デジタル化の波 Signal-3

デジタル化の波 ~目次~

まだテレビを買い換えておらずアナログ電波を受信し続けている訳であるが、放送が終了するのが 2011年の 7月であるから、いよいよタイムリミットまで 1年余りとなってしまったということであり、いいかげんにデジタル薄型テレビの購入を真剣に検討せねばならない時期になってきているのだが、今はそれほどテレビを見るわけでもなく、録画しておくにしても HDD/DVDレコーダはデジタル放送を受信しているので大きな問題を抱えておらず、ついつい先延ばしになっているのが現状である。

この街に二軒ある家電量販店のうちの一軒が不採算店の整理統合を進めていることから撤退が決定し、7月の末日で閉店になるので現在はセール期間となっており、もしビックリするくらいの在庫処分価格になっているのであればそれを機会に買ってしまうのも悪くないと店内を見回してみたが、店頭価格から 5-10%の値引きがされている程度であり、もう一軒の量販店の方が安かったりするのを目の当たりにすると、競争に負けて撤退を余儀なくされるのも致し方ないと深く納得させられたりした。

タイムリミットが近づいてはいるものの、まだ一年以上も先であるし、年末には新製品の入れ替えがあってまた価格に大きな変動がある元の予想されるので焦って購入する必要はない。

それにしても、アナログ放送が終了してしまうことに関しては感慨も一入で、生まれてからずっとお世話になっていた方式が終わりを告げることに一抹の寂しさも感じたりする。

白黒でテレビ放送が開始され、カラー化、ステレオ化、二か国語放送、文字放送と進化してきたが、デジタル化に関しては進化ではなく生まれ変わりに等しいほどの変革だ。

デジタル化によって映像と音声だけではなく、様々な情報まで送受信可能になるし、電波の届かない地域であっても電話回線さえあればインターネット経由で視聴できるようになる。

アナログ電波で起こっていたノイズもなく、画面が乱れたりガサガサの映像になったり、映像が二重に見えるゴースト現象もないクリアな映像を見ることができるなどメリットも多い。

ただし、メリットだけではなくデメリットもあり、なんとかギリギリで電波を受信できていたような場所ではまったく映らなくなってしまうので、山間部やビルに囲まれた場所で映像が悪いながらも何とか見ていた家では受信することができなくなってしまう。

大阪で暮らしていた頃は阪神タイガースの試合がみたくて目が痛くなるのをこらえながらサンテレビをなんとか見たりしていたが、デジタル放送になると基地局を設けなくては受信できなくなる可能性が高い。

受信可能な電波であればノイズのないクリアな映像を楽しめるが、ノイズが多すぎる微弱な電波は受け付けることができず、単に真っ黒な画面が映し出されて「受信できない」旨のメッセージが表示されるだけになってしまうだろう。

それは何とも味気ないことか。

アナログ電波のようにザーッと砂の嵐にならず、真っ黒な画面。

中学生の頃、真夜中に放送されている 『砂の嵐』 という番組は、あんなコトやこんなコトがナニでアレで、子どもなどに見せられないようなもの凄い放送だと噂され、眠い目をこすりながら必死に睡魔と戦って夜中の 1時 2時まで起きていたことを思い出す。

これからの時代、そんなアナログな話しが子どもたちの間で噂されることもなくなるのだろう。

時代の流れとは言え、それはそれで何だかちょっと寂しい気がしてしまう。

何もしたくない日

今日は午前中から法事のための来客があり、愛想笑いなんぞをしてみたり、とりとめのない話に耳を傾けたりしている段階で多少の疲れを覚えていたのだが、共にした昼食の席で同じ話しを何度も聞かされたり、さらなる愛想笑いで疲れが蓄積されたのに加え、日の高いうちからビールを勧められて飲んだりしたものだから雑感を書く気にならず、ボーっとパソコンの前に座ったりしていたが、せめて一行でも二行でも書いておこうと、やっとキーボードに手を置いたところである。

ここまで何もしたくないというのも珍しく、せめてテレビを見るとかゲームをするとか何かしらの暇つぶしにも興味は向かず、今はただ、床のジュウタンの模様の一箇所をただひたすら見つめながら思考のおもむくままにボーっとしていたい気分であり、何かを順序立てて考えたり構成を考えながら文章など書く能力も意志も完全に欠落している状態で、パソコン画面を見てはいるものの焦点が合っているんだか合っていないんだか、ときおり意識が 『はやぶさくん』 が行って来たイトカワの浮かぶ 23万km の彼方まですっ飛んでしまう。

