大は小をかねるか?-2

何かの知識や技術があると神のように崇められ、まるで万能であるかのように思われることがあるものだ。

学校の先生もそうであり、人にものを教えるくらいだから何でも知っているであろうし、何でも知っていなければいけないような雰囲気にすらなる。

しかし、実際には教師といえども得意科目はあるだろうし、実は体育が苦手だとか音楽が苦手だとか美術などセンスのカケラもないという人だっているだろう。

毎日のように子どもと接しているのだから、当然のごとく子どもの扱いに慣れているだろうと思われているだろうし、さぞかし躾(しつけ)や教育に関しても完璧なのではないかと思われるだろうが、実際には教師の家庭に生まれた子のすべてが人格者になり、高度な知識を身に付けるかといえば決してそんなことはなく、不良になる子もいれば犯罪者になってしまう子どもだっている。

医者なども同様で専門分野以外の知識に乏しく、分野の異なる疾患に関しては手も足も出ないというケースはざらにある。

もちろん一般人よりも豊富な知識はあり、一通りの教育は受けているはずなので専門外のことに対して無知ではないだろうが、医者だからと言ってすべての病気を治してくれる訳ではない。

弁護士にしても得意分野というものがあり、夫婦間のトラブルに強かったり事件、事故関係が得意だったり IT分野ならお任せあれという人もいるだろう。

逆に苦手な分野もあるのは事実で、とくに IT分野は著作権が絡んだり専門用語、技術用語のハードルが高く敬遠されがちで、何年か前までは案件を引き受けてくれる優秀な弁護士というのは少なかった。

今は時代の流れからパソコンも普及し、一般の人でも用語を理解できるので若い弁護士であれば問題ないと思われるが、十数年前ともなると音楽の CDとパソコンで使う CD-ROMの違いから説明しなければいけなかったので大変だったのである。

ここまで挙げてきたのは俗に“先生”と呼ばれる職業だが、我々コンピュータ関連でも同じようなことが言える。

例えばこの雑感に何度も登場しているマサル、今は内勤になっているが数年前まではコンピュータ端末の修理のため現場を飛び回る仕事をしていた。

かかえる顧客が高齢であり、さらに離島に暮らしている場合もあったりするが、そんな技術者をめったに目にすることのない人たちは、ここぞとばかりに関係のないことまで依頼してくるらしい。

テレビの映りが悪い、CDで音飛びがする、やれ炊飯器だ冷蔵庫だと、様々な不満をぶちまけては修理してほしいと言ってくるのだそうだ。

彼らにしてみたらコンピュータみないな精密で複雑なものを修理できるのだから、テレビや冷蔵庫を直すなど造作もないことであると思い込んでいる。

しかし、構造から何からまったく異なる機器をチョチョイと修理できるはずもなく、断るのに一苦労するということだった。

ひるがえって自分。

パソコンを使う仕事をしていると、それに関わることは何でも知っていると思われているようだ。

その相談内容はパソコン本体が起動しなくなったということから急に動作が遅くなったという相談、アプリケーションの使い方からウイルスの駆除まで多岐に渡る。

この業界で何年も仕事をしているので一般の人より若干の知識はあるが、いままで述べてきたように決して万能ではない。

とくに初めて見るソフトウェアの使い方を聞かれても答えられるはずもなく、さらには画面を目にすることすらできない電話相談されても質問内容自体を理解することができないではないか。

設計などで使用される CADとか医療系のものなど、専門色の強いもの以外、パソコンのソフトなどというのは操作方法から使用される用語まで似たり寄ったりのものが多いので、ちょっと考えれば何とかなったりするものではあるが。

とりあえず、一緒に考えながら操作してみて使い方を導き出せてはいるので、何とか役には立てているものと思われるが、何でも知っていて当然とばかりに安易な質問をしてくるのだけはやめていただきたいものである。

人は決して万能になどなれはしないのだから。

大は小をかねるか?

いよいよ本気でテレビの買い換えを検討せねばならない。

来年の 7月でアナログ放送は終了するし、今年の 12月でエコポイント制度も終了するとあっては、否が応でも買い換えなければならないし、どうせならば 12月までに購入するのがお得だと言えよう。

若い頃は朝起きてから寝るまで家にいるときはテレビを点けていたが、今はそれほど見たい番組もないし、少なくともパソコンに向かっている間は画面を見もしないのでエネルギーの無駄だと思い、積極的にスイッチを切ることにしている。

