2011年大阪の旅 -2-

2011年大阪の旅 -1-

大阪滞在二日目。

この日は朝から仕事関連の人と会うことになっており、『お買い物日記』 担当者もよく知っている人なので一緒になんばまで行って落ち合ったが、時間が早すぎて落ち着いて話せそうな喫茶店などが開いていない。

待ち合わせたのは、なんばCITYにあるホテルだったので近くにあるなんばパークスに行ってみることになった。

なんばパークスは大阪に住んでいるときに完成していたが、出不精であるゆえに足を踏み入れることもなく北海道に帰ってきてしまったが、こうして久々に来て施設内を歩くことになるのだから不思議なものである。

いや、近くにあると、いつでも行くことができるという意識が働いてしまい、余程のことがない限りは行かないものなのだろう。

そして、なんばパークス内を歩いていて気づいたのだが、お会いした人の歩くスピードが異常に速く、ちょっと小走り気味にしなければ付いて行くことができない。

そう言えば移動手段として使った地下鉄御堂筋線の構内でも次々と人に追いぬかれた。

そうだ、そうだった。

大阪人は歩くスピードが日本一速いのだった。

以前は人の妨げになってはいけないと同じ歩行速度で歩いて通勤していたはずなのに、ゆったりとした時間が流れる北海道の生活にすっかり慣れ、歩くペースも遅くなってしまったのだろう。

話しが終わってその場で別れ、いよいよ千里丘に向かうことになったが、おみやげを渡したのに相手からも何やら頂いてしまい、バッグの重さはちっとも軽くならない。

みやげ物で重くパンパンになったバッグを持ちながら千里丘駅に到着。

駅構内を歩いても、街の風景を見ても思ったほど懐古の念にとらわれることもなく、ただ久しぶりだと感じる程度だった。

大阪で十数年ほど暮らし、以前に暮らしていた札幌の町を見たときはとてつもなく懐かしかったが、三年程度では懐かしさを感じないものらしい。

千里丘駅の一階にあるレンタサイクルの 『駅リンくん』 で自転車を借りて千里丘周辺をウロウロする。

まずは十数年間もお世話になった借家の大家さんに会いに行く。

ただ単なる貸主と借主の関係ではなく、本当にいろいろとお世話になったので是非にでもお会いしておきたい方なのである。

そこで近況などを報告し、急にバタバタと引っ越してしまったことを詫びて 『お買い物日記』 担当者の病気などについて一通り話し、またいつかの再会を約束して席を立つ。

ここでもおみやげをお渡ししたが、それ以上の頂き物をしてしまい、バッグの中は減るどころかさらに大きく膨らんだ。

ここから自分と 『お買い物日記』 担当者は別行動。

自分は仕事でお世話になっている方々を訪問し、『お買い物日記』 担当者はお世話になった方々や、友だちになった人たちとの再会だ。

別行動をして 4時間後に千里丘駅で合流すると、おみやげのバッグがはち切れそうなくらいバンバンに膨らんでいる。

会う人、会う人、みんなから頂き物をしてしまい、来る時より明らかに大きくなったバッグを持って帰ることになってしまった。

予報では大阪は雨で、当日はどうなることかと思ったが、最後の最後まで天気は持ちこたえて駅リンくんに自転車を返却するころになって小雨が降りだす程度で済んだ。

どうやら晴れ男の面目躍如といったところであるし、これも旅の最初から続いている幸運のひとつであろう。

そして、いよいよ明日は大阪滞在三日目、それが最終日であって夕方の便で北海道に帰ることになるが、予報では大阪も新千歳も悪天候で、この時期は珍しくない欠航や新千歳に降りられずに引き返すなどという事態にならないことを祈るばかりだが、それはまた 2011年大阪の旅 -3- に続くということに。

2011年大阪の旅 -1-

その旅は最初から幸運に恵まれたものだった。

となりのお店には事前に旅行のことを伝えることができていたが、ワンプの住む反対隣りのお宅には詳しい日程などを話せておらず、電車に乗ってから携帯電話のメールで知らせようかと 『お買い物日記』 担当者と話していたところ、家を出ると隣の奥さんも外におり、タイミング良く事情を説明することができたばかりか、車で JRの駅まで送ってくれるという。

駅までの道のりは、普段の散歩を考えると何の苦も無く歩ける距離であるため、天気さえ悪くなければいつもテクテクとキャスター付きの旅行カバンを引きながら駅に向かっているのだが、送っていただけるのならそれに越したことはない。

その前日まで苦しんでいた 『お買い物日記』 担当者の頭痛も 80%程度まで回復し、旅に差し障りのないくらいまで元気に復活したのも幸運だった。

独り言にも書いたように、初日は新千歳空港までの移動なので少し頭痛の残る 『お買い物日記』 担当者の負担も軽い。

神戸空港に向かう便が朝の 8:00発であり、その前にチェックイン、搭乗手続きの全てを終わらせようとすると 7:00には空港に着かねばならず、どう頑張っても当日の移動は無理なので前日に到着しておく必要があったのである。