おまけに昼に食べた蕎麦のつゆが家で食べるものより塩辛かったのが原因なのか、それともアルコールを摂取したからなのか、やたらとノドが乾くので何度も水を飲むのに立ち上がり、キッチンで料理の下準備をしている 『お買い物日記』 担当者と話をしてみたりするので余計に考えがまとまらず、さらには天ぷら蕎麦にしたのが悪かったらしく、なんだか胃もたれというか胸やけというかモヤモヤした状態が続いており、数年前だったらとっても美味しく食べていたはずなのに、一人前の天ぷらを口にしただけで胸やけしてしまうとは何とも情けないなどと意気消沈したりする。

そして今日は気温が上がって部屋の温度は 27度を超えており、北海道にしては暑いという領域に達しているので余計に思考が鈍っているものと思われ、普段であれば 『はやぶさくん』 とか 『参院選』 という 『お題』 さえ浮べば、人から 「長い!!」 と言われるほどダラダラと文章を書くことができるのに今日は考えるのすら面倒で、キッチンから香ってくるニンニクの臭いに胸やけも忘れて食欲をそそられたり、開け放った窓の外から聞こえてくる鳥の声に耳を傾けたりしてしまう。

という訳で、今日は何もしたくないので何を書こうかなぁ~と考えるまでを文章化してみたが、たまにはこんな日があっても良いのではないかと、相変わらずボーっとした頭で思ったりしているところである。

日本の終わり

05/08の雑感にも書いた通り、経済学者によれば日本はこのままの状況が続くとあと 4-5年で破綻するであろうことは現実的であり、そんなことは政治家も官僚も知っていることであるにもかかわらず、政治家は選挙が怖くて消費税の値上げを声高に主張できないし、官僚は保身のために無駄遣いを減らすことができずにいるため最悪のシナリオは着々と進んで破滅へのカウントダウンは確実に進んでいる。

菅総理大臣が誕生して多少なりとも軌道修正されることを願ってはいるが、日本の産業も衰退して技術力も失われ、韓国や中国、そのうちにインドやベトナムにも追い越されてグローバル経済下で競争力を失ったら法人税も目減りするのであるから国の予算は大量の赤字国債を発行しなければ成立しないと言うことになる。

そうなったら破綻までの時間はますます短くなり、延命の手段すらないだろう。

それにしても、なぜ日本はこのような状況になってしまったのか不思議でならず、どう考えても納得、理解できないことの一つとして毎年の国家予算が挙げられる。

無駄遣いが多いとかいうのはもちろんのことだが、それ以外にどうしても理解出来ないのはもっと低レベルな足し算、引き算の話しで単純化すれば小学生にでも分かりそうなことである。

車の販売台数は激減し、経済規模は 30年くらい前の水準まで縮小し、デフレで物価が上がらないどころか下がってしまい、人口も減り始めた今、なぜ国家予算だけは増え続けなければいけないのか。

今の日本が 30年前程度のものであれば、単純には予算だって 30年前と同額で差し支えないはずだと思うのは自分だけだろうか。

1980年の一般会計予算は 21兆円、特別会計予算 90兆円で合計 111兆円くらいであり、2010年度の一般92兆円、特別122兆円を合わせた 214兆円の半分くらいで済んでいる。

当時から無駄遣いはアホほどあっただろうから、なんだかんだで 100兆円もあれば足りるのではないかと思われる。

当時とは異なり、少子高齢化、格差が進んでいるので福祉や医療、社会保障などは予算が膨らんでも仕方がないとしても 120とか 130兆円で何とかしてもらいたい気分だ。

前述した通り車の数が減っているのだから、これ以上は道路拡張する必要性は低いだろうし、高速道路などは百年の計で考えなければならないと偉そうに言っても 100年後に自動車がタイヤを転がしながらアスファルトの上を走っている保証などどこにもなく、スイスイと空を飛んでいるかも知れないので必要性の判断は難しい。

とにかく徹底的に無駄を省いて必要最低限のことをやれば予算を半分くらいに出来そうだと思うのだがどうだろう。

このまま無能な政治家と志の低い官僚に国の将来を任せていたら日本が破綻するのは間違いなさそうだ。

だとしたら海外に脱出しようかとも思うが、日々の糧を日本に依存しているので自分だけ脱出してもクライアントが破綻したら報酬を得ることができなくなる。

円が紙くずになっても困らないようにユーロとかドルの外貨預金をしておくべきかも知れないとも思うし、今はユーロに対してもドルに対しても円が強く、安く外貨が買えるのでチャンスと言えばチャンスなのだが、経験がないのでちょっと不安だ。

