食欲の秋

北海道はすでに冬の一歩手前といったところだが、全国的にはまだまだ良い季節であり、食欲の、そして味覚の秋が真っ盛りだ。

夏の暑さはそれほど辛くなく、夏バテなどありえない土地柄であるため、食欲が落ちることもないし、そもそも大阪で暮らしていた頃も暑さで食べられなくなったのは最初の二年だけで、それ以降の 11年間はどんなに気温が上がろうと、どんなに猛暑日、熱帯夜が続こうと食欲の衰えは見られず、元気にモリモリ食べて夏やせとは無縁の生活を送っていたくらいなので、北海道程度の暑さで食事がノドを通らなくなるようなダメージを受けるはずない。

それなのに食欲の秋は確実にやって来る。

北海道に帰ってくると、やはり水が合うのか食べるものが何でも美味しく感じられ、いつも腹一杯になるまで食べ続けたことと、2008年7月28日から始めた禁煙によって見事なまでに体重は増加の一途をたどり、この 3年8カ月の間に 10キロも肥えてしまったので、食欲が増進されては困ってしまう。

それでもやっぱり食欲の秋はやって来る。

定期的に診断を受けている病院でメタボ予備軍の烙印を押され、これ以上の体重増加を阻止せよとの厳命を受けてしまい、少しは体への気遣いしなければいけない自分とともに、『お買い物日記』 担当者も大きな病気をした後の経過観察で担当医から、あまり体重を増やしてはいけないと警告されているのだ。

それなのに食欲の秋はヒタヒタと迫り来るのである。

全国的に有名な秋の食材といえば松茸だが、もともと北海道で自生する数が多くないのか、子供の頃に食した記憶など皆無であるし、大人になってからも友人、知人、職場でも話題にすらならないほど馴染みが薄かった。

したがって、松茸に秋を感じることもないし、高級食材であって簡単に入手できる代物でもないので永谷園の松茸の味お吸い物があれば十分なのではあるが、それでも大阪で数回、そして去年の秋と、何度か購入して食卓を豪華な雰囲気にしてみたが、やはりそれほどのありがたみも感動的な美味しさも感じることはできず、たまの外食で一切れ、二切れ程度を口に入れる程度で良いのではないかと実感する。

そして、子供の頃は秋だからといって栗を食べることもなく、この季節に栗ご飯を楽しむようになったのは大阪で知り合いの方から立派な栗をいただき、それを食べるようになってからのことだ。

北海道では秋鮭にサンマ、ジャガイモ、玉ねぎ、カボチャなど、数えきれないくらい豊かな食材に囲まれ、地物なので味が濃く、輸入物や他府県で採れるものより価格も安いという実に恵まれた環境に身を置くとになるので、体調による食欲の増進ではなく味と値段による味覚の秋となる。

それでも最近は食事の量を控えるようになった。

『お買い物日記』 担当者と相談した結果、いい歳をして、いつまでもバクバクと腹一杯になるまで食べている場合ではないという結論に至り、まずは米の量から減らすことにしている。

その量 170グラムだったものを 120グラムと、実に 50グラムの減量となった訳で、その初日に盛られた量を見てあまりの少なさに愕然としてしまったものだ。

食後も何だか食べた気がせず、物足りなさを感じずにはいられなかったが、人間というのはすぐに順応するもので、慣れるのに三日を要しなかった。

今ではそのグラム数で満足であり、一定の満腹感を得られている。

そして休日に多く食べる麺の量、こちらも少し減らすようにはしたが、二人で 250グラムを一度に食べていたものを 50グラム減らしてはみたものの、普通は一人前が 80グラムくらいなので、まだ減らし足りないだろう。

しかし、急激に減らすのも精神衛生上よろしくないので徐々に少なくしていけば良いと思ったりしているところだ。

そんなこんで米や麺の量は減らすようにはしているものの、今の季節はジャガイモやカボチャなどが美味しく、それらには炭水化物が多く含まれるので相殺されてしまっているに違いない。

いや、減らさなければその分だけ多く摂取することになるので意味はあるのか。

とにかく、今の季節は食欲を抑えるのが困難であり、誘惑があまりにも多くて困ってしまうのは確かなことなのである。

今を生きる幸運

約42年間に渡って独裁していたカダフィ大佐が死亡するというかたちでリビアの社会主義が崩壊し、人民はみずからの手によって自由主義、民主主義を手に入れることになった。

思えば今を生きている我々は、多くの、そして決して小さくない様々な歴史的事実を目撃したことになる。

この世に生を受けても残念なことに短命で終わり、世の中の事象の多くを知らずに他界する人もいる中、歴史教科書に記されるであろう事実に立ち会えたことを、それが例え不幸なことであったにせよ大きな意味があるように思う。

