海道の人は大らかだと言ってもらえるが、実際には人のことなどどうでも良いだけかもしれないのである。

そんな環境で育ち、そんな環境で暮らしていたので大阪に越して生活を始めた時、周りの人が出身地や家柄に一方ならぬ興味やこだわりを持っていることに驚いてしまった。

どこの誰は、何々家の末えいだとか、どこの誰の何代目だとか、何々藩のどこそこの誰の子孫だとか、自分にはどうでも良い情報を丁寧に教えてくれる。

北海道に住んでいると身近に感じたことなどない部落差別も明らかに残っているようで、誰それはどこそこの出身だとか、先祖はあそこからあっちに逃げた誰だとか、これまた自分には興味のないことを知らせてくれるのだ。

しかし、そもそも差別意識などなく、子供の頃からそういった情報に触れていない自分にとっては誰の先祖がどうだとか、どこそこの出身だとか教えられても、それが意味するところを理解できないので、ポッカ~ン状態となってしまい、それを自慢気に話していた相手は 「ありゃ」 という表情になり、こいつに言っても無駄だと悟ることになる。

障害者に偏見の目を向ける人もいるが、それも理解できない。

自分から積極的に関わる気も福祉に興味がある訳でもないが、だからと言って拒絶する気も否定する気もなく、普通に生き、普通に生活している人としか思っていない。

通った中学校には障害者の通う特別学級が併設されており、校舎を分けることなく同じ建物の同じ廊下に 1組から 6組、そして特別学級の 1クラスが並んでいた。

廊下を歩けば障害者とも会うし、トイレだって洗面所だって体育館だって一緒に使うが、自分も含めて誰も障害者をからかったり、いじめたり、悪口や陰口を言うことはなかったので、成長の過程で偏見や差別の対象にならなかったのだろう。

日本の最北端、稚内(わっかない)市に父方の祖父母が暮らしていたので、夏休みと冬休みにはいつも遊びに行っていた。

今は引き上げてしまったが、当時はアメリカとソ連(当時(現ロシア))が冷戦時代だったこともあり、今の沖縄のように米軍基地や施設が各所に点在する町で、港には軍艦や戦艦も配備されていたものだ。

町では兵隊さんが闊歩し、肌の白いのから黒いのから黄色いのまで様々な人が普通に生活していたのを見ていたので、人種に対する偏見も芽生えなかったのかも知れない。

また、生まれ育った小さな町には他国の生徒が通う学校もなかったので、そもそも接点がなく、差別する機会すらなかったというのが正確なところだ。

したがって、在日韓国人や中国人を差別したり、偏見を持っている人が多いことに驚かされた。

これが一定以上の年齢の人であれば以前の日本の教育水準からして無理もないことかもしれないが、自分よりかなり年下であっても偏見の目を持つ人が多い。

今でこそ韓流スターブーム、K-POPブームなどがあったので差別意識もかなり減っただろうが、つい最近まで自分にとっては驚くほどの人が中国、韓国の人を嫌っていた。

人を嫌うのも悪口を言うのも、それ相当のエネルギーを必要とするので、自分には差別意識などなくて良かったと思っていたのだが・・・。

中国での反日暴動、尖閣諸島をめぐる対応、反日教育、韓国での反日デモや竹島問題を伝える報道を見るにつけ、中国と韓国に対する今までなかった感情が、それも決して褒められたものではない感情、差別意識や偏見が自分の中に生まれつつある。

今までなかっただけに、そんな感情を持つことが実に悲しい。

犬たちのいる風景 2013冬

隣に住んでいたワンプが引っ越したのは去年の7月

近所に住む犬のテリーくんは、まだワンプが帰ってくると思っているのか、しばらくの間は散歩の途中に犬小屋のあった場所まで入っていって様子をうかがったりしていたらしく、昨年の暮れまで雪に足あとを残していた。