おまけにアメリカの先行きだって安泰ではないだろうし、ヨーロッパ圏はもっとガタガタしている。

ここは中国の元かとも思うがバブルが弾けるのも時間の問題だろうから今は手を出しにくい。

何となく、ずっと落ち着いているオーストラリアドルなんか良さそうだが、全世界が不況になったら観光客も畜産、穀物の輸出量も減るだろうから安泰ではいられないだろう。

つまり、ネガティブに考えると何をしてても一緒ということになるし、そもそも外貨預金するほどの資産も持ち合わせていないという悲しい事実もあったりする。

来月には確実にあるであろう参議院選、普天間も政治とカネの問題も大事だとは思うが、日本経済を立て直してくれる政策を打ち出し、実行力のありそうな政党を支持しようかと考えている。

先祖返り

SPA(Speciality Store Retailer of Private Label Apparel)とは、ユニクロにみられるような日本語では 『製造小売業』 と呼ばれるビジネスモデルであり、元々はアメリカの衣料品小売大手 GAPが開発した手法であるため、ファッション、アパレル業界に向けた用語だったが、企画から製造、販売までを垂直統合させることによってムダを省き、消費者のニーズに迅速に対応できるということから、多くの業態にその手法が取り入れられ、今では家具のニトリ、靴のABCマートなど多岐に渡っている。

大手スーパーが自主企画商品として発売しているPB(プライベートブランド)商品だって大きく広い目で見ると企画、製造、販売までしているのだから SPAの一種なのではないかと思われる。

庶民にとって品質の良いものを安く提供して頂けるのであればどんな手法のビジネスであれ、これほど嬉しいことはないし、事実として今のところは消費者も支持して商品が選ばれ、企業も利益を得られているのだから双方にとってプラスの結果をもたらしていると言えよう。

しかし、それはそれとして不思議に思うこともある。

企画、製造、販売をすべて手がけるというのはニュービジネスでも最先端のビジネスモデルでもなく、消費者に喜ばれるものを作りたいと思い、原材料の仕入れから製造、そして販売までを手がける昔ながらの豆腐屋さん、わらび餅屋さんなどと何ら変りなく、商売の先祖返りに他ならないのではないだろうか。

もっと原点に立ち返れば漁師さんが捕ってきた魚を自分で売る、農家の人が育てて採った野菜を自分で売るというのも同じことのように思う。

昔はそういうビジネス、商売ばかりだったのが効率を求めて分業化し、作る人、仕入れる人、それを運ぶ人、運ばれたものを売る人など、それぞれがビジネスとして独立していったはずだ。

そして、その小売がバラバラに存在するよりまとまっていた方が買う側にとって効率的であることから、百貨店やスーパーという形態が生まれ、様々な売り場を誘致したことから巨大化していったのだろう。

それが今、再び分裂した訳だが、それぞれの小売がひとつの商業施設に誘致され、例えばユニクロ、ニトリ、ABCマートが軒を連ねるようになり、ヤマダ電機とかビックカメラなどの家電量販店も、ドラッグストアもホームセンターまでもまとまったら再び巨大な百貨店とかスーパーとかが誕生することになるのだろうか。

食事にしてもそうだが、ラーメン店、寿司屋、洋食屋などバラバラに存在するより家族で行って、何でも好きなものを注文できたほうが便利だということでファミリーレストランが誕生したのだろうが、今は絶滅危惧種に向かってまっしぐらなのではないかと不安視されるほど業績が低迷しており、むしろ中華なら中華、牛丼なら牛丼、カレーならカレーの専門店に消費者が流れている。

この業態を SPAとは呼ばないが、客に好まれるであろう料理を考案し、それを作って販売する流れは製造小売業と同質のものであるような気がする。

この飲食店業界も数年先になると、やっぱり一箇所で様々なのものを食べられたほうが便利だということになり、再びファミリーレストランのような業態が脚光をあびたりするのだろうか。

離散集合を繰り返して組織やビジネスというのは大きくなっていくものであるが、はたしてこれから先、どんなビジネスが生まれてくるのだろう。