これは年齢とともにテレビに興味がなくなってきたことも一因ではあろうが、昔と違ってテレビがつまらなくなったことが要素の大部分を占めるだろう。

いくら視聴時間が短くなったとは言え、やはりテレビのない生活というのは考え難いのでデジタル化を進めなければいけない。

生活の中で大きなウエートを占めなくなったテレビなのだから、それほど高機能であったり大画面であったりする必要はなく、今のブラウン管テレビが横長になった程度のサイズで良いだろうと思っていたのだが、どうやらそういうものでもないらしい。

機能はさておき、画面だけは大きなものを選択すべきだと義兄から教えられた。

テレビ番組内の表示に使われる文字を読もうとしたり、デジタル放送特有の情報表示などを利用しようとした場合、小さな画面では文字が読みづらいとのことなのだ。

なるほど確かにそうかもしれない。

今でさえ野球の試合で画面の端に表示されているスコアを見ようとすると、ジリジリと尻で歩いてテレビに近づかなければいけない。

縦のサイズが同じで横に広がった程度の画面の大きさだと表示される文字は今よりも小さくなる可能性が高く、内容を把握するのに苦労すること必至だ。

やはりここは 『大は小を兼ねる』 という先人達が残した偉大なる助言に従い、予算と部屋の大きさの許す限り大きな画面を選択すべきであろうと考えてはいる。

しかし、デジタル革命によって製品寿命はどんどん短くなり、昔と違って家電を 10年も 15年も使うかと問われれば決してそんなことはなく、いまは高付加価値となっている 3D(3次元(飛び出す映像))テレビだって 3年もすればごく一般的なものとなり、映画のみならず地上波のテレビだって対応になっている可能性も否定できない。

そうなれば今年の新製品だろうと数年後には陳腐化し、買い替えの必要性に迫られることも十分に考えられるのではないだろうか。

そうであれば何も予算の上代で選択する必要はなく、そこそこの金額でそこそこのサイズのものを買っておけば良いということになる。

はてさてどうしたものか。

この小さな悩みは年末になるまで続いていくに違いない。

政治不信

政治が腐敗して実行力も政策立案能力も衰え、改革の意志も見えなくなった自民党が下野したのは当然のことであり、民主党への政権交代は起こるべくして起こったものであろうが、国民の期待とは裏腹に公約として掲げたものの中で、その原型を崩さず確実に実行、実現されたものはひとつもない。

沖縄米軍基地問題もしかり、高速道路無料化、子ども手当も中途半端に進みつつあって、何だかよく方向性が見えなくなってしまっている。

高速道路の無料化などは財源をどうするのか、民営化された道路公団は何を収入源とすべきなのかなどの問題も多く、実現できるはずがないというのが自民党を始め、マスコミや多くの国民がいだく感情だったが、
「い~や、できる」
と大見得を切って分厚い資料まで作成し、
「ほ~ら、こうすれば可能だ」
と言い切ったのは民主党だが今はすっかりトーンダウンしている。

子ども手当も財源が問題視され、実現困難との見方が大勢を占めたが、
「い~や、できる」
と言い張っていたのは民主党だ。

当初から給食費の不払いなどが社会問題化しつつあるのだから、高校の授業料無償化をするくらいなら金を国民にばらまくのではなく、小学校、中学校も給食費、授業料を無償化し、保育園、幼稚園の無料化も進めた方がマシだろうという見方もあった。

家庭に金を支給したところで給食費を払わない馬鹿は間違いなくいるだろうし、子供の生活や学習環境が豊かにならずギャンブルや飲食費に消える家庭も多いだろう。

それだったら間接的な支援に国費を回し、保育制度を充実させて待機児童の数を減らすとか学童保育まで充実、さらに低価格化や無料化を実現すべきだろうと思う。

そいう意見に耳を貸さず、何が何でも金を支給する方向で進んでいたはずなのに、ここに来て
「ちょっと全額支給は無理かも」
などと言い出し、先行き不透明になりつつある。

とにかく、大きな花火を打ち上げてみては上空でそれが花開かず、ショボショボのまま落下するという状態が何発も続き、一応は派手に見せている事業仕分けだけは国民の支持を得ているものの、実のところ中身を細かく精査すれば官僚にとって痛くも痒くもない部分だけが切り落とされて核となる部分は温存状態にあるというごまかし、イリュージョンショーを見せられているだけだ。

こんなことで支持率など上がるはずもなく、下降線の一途を辿るのは当たり前のことだが、これからも挽回のチャンスは何度もあると思われるのでこんなことでは政治不信になったりしない。

鳩山由紀夫、小沢一郎の両氏とも政治資金にまつわる巨額の不明瞭会計が問題視されているが、そんなことは今に始まったことではなく、自民党時代から何度も見せられてきたドタバタ劇であるし、今さらどうでもいいことだと思うので不信の原因にはならない。

