2000年10月
あわてない、あわてない あわてない、あわてない
自慢する事ではないが、子供の頃は足も速く徒競争ではあまり負けた記憶がない。
しかし、ある程度の年齢になってからまったく走ることがなくなってしまった。もともと大らかな風土で育ったせいなのか、目の前に電車がきていても走る事はない。「次のに乗るからいいや」とか思ってしまうのだ。
だいたい不思議に思うのだが、朝の通勤時間帯には数多くの電車があり、2-3分間隔で到着する。地下鉄の御堂筋線などは前の電車のテールランプが見えているのに次の電車が入ってくるほどだ。それなのに、なぜ急がなければならないのだろうか。
洋服選びや化粧に時間のかかる OL ならまだしも、いい歳をしたサラリーマンまでも大きなお腹を揺すりながらドタドタと走っている。夏場などは、そのほとばしる汗を見ただけで気分が悪くなってしまう。
もともと内臓が丈夫ではないため、途中下車してトイレに駆け込んでも間に合うように 30分以上の余裕を持って出勤している。電車の 1本や 2本見送ってもまったく問題ないから電車がホームに到着していようが、目の前でドアが閉まろうが何も気にせずダラダラと歩いている。
急いでいる人からすると余裕で歩いているのは迷惑なのかもしれないと思い、出来るだけ邪魔にならないようにしているつもりだが、今日も後ろから走ってきた”おやじ”が電車に間に合わなかったため、恨めしそうな顔をしてこちらを見ていた。
申し訳ないと思う反面、毎日の出勤で何分の電車に乗るべきかを学習する能力が無いのか!とも思ってしまう。まぁ、忙しい毎日で 5分でも 10分でも長く寝ていたい気持ちも解らないではないが・・・。
ホームで走るのと 5分早起きのどちらを選ぶかと聞かれれば間違いなく”早起き”を選ぶので、これから先もきっと走る事はないに違いない。
2000 / 10 / 26 (木) ¦ 固定リンク
イヌやネコのいる風景 イヌやネコのいる風景
動物は爬虫類以外はなんでも好きだが、とくに四つ足がよろしい。子供の頃は前足、後ろ足とも大きく「ぬいぐるみ」みたいだ。
この界隈にはイヌやネコが多く、色々と楽しませてくれる。最近は見かけなくなってしまったが、お年寄りに連れられたポメラニアンが夏の暑い時期にスポーツ刈りのように毛を短くされているのを目撃した時には、指をさして「わっははは」と笑ってしまった。
かなり前に引っ越してしまったが、目の前で飼われていた白いイヌはとてもやる気の無いイヌで、家の壁にもたれかかって妙に色っぽい格好をしていたり、低い塀にあごをのせて舌をベロ〜ンと出している姿を正面から見せてくれたりしていた。
中でも最も気に入っているイヌは近所に住む黒いヤツ。どうやら女の子らしいのだが、その姿はりりしく、とても美しい。出勤途中に会えると「今日は良いことがある」と思えたりする。飼主である”お父さん”と散歩している時はつながれている紐もゆるんでいて、二人が同じペースで歩いている。これが”お母さん”や”お姉さん”が相手だと、紐をグイグイ引っ張っていく。やはりイヌにとって”ご主人様”は絶対らしい。
その他にもたくさんのイヌと出会えるが、唯一の”馬鹿イヌ”を除いては、皆それぞれに可愛い。何より嬉しいのは変な服を着ているイヌがいないことである。イヌに服を着せて散歩しているのを見ると、あのイヌは本当に喜んでいるのだろうかと疑問に思ってしまう。
以前はあまり好きではなかったネコも、最近はすごく可愛く思える。人懐っこいネコ、絶対に人に媚びないネコ、人の目を気にせずマイペースで生活しているネコと、とても個性的なんである。
夏の暑い時期にエアコンの室外機から出てくる風を扇風機代わりにして涼んでいるネコあり、木陰で夢心地になっているネコあり。会社の行き帰りにわりとよく会うネコ達は色々と楽しませてくれる。人が嫌いなネコは見つかりたくないのか顔だけを草むらや植木の陰に突っ込んでいるのだが、首から下は丸見え状態なので「見えてるよ」と言ってやると、ピューっと逃げていく。
