耐久年数

実は数日前から屋根の葺き替え工事と塗装をしてもらっている。

経年劣化で屋根が腐食し、屋根裏に雨水が落ちてくるようになってしまったので業者に見てもらったところ、東西南北に向かって四面ある屋根のうち、東向きの一面が部分的にではなく全面的に葺き替えるべとの判断に至った。

工事の規模にしても金額にしても予想を上回る規模となってしまったが、雨漏りを放っておく訳にもいかず、家の持ち主である義兄に相談したところ修繕工事すべしとの指示があったので見積もりを依頼した。

何度か打ち合わせを重ねるうちに、四面のうちの一面は葺き替えなければいけないが、残りの三面も塗装が耐久年数を超えているので、弱くなった部分から屋根板の腐食が進むかも知れないと業者は言う。

そこで再び相談すると葺き替えと塗装をすべきとの結論となり、工事費用は家主である義兄が負担してくれる腹積もりがあるとのありがたいお言葉をいただいた。

そして今週から工事が始まったが、屋根の上では複数人の職人さんが動きまわったり工具を使う音が響き渡り、仕事中に聴いているラジオの音など聞こえないほどだ。

まともに生活できるのか少々不安になったりもしたが、もともと仕事に集中すると周りの音が聞こえなくなる性質なので作業に支障はなかったし、暗くなる前に工事は終わるので生活自体に大きな問題はなかった。

工事が終わって塗装に進むという段階で業者さんが報告に来てくれたのだが、その際に
「よく見ると外壁の塗装も耐久年数を超えてますねぇ」
などと言い出した。

家は壁も屋根も同時に完成するに決まっているのだから、同時に耐久年数である 10年に達するのは当たり前のことであって、後になって気づいて言ってくるのはどうかしている。

おまけに業者は、この家を建てた業者だ。

屋根は劣化すると雨漏りなどしてしまうが、壁の塗装が劣化するとどうなるのか分からないし、今のところはその説明もない。

追加でこのままズルズルと工期と金額が膨らむのは嫌なので、とりあえず壁のことは無視することとし、必要と判断すれば数年後にあらためて発注することにしようと思う。

何にでも耐久年数というものはある。

それは体でも同じで、あれだけ冴え渡っていた視界も今は遠くばかりかパソコン画面さえもぼやけて見えるようになってきた。

「年齢のことを考えて、これからは歯も大事に使うように」
と、歯医者さんに行くたびに爺ちゃん先生に説教される。

今はそれなりの性能を発揮している耳も、耐久年数を超えるとだんだん聞こえづらくなって
「はぁあ~?」
とか
「えぇえ~?」
とか聞きなおす回数が増えてくるのだろう。

味覚も衰えて、だんだん濃い味付けを好むようになるかも知れない。

体だけではなく、家も電化製品も大切に使い、せめて耐久年数までは壊わさないように心がけようと思ったりしている今日この頃である。

運動会

今日の午前中、買い物のついでもあったので 『お買い物日記』 担当者の母校でもある小学校で開催されている運動会を見物してきた。

昔は早朝から場所取りをしなければならないほど人が集まったらしいが、今は少子高齢化が進んで父母から祖父母まで応援に駆けつけてもグラウンドから人が溢れることもなく、割と余裕で見物できる感じ混み具合だ。

お兄ちゃんかお姉ちゃんを見に来たらしい小さな子は、見物にもすっかり飽きてしまったらしく、勝手に走りまわって遊んでいる。

家庭用ビデオカメラ、プロ顔負けの機材まで用意して我が子を撮影しようとする光景はどこも同じだが、子供そっちのけで酒盛りをしているパパさんチームもあり、実に家庭的、牧歌的な雰囲気が漂う年中行事である。

しかし、特に都会では、いつの頃から運動会が足の速さや体力ではなく、それ意外を競いあう場となってしまったのか。

勉強のできる子は勉強で、運動が得意な子は運動で、それぞれ活躍していれば良いのであって、幼い頃から他人との違いを少しずつ認識しつつ自分の生きる道、進むべき道というものを模索するなり、見極めるなりすれば良いはずだ。

少し覗いてきた程度なので、この町の小学校がどのような方針、ルールに則って競技しているのか分からないが、全国にある学校の一部では勝敗や順位をつけることを嫌って全員揃ってゴールさせたりするらしい。