マスコミや野党は小沢氏に対して説明責任を果たせと詰め寄るが、記者会見や国会の証人喚問をしたところで警察に話したこと以上のことを言うはずもなく、聞くだけ無駄だし時間と経費の無駄でもある。

政治家なんぞまともな神経や金銭感覚で務まるものではないだろうから、たとえ個人が何をしても国民のための仕事をして結果を出せば文句はない。

ここにきて政治への興味も関心も急速に薄れつつあるのは、この夏の参院選に向けた候補者の擁立に大きな原因がある。

何を考えているのか、いわゆる著名人、タレントとか元スポーツ選手の名が多数あがっている。

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■ 民主党
長塚智広 (競輪選手)
岡部まり (タレント)
池谷幸雄 (体操選手)
岡崎友紀 (女優)
桂きん枝 (落語家)
庄野真代 (歌手)
谷 亮子 (柔道)
原田大二郎 (俳優)

■ 自民党
石井浩郎 (元プロ野球選手)
田島みわ (元女優(麻生真宮子))
堀内恒夫 (元プロ野球選手)
三原じゅん子 (女優)

■ 国民新党
西村 修 (プロレスラー)
敏いとう (歌手)

■ たちあがれ日本
中畑 清 (元プロ野球選手)
<< 「国民を愚弄するのもいい加減にしろ!」
と声を最大ボリュームにして言ってやりたい。

今まではせっかくの休日なのだから遊びたいとか、ダラダラしていたいという気持ちを抑えて投票してきたが、こんな不真面目な選挙の投票などしたくはない。

こんな奴らへの報酬やら国会運営費、政党交付金に充てられる税金など払いたくもない。

こんな日本に住んでいたくもない。

今日現在までは頭の悪いことをしていない渡辺喜美氏のみんなの党か、地方自治体の首長らが結成した日本創新党にでも頑張ってもらい、国会を乗っとっていただきたいものである。

世も末

ギリシャ問題に端を発する金融不安が大きな広がりを見せて世界同時株安、同時不況の様相を呈してきた昨今、比較的順調な経済指標を誇るオーストラリアや中国でさえどうなることか先が見えなくなってきているが、この事態がただでさえ景気の悪い日本に重大な影響を及ぼす事になるのは火を見るより明らかであり、もしかすると多くの経済学者が指摘している通り日本は一気に破滅への道をたどるのではないかという最悪のシナリオさえ頭をよぎってしまう。

一言でいってしまえば財政破綻であり、今のギリシャと同じだ。

ギリシャと異なり、さらに悪いのはEU加盟国でもユーロ圏でもないので破綻したところで誰も助けてなどくれない。

以前の韓国のようにIMFの管理下に置かれ、行政サービスから何まで徹底して削られて不便な生活を強いられることになるだろう。

どの経済学者、経済評論家の話しを聞いても一致しているのは、このままの状態が続けば 5年以内に日本は財政破綻するということであり、それを回避する唯一の策は増税しかないという点で、それは消費税 15%前後であろうという線においても意見が揃っている。

このままの状態、それは行政に無駄が多く支出ばかり増えて、少子化に歯止めがかからず人口が減る一方であるため税収も減り、企業はデフレを克服できず国際競争力も衰えて収益が悪化する結果、国が徴収する法人税も減り続けるという現状。

政治家が無能なのでアメリカやヨーロッパのように新エネルギーの創出とか環境産業の育成に向けた国策として方向性を示し、国民が一丸となって目標に向かい、将来の一大産業となることを見据えて投資を呼び込みヒト、モノ、カネを吸い寄せると言うビジョンもなく、中国のように南米やアフリカに資金援助や技術供与をして現エネルギーや資源を確保するという戦略もない。

日本の経済が破綻して円の価値が暴落してしまった場合、原油も天然ガスも高くて買えないので輸入は不可能、60%を依存している食料も買えず、家畜を飼育するための餌すら買えない。

つまり、乱暴な単純計算をすれば現人口の 40%しか日本国内で生活できないことになる。

金の価値が下がるということは悪性のハイパーインフレに陥るということであり、今は 100円で買えるものが 500円になったり 1000円になったりする訳で、生活物資や食料さえも手に入れるのが困難になるだろう。

金の価値が 1/10 になった場合、今日現在で 1バレル(約159リットル)当たり 75ドル(約7000円(1ドル=93円))の原油を約7万円で買わなければならないということだ。

財政が破綻して良いはずがないことは官僚も政治家も分かっている。

そして、日本が危機的状況にあることも分かっている。

それなのになぜ、どうして 「少なくとも4年間は消費税を上げない」 などと言っていられるのか不思議でならない。

これほど危機的な状況にありながら、なぜ日本がギリシャのようにならないのかは、1500兆円にも及ぶ金融資産があるからだと言われるが、それはあくまでも個人資産であって国の借金を肩代わりする担保ではないだろう。