例えば昭和天皇が崩御され、年号が平成に変わったこと一つをとっても、1926年(元年)12月25日から 1989年(64年)1月7日まで約63年間続いた昭和という時代に生まれ、年号が昭和のうちに亡くなった人も大勢いるだろう。

そう考えると天皇陛下が亡くなったときに国はどう動くのか、どのような行事があるのか、新天皇はどのようにして即位されるのか、また、その時に執り行なわれる儀式はどのようなものか、そして、年号はどのようなプロセスで決定され、それがどのように伝えられるのかなど、様々なことを体験し、生き証人として後世に伝えることができる。

天皇が亡くなるというのは悲しい出来事ではあるが、それを機に貨幣に記される年号が変わったり、事務書類の年号が新しいものに変わるため印刷業界が特需に湧いたり、新年号にちなんだ様々な商品が開発されたりして世の中に活気が出るのも紛れもない事実だ。

西暦が 1千年代から 2千年代にへと変わるミレニアムにも立ち会えた。

コンピュータは西暦の下二桁でしか年をカウントしていなかったので、00年になれば 1900年と解釈してしまうことによって様々な障害が発生することが予想され、その影響は人工衛星や軍事関連の機器にまで及び、誤作動によって核ミサイルが発射されるのではないかとか、飛行機の自動操縦が不能になるとか、衛星が地球に落下するのではないかという、ありもしない噂が飛び交い、世の中を大混乱させた 2000年問題も今は昔。

西暦で100年が経過し、20世紀から 21世紀になる瞬間にも立ち会えた。

21世紀には科学技術が飛躍的に発達し、人類は空飛ぶ車に乗って移動したり気軽に宇宙旅行したりしていると昔の人は予想していたようだが、四輪の自動車が排気ガスを撒き散らし、大気を汚しながら移動しているのが現実であり、最近になってやっと電気自動車が量産化されるようになった程度だし、その車が使う電気エネルギーは化石燃料に依存しているのが現状だ。

コストの安い夢のエネルギーのように言われていた原子力は、結局は人類の手におえるものではなく、人間が制御することなど不可能ではないかと思い知らされることとなっている。

その原因となった大地震も何百年に一度しか経験できないことだ。

できれば経験したくはなかったが、今の時代にそれが起きてしまったことも客観的事実として受け止めなければならないだろう。

そして、それにともなう大津波も数百年から千年に一度の規模だった。

これら不幸な出来事も回避できるものならそれに越したことはないが、大昔に起こったことが文献でしか残っていないのと異なり、正確な観測、測定データとして後世に残せるし、それを基に研究が進んで予測精度が向上して将来は的確な情報伝達、避難指示ができるようになることだろう。

話を最初に戻してカダフィ政権の崩壊、それに限らず中東で起こっている様々な民主主義運動が実を結べば、それは歴史的に見て大きすぎるほど重大な出来事だ。

鉄の掟に守られていたかに見えたソビエト連邦の社会主義の崩壊、ベルリンの壁崩壊による東西ドイツの統一も、それを待ち望んで活動していたにも関わらず、残念ながら命がついえてしまった人たちに見せてあげたい歴史の 1ページだった。

約76年周期で地球に接近するハレー彗星も見ることができたし、2003年には 6万年に一度という火星の最接近を経験できた。

昨今のような激変の時代を生きるのは容易なことではないし、辛いこと、苦しいことも数多くあるが、ここで挙げたことだけではなく、まだまだ何百年、何千年、何万年に一度の事象を体現することができている。

それは、他の時代を生きた人たちより多くの経験をできた分だけ幸せだったのかも知れないと思うようにしている。

ラジオ体操

先日の独り言にも書いたが、運動不足解消を目的として10月11日からラジオ体操を始めた。

いや、正確には再開したと言うべきだろう。

確か 2007年の終わりごろから 2008年の初めにかけて平日の毎日ラジオ体操第一を実施していたが、急な引越しの準備で忙しくなったことと、体操などしなくても十分に体力を消耗しているという理由で止めてしまったはずだ。

北海道に帰ってきてからも義兄が亡くなったり、『お買い物日記』 担当者が大きな病気を患うなどバタバタしており、あっという間に三年半が過ぎてしまったので、すっかりラジオ体操のことなど忘れていたのである。

平日のみではあるが、朝の散歩は悪天候でない限り続け、たまにサボったりもするが我流の柔軟体操も週に2度のペースで続けている。

さらには昼食後に 5分程度の運動も行なっているが、一般的なビジネスパーソンと比較して通勤のために歩くこともなければ外回りの仕事をする訳でもなく、運動不足を避けることができない。