上述の黒いイヌの近くに住むネコは妙に人懐っこい。ある日、会社帰りにその近所を歩いていると、茶色のネコが「ニャゴニャゴ」言いながら隣を歩いている。「どうしたの?」とたずねると「ウニャニャッ」と言いながらタタッと走り、飼われている家のドアの前で「ニャ〜ン、ニャ〜ン」と文字通りの猫なで声で鳴いている。
どうやら家に帰るのが遅くなり、入れてもらえないらしい。いくら可愛い声で鳴いてもドアを開けてもらえず、恨めしそうな顔でこちらを見るのだ。そんな目で見られても、その家に「ネコが困ってますよ」とたずねる訳にもいかず、「明日からは早く帰るように」とネコに言い聞かせてその場を去ったのである。
それでも懲りない性格らしく、その後も何度かドアの前で眉間にシワを寄せて困っている姿を見かけている。会社の帰りが遅くなった日にはネコの集会に参加している姿も目撃した。
今は借家のためペットを飼うことはできないが、近所にたくさんのイヌやネコがいるため、なんとなく幸せな気分に浸っている毎日である。
2000 / 10 / 15 (日) ¦ 固定リンク
おばさんのマーチ おばさんのマーチ
今日、地下鉄御堂筋線でとてつもなくインパクトの強いおばさんを目撃した。
電車内は読書の時間と決めているので、いつもの雑誌をいつものとおりに読んでいたところ、どこからともなく軽快な歌声が響いてきた。どうやら隣の車両からのようだが何の曲か解らない。少し気にはなっていたが再び雑誌を読みふけっていると、いきなり車両間のドアが開き、耳をつんざけとばかりの大きな歌声と、声の主である”おばさん”が出現した。
あまりのことに驚いて口をあんぐりと開けたまま”おばさん”を眺めていた。”おばさん”の歌うその曲は、「元気を出そう」というのが主題の行進曲のようだが、とんでもなく古い歌なのか、はたまた”おばさん”のオリジナルなのか定かではないが、まったく記憶にない代物であった。
”おばさん”はキッと前を見据え、謎の曲を歌いながら行進していく。途中で急に立ち止まり演説をはじめるのだが、何を言っているのか何を主張したいのかは残念ながら理解できなかった。
ひとしきり演説をおこなった後、再び例の曲と共に行進を開始して、さらに隣の車両へと移っていった。そして”おばさん”の声が徐々にフェードアウトしていく。ふと我に返り、周りを見渡すと”おばさん”を気にしているのは自分くらいで、皆それぞれに惰眠を貪ったり新聞を読んだりして何事もなかったように振舞っている。
電車が次の駅に着き、扉が開くと例の歌声がホームにこだましている。その声が徐々に近づいたと思った瞬間、目の前のドアから”おばさん”が出現し、目の前で立ち止まって演説を開始してしまった。細い体からは信じられないほどの大声の持ち主で、こぶしを振り上げながら何かを主張している。
向いの席に一人分のスペースがあり、演説に疲れたのか、”おばさん”がドッカリと腰を落ち着けた。なにやらブツブツ言っている間はよかったが、再び大声で何かを主張し始めた時、隣に座っていた若い女性がいたたまれずに席を立とうとした。すると”おばさん”は「逃げる事はない!自分が席を立つから座っていなさい!」と言い放つではないか。指示された女性も力が抜けたように席に座っていた。
”おばさん”は宣言どおりに席を立ち、乗車口に陣取って例の歌を歌っている。次の駅についたとき、ホームにはその乗車口から乗り込む人が並んでいたが、ドアが開いたとたんに、とんでもない大声の例の歌を聴かされ、サラリーマン風の人が「おわぁー!」と驚きながら別の乗車口に走り、OL風の女性は驚きのあまりにしゃがみ込んでしまう大騒ぎとなった。そんな状況には目もくれずに”おばさん”は歌と共に悠々と電車を降り、そのまま行進しながら去っていった。
雑感であるわけだから、感じた事などを書かなければいけないのだが、自分のような凡人の理解をはるかに超えた次元の出来事には、これと言った感想もなく頭上にポン!と浮かんだ「?」マークと、「なんだったのか?」という思いだけが残ったできごとだった。
2000 / 10 / 10 (火) ¦ 固定リンク
騒音 騒音