五百三十六歩譲って 1500兆円のおかげだと認めたとしても、何を考えているのか預貯金が流動化しないから個人消費が上向かないと言い出し、どうやって金を使わせるかの議論をする始末。

国民が開き直り、あるいはヤケクソになって金を使い、資産が 1000兆円を割り込んだ途端に海外から信用不安の目で見られて国債が暴落し、前述した破綻の道へまっしぐらとなるだろう。

もう誰もが分かっているように、頭のおかしな官僚とのしがらみを断って無駄遣いを徹底的になくすと同時に公務員の数を減らして減給し、その上で消費税を 7%、10%、15%と 2年おきくらいに段階的に引き上げるしか日本を救う道はないのである。

それができる政治家は鳩山でもなければ谷垣でもなく、それができる政党は民主でも自民でもないように思う。

せっかくの政界再編、新党ブームなのだから、強烈なリーダーシップを発揮して一定期間であればたとえ独裁者的に主導しても構わないので日本を明るい未来に導いてくれる政治家、主導者が現れないだろうか。

味覚の変化

子供の頃は美味しいと思わなかったのに大人になると美味しく感じるというのはよく聞く話し。

小学生の頃からニンジン、ピーマン、玉ねぎ、長ねぎと、何でも食べて親からべた褒めされていた自分も決して好きではなかったのが山菜類だ。

まだフキなどは苦もなく食べられたが、ワラビとかゼンマイともなると自ら好んで手を出すこともなく、あってもなくても一向に構わない食材であり、出されれば心の中でブツブツと文句を言いながら仕方なしに口に入れるという程度のものだった。

それは大人になってからも変わらず、料理屋さんのメニューにあったとしても山菜系のものを注文することはなかったし、店の棚に並んでいても、あえて購入することもなかった。

時は巡って単なる大人から少しは円熟味を増したオッサンへと変貌を遂げ、スーパーで見かけた山菜ミックスのパック詰めを手にしたとき、もしかすると蕎麦にトッピングして山菜蕎麦として食べると美味しいのではなかろうかと思うに至り、意を決して購入してみて試したところ、これが予想を遥かに上回る美味しさで、いたく感激してしまったものである。

まだ試してはいないが、きっとタラの芽やフキのトウの天ぷらなんぞも、そのちょっとした苦味が美味しく感じたりするのだろう。

以前の雑感でも触れたように、今は頻繁にセロリを食べるようになった。

元々セロリは好きとか嫌いとかいう次元のものではなく、口に入れたことすらなかったので実際にはどんな味がするのか、それが自分が好む味なのかどうなのかすら分からなかったのである。

自分が子供の頃はセロリなどというハイカラな名前の野菜は近所の八百屋で売られていなかったし、焼き物や煮物がメインの食卓にセロリを必要とするようなオシャレな料理が乗ることすらなかったので、食する機会など皆無だったと言っていい。

大人になってから洋食やイタリアンを食べた際に食材としてセロリが含まれていたことはあっただろうが、相変わらず店で売られていても横目で見る程度であり、わざわざ購入してまで食べる必要性を感じていなかった。

ところがある日、何を思ったのか急にセロリがどんな味がする野菜なのか気になり、最悪の場合は捨てることも覚悟して見切り品となって極端にダンピングされているものを買ってみた。

そしてそれを恐る恐る口に入れてみるとこれが実に美味であり、それからというもの冷蔵庫の中には常にセロリが入っていることになった。

最近になって何かのテレビ番組で知ったのだが、子供のうちは、苦いもの、酸っぱいものに対して拒否反応を示すのが自然なのだそうだ。

それは、多くの場合において腐った物や毒素をもったものに酸味と苦味があり、間違ってそれを口に入れてしまったとしても吐き出して食べてしまわないようにという人間の本能であるらしい。

苦くても毒性のないものには、魚の内臓だったり香味野菜だったり山菜、ビールなどがある。

酸っぱくても腐っていないものには梅干や酢の物、柑橘類などがある。

これは繰り返し口にしたり教えられることで学習し、警戒心が薄れて食べられるようになる。

そして、酸味や苦味、甘味や旨味などの様々なパターンの組み合わせで子供の頃は食べられなかったものが美味しく感じたりするようになるらしい。

つまり、子供の頃は苦手でも大人になると美味しく感じるというのは当然のことであり、むしろいつまで経っても好き嫌いが激しいのは親の躾(しつけ)が悪かったか、教育がなっていなかったか、あるいは本人の学習能力が劣っているかのいずれかではないかという結論に達する。

そう思われないためにも好き嫌いはなくした方が賢明だと思われる。