実際にはマイカー通勤で歩くこともなく、内勤で朝から晩まで机の前に座りっぱなしという人も少なくないだろうが、だからと言ってこのままで良いわけがないだろう。

おまけに2008年7月28日から禁煙を開始し、それが今でも続いているのは良いのだが、デトックスも進んで体内の毒素が減少したため、解毒のためのカロリー消費が必要なくなって、その消費されなくなったカロリーが一方的に脂肪として蓄積されたことと、北海道に帰ってきてから食べるものすべてが美味しく、無限の食欲を抑制するのが困難であったことが相まって体重は増加の一途をたどり、大阪で生活していた頃より 10キロも肥えてしまった。

当然のことながら胴回りも大きくなり、年末に受けている健康診断で見事にメタボ予備軍という不名誉な称号を与えられてしまったし、2004年11月15日に在宅ワークを始めるまで着用していたスーツのパンツがパッツンパッツンになってしまい、「ふんっ」 と力を入れればボタンがすっ飛びそうな状態なのである。

力を入れて上着が裂けるのであれば北斗の拳のケンシロウみたいで自慢にもなるが、腹の圧力でパンツのボタンが飛んだりケツが裂けたりするのは無様としか言いようがない。

そこで体の引き締めと運動不足を解消するためにラジオ体操を再開したのである。

本気のダイエット目的であれば、少し前に流行ったものの今となっては大量の中古DVDが出回り、価格が暴落していると予想される 『ビリーズブートキャンプ』 とか、今流行りの 『カーヴィーダンス』 を実践するところであるが、主目的は運動不足の解消であるし、一度に過激な運動をしたら痩せるどころが大怪我をするか心臓麻痺を起こす危険性があるので、ここは子供からお年寄りまで誰でもすることができるラジオ体操から始めるべきであろうと判断した訳だ。

しかし、その判断はやはり正しかったようである。

たかがラジオ体操、されどラジオ体操。

子供の頃みたいに適当に体を動かすのではなく、テレビの中の体操のお姉さんのように手や足を伸ばすところは伸ばし、曲げるところは曲げ、かかとを上げて背伸びするところまで忠実に体を動かすと、それはかなりの運動量であることが分かる。

さらには頭の中にある自身の体力、筋力と実際のそれが大幅に乖離しており、忠実に体を動かしているとピアノ演奏について行くのがやっとで、時には必死に動かさなければリズムに乗り遅れそうになってしまう。

ピョンピョン跳ねるシーンでは、体重増加と筋力の衰えが見事に露呈し、自分が想像する 1/3程度の高さまでしか飛ぶことができない。

約4分間の体操が終わる頃には息も絶え絶えとなり、終わり近くの手足の運動で 「呼吸を整えましょう」 と言われるが、まだ体を動かしている途中で息が整うはずもなく、思わず 「整うかいっ!」 と文句を言いたくなる。

そして最後の深呼吸が終わると、その場に倒れ込みたくなるほどの疲労感に襲われ、深呼吸しても 「ハアハア」 している息を整えるのに必死だ。

たかが 4分間の、たかがラジオ体操を実施しただけなのに翌日からは見事な筋肉痛に襲われ、散歩をしていても食後に立ち上がるのもトイレで立ち上がるのにも太ももの裏がピシピシと音を立て、「イデデデェ~」 と声が出てしまう。

自分がいかに運動不足であったか、そして、いかに老化が進んでいるかを思い知らされ、間違っても 『ビリーズブートキャンプ』 には手を出すまい、いや、そんなことをしたら死んでしまうと実感することができた。

これから当分はラジオ体操の第一と第二を交互に続け、体が慣れてきたら第一、第二を通しで行えるようにするのが短期目標だ。

一年後には少なくとも胴回りが 2センチくらい減っていることを期待しつつ。

デジタル化の波 Signal-10

デジタル化の波 ~目次~

Appleのスティーブ・ジョブズ氏が亡くなった。

まばゆいばかりの光を放ち、Appleという組織、そしてコンピュータ業界、人々の暮らしさえも未来に導いてくれた巨星だ。

その、あまりに強い輝きを道しるべとしていた Appleは、今後どこに向かうのか。

進むべき方向を自力で見つけられるのか。

経営理念のひとつである 『顧客に最高の体験をさせよう、驚かせてやろう』 の精神に基づいて数々のヒット商品を生み出し、確実に世の中を変えてきた影響力を、今後も維持していくことは可能なのだろうか。

携帯音楽プレーヤー 『iPod』 では音楽マーケット、流通を一変させ、消費者の購買ルートから音楽の楽しみ方、生活パターンまで変えてしまったし、高機能携帯電話 『iPhone』 の登場によって業界の勢力図にも変革が起きた。