空港に到着して長兄夫妻と合流し、食事の前に大阪でお会いする方々へのおみやげを購入。

何せ自分が仕事関係でお会いする人、『お買い物日記』 担当者が会いに行く人たちを合わせると相当な人数になるので、購入するみやげの数も大量になってしまい、念のために持参した大きめのバッグがパンパンに膨らんでしまった。

その後に食事を済ませ、翌日は朝が早いので早々に部屋に戻る。

一夜明け、バタバタとホテルをチェックアウトして搭乗手続きに向かったが、今は QRコードと呼ばれる二次元バーコードで全てが管理されているらしく、以前のようなチケットらしいチケット、ちょっと厚い紙のような樹脂のような、それっぽいものは存在せず、単にプリンターで印刷した A4の紙の隅のほうにある QRコードがすべてだ。

その紙も事前に旅行会社から受け取った書類の中に含まれているのでカウンターで発券してもらうとか、そういう手続が一切無い。

その紙を持ってスキャナー部分に QRコードをかざし、「ピロリン」 と認証されて手荷物検査を通過し、飛行機に乗り込む前も QRコードで 「ピロリン」 とゲートを通過するだけだ。

今回は紙だったが、携帯電話からチケット予約などすればメールでQRコードが送られてくるらしく、携帯電話をスキャナーにかざして通過している人が何人もいた。

とても便利な世の中になったと思う反面、ちょっと味気ない気がしてしまうのはオッサン化が進んだ証拠か。

飛行中、機体がひどく揺れることもなく、安定した状態で神戸空港に到着。

まずは三ノ宮まで移動するためポートライナーに乗り込み、先頭車両の最前部の席を陣取ってちょっと運転手気分。

JRに乗り換え、新快速で一気に大阪駅まで。

会社勤めしていた頃は毎日利用した駅なので懐かしさが込み上げてくるかと思いきや、改修工事がなされて中は様変わりしてしており、初めて見る光景だった。

宿泊先は第一ホテル、つまりは丸ビルであり、その外観を見たときはさすがに少し懐かしい感じがした。

ホテルではチェックインする時間には程遠かったが、大荷物で京都に行くのも大変なので今日の宿泊客であることを告げて荷物を預かってもらうことに。

ちょっと身軽になって再び大阪駅に行き、新快速で一気に京都。

京都駅でタクシーに乗ったのだが、その運転手さんはプロだけが知っているような、車もすれ違えない細い細い裏道をビュンビュンと通り抜けて行く。

北海道のようなおおらかな土地で、とても広い道幅を走る優良ドライバーである長兄は、運転手さんの隣の助手席でカチカチに固まっていた。

狭い道路を 40キロ前後で走り、前と接触するのではないかというくらいの狭い車間距離しか保たない関西人の運転は恐怖だったらしい。

お寺の前で車を降り、直ぐ目の前にある蕎麦屋さんで昼食。

ここは過去に何度も入った店で、その味はさすがに懐かしい気がした。

無事に法事も終わり、ぶらっと茶わん坂を歩いて目についた喫茶店で休憩。

帰り道では雑誌か何かの撮影で、舞妓さんがモデルとなっていたので便乗してパチリ。

何度も京都に行ったが、こんなに近くで舞妓さんを見るのは初めてであり、そのタイミングで偶然にも通りかかったのも幸運だった。

何だかんだとしている間に、すっかり夕方になったので京都観光をすることもなく新快速で再び大阪駅まで一気に進み、ホテルのチェックインを済ませて一休みし、丸ビルの地下にある居酒屋さんで呑み食いして一日が終わった。

2011年大阪の旅 -2- に続く。

自分解体新書 - 4 -

自分解体新書 ~目次~

■ 脳 – その2 –

以前、会社勤めをしていたころは毎日スーツを着用し、ネクタイもしていた。

毎日、毎日、来る日も来る日も、年間 250日くらいネクタイを締め続けていたのだが、どういう訳だか数年に一度か二度くらいの割合で、毎日しているはずのネクタイの締め方が分からなくなることがあった。

どうやったらネクタイが結べるのか、何度やり直しても思い出せない。

会社に行く時間は迫り、どうやってもネクタイが結べず、焦りが頂点に達して冷や汗が流れる。

まるで自分が記憶喪失にでもなったような、得も知れぬ不安感、恐怖感に襲われる。

そんなことは自分にしか起こらないのではないかと不安にも思っていたが、世の男性陣の複数人に確認したところ、やはり同じような体験をしている人が多かったので少し安心したりしたものだ。