ここのところ、文書が長めになってきたので今回は短くまとめようと思う。
最近は遠足とかの季節なのか、子供の団体と電車に乗り合わせることがよくある。単独でいる子供を見ると可愛いものだと思えるが、集団でいるとうるさいことこのうえない。この前は、たまたま車両の反対側だったが甲高い声がこちらまで響いてきていた。
電車が揺れるたびにギャーギャーわめく声に閉口してしまったが、そちらの方を見ると引率の先生らしき人は2-3人の子供と楽しそうに話をしている。叱られないのをいいことに子供達のボルテージは最高潮に達し、車内を走り回るヤツ、つり革を体操の吊り輪がわりにして遊ぶヤツまで現れはじめた。
自分の子供を叱らないバカ親が増えているのは知っていたが、最近では先生まで子供を叱らないらしい。いったい、子供のしつけは誰がするのだろうか。
たまりかねた年配の男性が大声で一喝したため、騒ぎはおさまったが、引率の先生は「ほら、叱られた」と言う始末である。自分で叱ることができないのであれば、子供達の代わりに乗客に詫びるくらいの配慮を見せて欲しかった。
そんな中で寝つづけているサラリーマンも相当な根性の持ち主ではあるが、こんなことで本当に良いのであろうか。日本の将来を考えると笑いが止まらない今日このごろである。
まったく話は変わるが、同じ騒音でも全住民の敵である暴走族の爆音が今年の夏は極端に少なかったように思う。この界隈で走るのに飽きたのか、警察の取締りが厳しかったのか定かではないが、金、土曜の夜が妙に静かだったことを連鎖的に思い出してしまった。
2000 / 10 / 03 (火) ¦ 固定リンク
異文化 異文化
天高く馬肥ゆ・・・というわけで、食欲の秋のはずだが日によって寒暖の差が激しく秋なんだか、このまま冬になってしまうんだか分からない気候が続いている。大阪に来て食文化をはじめとする様々な文化の違いに驚いたり戸惑ったりすることが多かったことを何故か唐突に思い出してしまった。
関東圏の人の中には関西を否定する人もいるが個人的には、ちょっとした事情から関西にはなじみがあったため、引っ越してきた当初はそれほど違和感を覚えることはないだろうと考えていた。当然のことながら、真っ先に違いを感じるのは言葉である。しかし、その関西弁もどちらかと言えば好きなほうであったし、TV を見ても関西の人が活躍しているため大きな戸惑いはなかった。一部、ネイティブ関西人の会話を聞いていて理解できない単語などはあったが今では克服したつもりでいる。
次に違いを感じたのは食文化で、いまだ「お好み焼き定食」にはチャレンジできずにいる。「うどん+米」は「汁物+米」なので問題なくクリアできたが、お好み焼きは”主食”のイメージが強く、それが定食となると「主食+主食」となってしまい、二の足を踏んでしまう。
こちらに来て教えられたことで、どうしても疑ってしまったのは節分に関しての様々な”しきたり”というか”ならわし”についてである。大阪生活のまだ日も浅い頃 「節分には決められた方角を向き、無言のまま、切っていない太巻きを丸かじりする」と教えられたが、にわかには信じがたいものがあり、猜疑心の塊と化して「じとー」と人の目を見ていた。すると教えた本人もむきになり、いかに多くの家庭で実践されているか、また、いわしを焼いて丸かじりにするとか、魚の頭をなんとかいう木の枝に突き刺すだのとんでもないことまで言い出した。その場では「はいはい」と相槌を打っていたが、心の底では「だまされるものか」と思っていたのである。
しかし、その日の帰り道で目にした光景は、教えにうそ偽りがなかったことを証明してくれた。商店街のあちらこちらで”太巻き”が切らずに売られており、「今年の方角は南南西です」などという張り紙まである。おまけに家の近所では魚を焼くニオイがあちらこちらから漂い、大勢のネコがキョロキョロしながら走り回っていた。翌日、疑ったことを素直に詫び、翌年からは我家も”ならわし”に従うことにしたのだった。