そしてタブレット型端末の 『iPad』 の登場で出版業界まで変革の波にもまれ、時代の変革に取り残された出版社は淘汰の荒波に襲われている。

Appleは以前から他社と一線を画していた。

1984年1月に発売されたパーソナルコンピュータ Macintosh(マッキントッシュ)は、当時からすでにアイコンとウィンドウ(窓)からなるGUI(グラフィカルユーザインターフェース)を採用した OSで稼働していたのは驚くべきことだ。

現在主流となっている、いわゆる Windowsパソコンは、その当時は文字(コマンド)入力によってパソコンに命令して実行させる、とても分かり難い操作を強いられるものだった。

Microsoftがアイコン、ウィンドウによる操作を可能にし、速度的にも何とか使い物になる OSを発売したのは 1991年の Windows 3.0、世の中に認められたのは 1993年の Windwos 3.1、そして、広く世に知れ渡るようになったのは 1995年の Windows 95になってからである。

つまり、Appleは Microsoftより 10年は先を行っていた訳だ。

そして今、文章から写真、音楽、動画までデジタル化され、それを利用するための端末機器のありようが問われている。

より便利に、より簡単に誰でもが自由に使えるものが必要だ。

技術力を誇示するあまり、顧客の利便性をないがしろにしてきた日本企業は大きく方向転換しなければ世界を相手に生き残るのは難しいだろう。

Appleを見習い、顧客である我々に最高の体験をさせてほしい、驚かせてほしい。

そして、Appleも独創性を失うことなく、スティーブ・ジョブズ氏が見据えていた未来に向かって、これからも躍進していただきたいと思っている。

記憶 Memory-08

過去の記憶

3歳になるまで、両親とも勤めていた電電公社(現NTT)の官舎暮らしをしていた。

木造二階建てで1棟3-4世帯が住める社宅が10棟以上は並んでいたと思われるので、その一角には100人前後の住人がいたのだろう。

当時は今のように少子化が進んではいなかったし、幼児教育などという概念もなく塾通いしている子供など皆無であり、過保護な親も少なく子供は外で遊ぶのが当然だったので、中央に位置する公園に行けば必ず誰かと遊ぶことができたものだ。

そして、そこには幼児から小学生、中学生までおり、年上の子供は小さな子供の面倒をよくみていたので、親たちも安心して放っておくことができたのだろう。

自分は当時中学生だった女の子にいつも面倒をみてもらっていたらしく、彼女の顔は今でも薄っすらと記憶に残っている。

正確な名前も苗字も知らないが、『りっちゃん』 と呼んでいたはずなので、リエコさんとか、リツコさんという名だったのだろう。

そして、年下の女の子の記憶もあり、今でも鮮明に思い出すのは夏の陽射しの暑い日にベランダ座って二人でスイカを食べているところだ。

今から思えば親が自分の子供より他人の子を褒めるのは社交辞令的にも当然のことであるが、幼児にそんな大人の事情が理解できるはずもなく、とても悔しい思いをした記憶がよみがえる。

自分はスイカを頬張って口の周りから胸元まで果汁でベトベトにしていたのだが、その子はスイカに口をつけてチュウチュウと果汁を吸いながら食べるので顔も体も汚れることがない。

それを見た母親が
「本当にジュンちゃんはスイカを食べるのが上手だね」
と褒め称え、
「それにひきかえ、お前はどうしてベトベトにして食べるのっ」
と文句を言う。

自分は褒められて伸びるタイプで叱られたり小言を言われると反発するかふてくされたりするが、一応は彼女の真似をして果汁をチュウチュウ吸ってみたりしてみても、どうもまどろっこしく、シャウシャウと一気に食べたいという欲求が勝り、結局は顔も体も果汁だらけにしたりしていた。

ある日、その女の子の父親が事故で亡くなった。

子供の耳にまで届いてきた噂では、酔って線路で寝込んでしまい、電車にはねられたのが死因らしいということで、遺体の損傷が激しくまだ頭部が見つかっていないということだった。

当然、それは尾ひれを付けて子供同士が伝えあった話しなのだろうが、友達何人かと集まって悲しそうにしていた女の子を連れ、彼女のお父さんの頭を探してあげようということになり、ゾロゾロと線路の上を歩いているのが大人に見つかってしまい、こっぴどく叱られたのも深く記憶として刻まれている思い出だ。

その後、彼女は引っ越して行き、今どこで暮らしているのか分からない。

そして、我が家もその社宅から引っ越すことになり、いつも遊んでいた友達とも疎遠になったのだが、同じ学区内だったので小学校で再会したものと思われる。

しかし、その記憶がまったくないので、3歳で越してから小学校に入学するまでの3年間ですっかり忘れてしまったのであろう。

お互い、実に薄情な奴らだと、今になって思ったりしているところである。