運動会

今日の午前中、買い物のついでもあったので 『お買い物日記』 担当者の母校でもある小学校で開催されている運動会を見物してきた。

昔は早朝から場所取りをしなければならないほど人が集まったらしいが、今は少子高齢化が進んで父母から祖父母まで応援に駆けつけてもグラウンドから人が溢れることもなく、割と余裕で見物できる感じ混み具合だ。

お兄ちゃんかお姉ちゃんを見に来たらしい小さな子は、見物にもすっかり飽きてしまったらしく、勝手に走りまわって遊んでいる。

家庭用ビデオカメラ、プロ顔負けの機材まで用意して我が子を撮影しようとする光景はどこも同じだが、子供そっちのけで酒盛りをしているパパさんチームもあり、実に家庭的、牧歌的な雰囲気が漂う年中行事である。

しかし、特に都会では、いつの頃から運動会が足の速さや体力ではなく、それ意外を競いあう場となってしまったのか。

勉強のできる子は勉強で、運動が得意な子は運動で、それぞれ活躍していれば良いのであって、幼い頃から他人との違いを少しずつ認識しつつ自分の生きる道、進むべき道というものを模索するなり、見極めるなりすれば良いはずだ。

少し覗いてきた程度なので、この町の小学校がどのような方針、ルールに則って競技しているのか分からないが、全国にある学校の一部では勝敗や順位をつけることを嫌って全員揃ってゴールさせたりするらしい。

そのくせに、親は着るものから広げる弁当の内容まで見栄を張って競い合うのはなぜなのか。

早朝、または前日から弁当作りに精を出すのは、子どもを喜ばせたい親心も当然ながら含まれているだろうが、6-7割は周りから見られることを意識しての自尊心を満足させるだけの行為のように思える。

昔の運動会なんぞは爺さん婆さんがヨレヨレの服を来てゴザの上に正座し、水筒に入れてきた番茶を飲みながら孫の姿を見ていたものあり、親も我が子を応援するのに一生懸命でカメラでバシャバシャ撮影している親など一握りしかいなかった。

弁当も梅干が埋めこまれたゴマ塩おにぎりか巻き寿司、いなり寿司程度のもので、おかずはタマゴ焼きに焼き魚、肉や赤いウインナーなど入っていようものならテンションが上がったものだ。

その横のとてつもなく大きなタッパーを開ければびっしりと漬け物が入れられており、隣に陣取る家庭と回し食いしていたものである。

その漬け物を肴に酒盛りをして、すっかりできあがっているオッサンなどもおり、足元がフラフラのまま父兄参加の競技に出場して見学者を爆笑の渦に巻き込んだりもしていた。

子どもが徒競走などで一着になり、周りから褒められると
「うちの子は勉強はダメで足が速いのだけが取り柄だから」
などと、謙遜しながらも少し嬉しそうにしているのが奥ゆかしい日本の母の姿であり、
「でもお宅の◯◯ちゃんに勉強ではかなわないから」
と相手へのフォローも忘れないのが賢いコミュニケーション法である。

体力が劣ったり足が遅い子の親も、一生懸命に応援し、盛大な拍手でゴールに導く。

そして、どんな着順であったとしても
「よく最後まで走った」
とか、
「頑張ってゴールして偉かった」
などと言って褒めたものだ。

子どもが転んで怪我をしても、騎馬戦とか棒倒しなどを危険とも野蛮とも言わず、
「いけぇええー」
と声を枯らして応援していたものである。

ところが今は親が危険だと勝手に判断したものはさせない、競わせない、争わせない。

いつから日本の運動会はおかしな雰囲気になってしまったのだろうか。

競う場所を間違えた風潮はいつまで続き、そんな中で育った子供はどのような大人になり、日本の将来はどうなってしまうのだろうか。