雪が積もってからは足あとが続くことはなくなったが、奥に進むことができないだけであり、ワンプのことを忘れた訳ではないと思われる。

テリーくんは何年も前に飼われていてすでに死んでしまった友だちのことも覚えていて、いつも散歩の途中に犬が飼われていた場所を見に行くのだそうだ。

北海道に帰ってきてもうすぐ丸五年、その間に近所に住んでいた三匹の顔見知りの犬が死んでしまったが、テリーくんは何匹の友だちを失ったのだろう。

映画 『わさお』 によく似た大型犬をたまに見かける。

もちろん勝手にわさおと呼んでいるが、その犬が神出鬼没で、朝の散歩の途中、買い物の途中、様々な場所を歩いているのを目撃する。

我が家も月曜から金曜まで違うコースを散歩するので神出鬼没だと思われているかも知れないが、きっと飼い主であるお父さんは無理にリードを引っ張ることなく、わさおの気の向くままに歩かせているのだろう。

散歩の第二、第五コースで歩く小学校の裏の遊歩道、それと並行して流れる小川の向こうに飼われている雑種犬も可愛らしいやつだ。

独り言に川向うの犬と書いている犬のことだが、実は間近に見たことはない。

場所は川向うの家の、さらに庭の向こう側、約 50メートルほど離れているだろうか。

毛の長いモッサリした犬で、いつも寝てばかりいるのだが、たまに体を起こして飼われている家の中をじっと見たりしている。

きっと餌をもらえる時間か散歩に連れて行ってもらえる時間が近く、飼い主が出てくるのを待っているのだろう。

お~いと呼びかけても、なかなかこちらを見てもらえなかったが、最近になってやっと匂いを覚えてくれたのか、パンパンと手を叩くと寝ていてもむっくりと顔を上げてこちらを見るようになった。

近所の動物病院で飼われているゴールデンリトリバーは子どもたちの人気者だ。

毎朝散歩しているのだが、いつも通学途中の子どもたちが周りをかこみ、一団となって歩く。

犬も子どもたちを友だちだと思っているのか、一緒に歩道橋を渡り、そのまま学校に向かって行くのだが、どこまで一緒に歩いているのか定かではない。

金曜の散歩道である第五コースの途中、アパートなのに犬が飼われているところがあった。

一般的にアパートは生き物を飼うことはできないと思うのだが、そこに住んでいた茶色の柴犬は他の住人からも可愛がられているようだった。

飼い主が一階に住んでいたので玄関ドアの横に犬小屋を置いていた。

いつも散歩時間が重なるようで、小屋の前にいる姿を数回、散歩している姿を数回しか見たことがなかったのだが、飼い主のお母さんと仲良くしているのが印象的だった。

ここまですべて過去形で書いてきたのは、その犬が、いや、飼い主さんも含めて引っ越してしまったらしいのである。

昨日の散歩は 『お買い物日記』 担当者の頭痛、悪天候、朝マックのためのコース変更などが重なり、昨年末以来、実に一カ月以上ぶりの第五コースだったのだが、その間に犬小屋ごと消えてしまっていた。

黒柴リュウくんのことはいつも独り言に書いているが、今は一番お気に入りの犬である。

リュウくんと飼い主のお母さんとの関係も実に微笑ましい。

最初、リュウくんは交差点に立って子どもたちの通学を見守ったりはしておらず、近くにある寺の広い敷地内を散歩して帰るだけだった。

お母さんはあまり足が良くないらしく、スタスタは歩けないのでゆっくりと散歩するが、リュウくんはリードをぐいぐい引っ張ることもせず、同じ歩調で一緒に歩く。

寺の境内ではリードをはずしてもらってお母さんと遊ぶ。

お母さんは石や小枝を拾い、面倒くさそうにあさっての方向に投げるのだが、リュウくんは必死に走って追いかけ、咥えて戻ってくる。

そのチョコマカと走る姿も本当に可愛い。

いつもの交差点には数人の大人が立って子どもたちが道路を渡るのを見守っているのだが、リュウくんのお母さんはそこで立ち話しをするようになって話す時間がどんどん長くなり、ついには毎朝の日課となってしまったのである。

そしてリュウくんも一緒に子どもたちを見守るようになり、ついにはユニフォームまで作ってもらったという訳だ。

実にキリッとした精悍な顔で、すくっと大地を踏みしめながら堂々と子どもたちを見守ってはいるのだが、リュウくん、実は豆柴なので背丈は大人のひざ下までしかなかったりするのであった。