そのくせに、親は着るものから広げる弁当の内容まで見栄を張って競い合うのはなぜなのか。

早朝、または前日から弁当作りに精を出すのは、子どもを喜ばせたい親心も当然ながら含まれているだろうが、6-7割は周りから見られることを意識しての自尊心を満足させるだけの行為のように思える。

昔の運動会なんぞは爺さん婆さんがヨレヨレの服を来てゴザの上に正座し、水筒に入れてきた番茶を飲みながら孫の姿を見ていたものあり、親も我が子を応援するのに一生懸命でカメラでバシャバシャ撮影している親など一握りしかいなかった。

弁当も梅干が埋めこまれたゴマ塩おにぎりか巻き寿司、いなり寿司程度のもので、おかずはタマゴ焼きに焼き魚、肉や赤いウインナーなど入っていようものならテンションが上がったものだ。

その横のとてつもなく大きなタッパーを開ければびっしりと漬け物が入れられており、隣に陣取る家庭と回し食いしていたものである。

その漬け物を肴に酒盛りをして、すっかりできあがっているオッサンなどもおり、足元がフラフラのまま父兄参加の競技に出場して見学者を爆笑の渦に巻き込んだりもしていた。

子どもが徒競走などで一着になり、周りから褒められると
「うちの子は勉強はダメで足が速いのだけが取り柄だから」
などと、謙遜しながらも少し嬉しそうにしているのが奥ゆかしい日本の母の姿であり、
「でもお宅の◯◯ちゃんに勉強ではかなわないから」
と相手へのフォローも忘れないのが賢いコミュニケーション法である。

体力が劣ったり足が遅い子の親も、一生懸命に応援し、盛大な拍手でゴールに導く。

そして、どんな着順であったとしても
「よく最後まで走った」
とか、
「頑張ってゴールして偉かった」
などと言って褒めたものだ。

子どもが転んで怪我をしても、騎馬戦とか棒倒しなどを危険とも野蛮とも言わず、
「いけぇええー」
と声を枯らして応援していたものである。

ところが今は親が危険だと勝手に判断したものはさせない、競わせない、争わせない。

いつから日本の運動会はおかしな雰囲気になってしまったのだろうか。

競う場所を間違えた風潮はいつまで続き、そんな中で育った子供はどのような大人になり、日本の将来はどうなってしまうのだろうか。

中近両用メガネ

何とも面倒なことになってしまった。

あれほどの視力を誇っていたのに加齢とともに衰え、とうとう2009年末にメガネを購入。

その当時はテレビを見るためだけに入手したようなものだった。

相変わらず遠くを見るのには困っていないので、散歩、買い物などで外出する際はメガネをする必要はないし、極端に視力は悪化していないものと思われる。

しかし、最近になって肝心かなめの距離、パソコン画面を見るのに支障を来たし始めた。

裸眼では少し画面がにじんで見えるように思って顔を近づけたりするのだが、今度は老眼が仇となり、近づきすぎると焦点が合わないというジレンマにおちいる。

メガネをすると少しマシに見えるのだが、それは素の状態ではなく無意識のうちにピントを合わせているらしく、一定時間以上も画面を見続けると目が疲れて仕方がない。

コンピュータ業界に身を置くものとして視力の衰えと眼精疲労は大敵だ。

そこで少し前からパソコン用のメガネを購入すべきか考えていたのだが、ちょうど買い物に出かける予定だった昨日の朝の新聞にメガネ屋さんの折り込みチラシが入っており、そこには 『パソコン、携帯電話の操作に最適な中近両用メガネ』 の一文が。

絶好のタイミングでもあることだし、試しに見せてもらい、視界が広がるようであれば購入しようと店に行ってみた。

まずは以前にも受けた検査で遠くを見る視力を検査。

とりあえず視力の衰えは平行線をたどっているようで、以前より悪くなってはいない。

眼球に光を照射されたりした後、近くの物体を見ながらの検査をし、数あるレンズの中から複数枚を組み合わせてメガネ状の器具にセットして渡される。

それをかけてパソコン画面と同じような距離のものを見てみると、なるほど良く見えるのではあるが、所有しているメガネ越しに見るのと大差ないような気もしないではない。

店員さんにそれを伝えると、
「目がピントを合わせようとしなくても見えると思いますから疲れませんよ」
という説明。

自分のメガネとメガネ状の器具とを付けたり外したりしながら見比べると、確かに言われたとおりであり、中近両用メガネの方は何の抵抗も努力もすることなく綺麗な映像を見ることができる。