細かいことだが、もうひとつ驚いたことは”床屋”での出来事である。美容室のような理容店が増え、こちらに来てからもそのような理容店に通っていたが、何かの事情で昔ながらの床屋、散髪屋というのがぴったりな理容店に入った。髪を切り終わり、洗髪が終わったところで唐突に「どうぞ」といわれ、頭の上にでっかい?マークがボヨヨ〜ンと浮かんでしまった。横を見るとおばさんがタオルも持ってニコニコして待っている。「・・・ど、どうぞ?」無い知恵を絞って必死に考えているときに思い出したのが、その数日前に見た TV で、こちらの理容店では洗髪の後に自分で顔を洗う光景が映し出されていた。その時、隣の席から「どうぞ」という声が聞こえ、言われたお客さんを観察しているとジャブジャブと顔を洗い、タオルを受け取ってゴシゴシ拭いている。顔だけではあきたらないのか、耳の裏や首まで拭き出すのである。
そんな訳で、この件に関しては事なきを得た訳であるが、これが大阪特有の”ならわし”なのか、関西はたまた西日本全体の”ならわし”であるのかは分からない。この件以外にもまだまだ知らない文化や”ならわし”があるのかもしれないが、大きくも小さくも異文化を感じてしまった出来事であった。
2000 / 10 / 02 (月) ¦ 固定リンク
SF な時代 SF な時代
英ケンブリッジ大学の世界的に有名な宇宙物理学者のホーキング博士が、今後 1000年以内に人類が滅亡すると指摘したらしい。なんでも、このまま地球温暖化が進むと金星のような環境になってしまうとか・・・。ここで気になるのが”1000年以内”というキーワードで、1000年後とは言っていない。来年とか再来年という次元ではないにせよ、可能性としては数十年後なのかもしれない。
実際、最近の時代の変化はものすごく、デジタル双方向 TV、携帯の iモードくらいは理解できてもインターネットで電子レンジや冷蔵庫、エアコンまでネットワーク接続されるような時代についていけるのだろうか。カーナビの進化もすさまじく、誤差数メートルのレベルに達している。宇宙に浮かんでいる衛星から見て誤差数メートルなんて、とんでもない精度だと思うが、近い将来にはそれが数ミリ単位になり、自動運転が可能になるに違いない。
現在の技術である、TV電話、携帯電話、カーナビなども子供のころから見るとすでに SF の領域に達している。できたらいいなーと思っていたことが今は既に現実のものとなっている。クローン技術が発達したり、ヒトゲノム計画が予定を上回る速さで進んだりしていて、遺伝子レベルでの生命体操作が現実のものとなっている。
人間は、そんなに急いでどこに向かっているのだろうと考えてしまう。子供の頃、ゆっくりと流れていた時間が年を重ねるにつれて速く感じる。一年なんて”あ”っという間に過ぎ去って行く。時間は地球の自転と公転から導き出されている訳だから、速くなるはずがないのに感覚的にはどんどん加速度がついているようだ。昔、生まれた時(0 歳)から 1 歳までの 1 年は、その個人にとって 100% の人生、9 歳から 10 歳までの 1 年は人生にとって 1/10 の時間、29 歳から 30 歳までの 1 年は 1/30 の時間だから、速く感じて当然と聞き、ひどく納得した覚えがある。
ホーキング博士の話に戻ると、「・・・ゆえに別の惑星に移住すべき」とも言っているらしい。これから先、100年単位の余裕があるのであれば、今の技術の発展を考えると、それが可能だと思われる。しかし、最近の文明というか文化というか技術の進化の速度が、人間が歳を積み重ねた時に感じる時と同じようなスピード感覚だとしたら・・・。地球単位というか、全人類単位で終焉に近づいているのではないかと思ってしまう。
進化の最終段階、地球を含めた生物の寿命が、これから先1000年以内に尽きてしまうのではないだろうかとも考えてしまう。
などと、知ったふりをして書き綴ってしまったが、科学的根拠は何もなく、ただ感じたことを書きなぐっただけである。こんな考えをすることが、歳をとった証拠なのかもしれない。まぁ、数百年後に地球がどうなろうと知ったことではないわけである。
2000 / 10 / 01 (日) ¦ 固定リンク