あの時、脳の中では何が起こっているのだろう。

いや、脳ではなく神経で何かが起こっているのか。

加齢が原因かといえばそうでもないらしく、それは 20代でも 30代でも起こるものらしい。

■ 脳 – その3 –

しかし、確実に記憶力は衰えてきている。

さっき食べた昼飯の内容が思い出せなかったりすることなど日常茶飯事だ。

お買い物日記』 担当者に訊いても記憶力の低下具合は似たようなもので、二人揃って腕組みをしながら 「う~む」 と考え込む事態に発展してしまう。

これは加齢が原因であり、誰にも起こる自然なことである。

いつかのテレビで、どこだかのお医者さんがこう言っていた。
「何を食べたかを忘れるのは誰にでも起こること」
「問題なのは食べたことすら忘れてしまうこと」

そう、少なくとも朝、昼、晩の食事をしたか否かくらいは覚えているので少々の記憶力低下くらいは甘んじて受け入れなければいけないのだろう。

■ 鼻

相変わらず慢性的に鼻炎は続いている。

鼻炎用の点鼻薬はかかせないし、就寝前にはヴィックスヴェポラップを鼻の周りに塗っているのも相変わらずだ。

掃除機でホコリが舞えば鼻も目もグシュグシュになるし、風邪気味になれば一発で鼻に来る。

こんな体質で花粉症になっていないのが不思議なくらいだ。

しかし、その割に嗅覚に問題はないらしく、散歩中に漂ってくる香りを嗅ぎ分け、
「味噌汁を作っているらしい」
とか
「玉子焼きの臭いだ」
「サバを焼いている」
「白身魚のフライを揚げている」
などと 『お買い物日記』 担当者と話し、腹をグーグーいわせている。

スーパーの近くを通れば惣菜の煮物やらミートボールやら中華のあんかけ系の匂いやらがしてきて野生に返りそうになるが、『お買い物日記』 担当者が一番に反応するのはミスタードーナツの仕込みの匂いだ。

賞味期限に関わらず、まだ食べられるか否かの判断を下すくらいの嗅覚は慢性鼻炎であっても備わっているので、今のところ問題なく生活できている。

おもてなしの心

日本人はなんて優しいんだろうと思う。

以前は韓国や中国に買い物ツアーに出かけていた日本は、経済規模で逆転されて逆に観光客を向かい入れる立場になっている。

日本人は変化を好まないとか言われるが、明治維新、敗戦を経て日本文化など失ってしまったに等しいくらいの変貌を遂げたのも日本人だ。

立場が逆転しても、したたかにビジネスチャンスを伺うたくましさをも持つ。

そこで発揮されるのが 『おもてなしの心』。

中国人の観光客が増えれば必死に中国語を勉強する。

アメリカ人の観光客が増えたら必死に英語を勉強する。

観光案内から店内のPOP、飲食店のメニューも日本語、英語、韓国語、中国語を併記してお客さんが困らないように気を配る。

2002年ワールドカップでカメルーンの準備キャンプ地となったからといって、中津江村の人たちは必死に公用語であるフランス語を勉強した。

全世界を見渡してみても、相手国の言語でコミュニケーションを図ろうとする民族が住む土地など皆無に近いだろう。

日本人が来るからといって必死に日本語を勉強する国がどこにあろうか。

余程のリゾート地ではない限り、日本語が通じるところなどない。

仕事や遊びで若い頃は海外に出かけたが、宿泊施設や商業施設、観光案内、飲食店など日本語の通じる場所などありはしない。

日本人はアメリカに行けば必死に英語を使おうとするし、韓国旅行に行っても店に入れば韓国語で注文しようとするし、中国に行ってもそれは同じだろう。

相手の国に寄せてもらっているのだから当然だと考える。

ところが、アメリカ人にしても中国人、韓国人にしても、日本に来ているのに自分たちの国の言葉を平気で使う。

自分の国の言葉で問いかけ、自分の言語で文句を言う。

それに対して必死になって相手国の言葉で応対しようとする日本人。

アメリカ人など日本に来ているのに英語で話しかけてきて、こちらが分からないと
「なぁ~んだ、英語もしゃべれないのか」
といった仕草をするが、ほぼ世界共通語になりかけている英語圏の人がそうするのは悔しいけれど一定の理解はすることができる。

韓国とか中国からの観光客が同じようにするのは理解できないが、そうされても言葉がわからないことを申し訳なくすら思う日本人は、なんて優しく、なんて小心者なのだろうと思う。

自己主張が苦手だったり、相手の気持をおもんばかることを優先してしまう日本人は、尖閣諸島、北方領土問題の解決、ビジネスシーンでは実に不利であることは間違いない。

しかし、そんな国民性を少しだけ誇りに思うのも事実だ。

日本流のおもてなしで気分を害する観光客はいないだろうし、そういう接客で気分を害する人もいないものと思われる。

つまり、それこそが日本流、日本式のビジネスモデルでもある訳だ。

どんどん観光客が増え、日本のおもてなしの心がクチコミで世界に広まれば、客が客を呼ぶという好循環が生まれる。

そして、その接客術はジャパンモデルのサービス業としてノウハウを輸出することもできるだろう。

時代や環境、立場が変わって初めて気づくこともある。

日本は製造業主体からサービス業主体へと変わる必要があるかも知れない。