おまけにレンズの下部分を通して見ると、近くのものまでハッキリ見え、わざわざメガネを外さなくても手元が見やすい。

つまりそれは、手元の資料を見ながらそのままパソコン画面を見られるということであり、仕事の効率化を図る上で大きな役割を示すものだと思われる。

そうなると一切の迷いは消え、購入へのアクセルはベタ踏み状態だ。

ただし、老眼も目の調節機能の衰えもまだ進行中であるとのことで、割と早い段階で再びレンズを変えなければならないと予想されるため、今回は最低限の機能で安価に済ませるべきだと判断した。

フレームを選ぶ段になってチラシに掲載されているものはデザイン的にイマイチであることに気づいたが、そのメガネをして外出することもないだろうし、仕事をするときだけ使うものなのでデザイン性より実用性を重視することに決定。

軽くて長時間していても苦にならず、レンズ部分が小さいものよりも、遠・中・近のそれぞれが、ある程度の面積を確保できるように少しレンズが大きめのものをセール対象品の中から選んだ。

できあがりは一週間後なのでまだ手にはしていないが、一日の仕事終りに目の疲れがどの程度軽減されるのか、今から少し楽しみにしたりしているところである。

最近の若い者は 3

最近の若い者は ~目次~

オジサンの若かりし頃、子供の頃は
「男児たるもの人前で涙など見せるものではない」
という戦後色濃厚な香りを引きずりつつ親や教師から言い聞かされたものである。

泣くことが許されるのは親きょうだいが亡くなったときくらいなもので、それ以外の場面で涙など見せようものなら同級生からすら笑い者にされてしまうような時代だった。

しかし、最近の男の子は事あるごとにすぐ泣くらしい。

感動的な映画など観て涙する程度であれば、なかなか感受性が豊かでよろしいと思わなくもないが、泣く理由はオジサンからすると到底許容しがたい内容だ。

男と女の間には別れがつきものであるが、昔のドラマや映画、実社会においても別れ際に泣くのは決まって女性であり、それが絵になるからこそ多くの名シーンが誕生したのであって、テレビでも映画でも小説でも時には悲しく、時には美しく、時には狂おしく描かれてきた。

ところが最近では別れ話を持ち出されて泣き出す男が多いのだそうだ。

相手が去っていく後ろ姿を横目にヨヨと泣く、時には追いすがり、すがりつき、足げにされて倒れこみ、涙でにじんで見える彼女の姿を目で追い続ける男・・・。

貫一お宮の立場が入れ替わったようなシーンを見せられては感動も何もあったものではないと思うのだが、今後はそういう物語が主流となって芝居や映画などで人々を感動の渦に巻き込んだりするのだろうか。

別れはそれなりに悲しいことであるので百歩譲って男が泣くことを許したとしよう。

しかし、聞いた話では彼女と喧嘩して泣く男もいるらしい。

もちろん、自分が悪いのであれば謝罪し、許しを乞うことは男女に関係なく必要なことだとは思うが、何も泣くことはあるまい。

たかが男と女の、他人から見れば小さな諍いで始まった喧嘩において、涙ながらに謝罪するほど深刻なことがどこにあろうか。

これは最近読んだ本に書いてあったことの受け売りだが、最近の男の子は会社の上司に叱られた程度でも泣くらしい。

理不尽なことを言われて陰で悔し涙を流すというのなら分からないでもないが、叱られている最中に上司の目の前、周りに社員がいる中でシクシク泣くのだそうだ。

男女雇用機会均等法が徹底され、男女格差がなくなりつつある今、こんなことを言うと叱られそうだが、昔は上司に叱られて泣くのは女性であり、涙を見せられた上司は少したじろいで
「涙は女の武器だ」
とか言ったものであるし、周りの男性社員は
「いいよなぁ~女は。泣けば許してもらえるんだから」
などと嫌味を言ったりしていたものであるが、そんなことも今は昔。

叱っている最中に泣き出す男性社員を相手にした上司は、さぞかし度肝を抜かれることだろうが、それが現実であり、それが今の時代なのだろう。

最近になって少し涙腺がユルユルになりはじめ、映画を観て感動したり、探査機 『はやぶさ』くんの帰還に胸が熱くなって泣きそうになったりもするが、やはり涙を流すのはためらわれる。

人目もはばからず泣く男などと一緒に仕事もしたくないし、部下に持ちたくもないし、そもそもそんなバカは相手にもしたくない。

そんな時代、会社勤めをせずに一人で仕事をしていて本当に良かったと、オジサンは少し安堵したりしているところである。