2004年 9月
喧嘩両成敗 喧嘩両成敗
今日(09/25 13:00現在)もイチローは 2安打を放ち、夢の大記録まで残り 8安打となった。 ヤンキースでは松井がホームランを放つなど、日本人の活躍が目立つ MLB(Major League Baseball)だが、日本のプロ野球は混迷を極めている。 選手会側、機構側の歩み寄りによって、この週末のストは回避され、妥結案に調印するなど一応の解決に至ったが、残された課題はあまりにも多い。
『
管理人の独り言』 では選手会寄りの意見ばかり書いていたが、選手側にも反省すべき点は多い。 「今がプロ野球を改革する良いチャンス」 という論調も多いが、それは経営者、選手だけの話ではなく、それを取り巻くファン、メディアなど、すべてがプロ野球を見直す時期に来ているのではないかと思う。
観客動員数が少なく、入場料収入が見込めないことを嘆く球団が多いが、球場に行けば何があるのかを示していただきたいものである。 ただ 「野球を見に来てください」 と言われても、球場に足を運ばせる魅力がなければ、蟻のように小さく見える選手が動き回る試合を見るよりも、テレビで観戦する方が楽しい。 食事をしながらでもゴロンと横になりながらでも見られるので楽でもある。
ファンの人が球場に足を運びたくなるような努力をしているのはロッテくらいなものである。 ロッテのバレンタイン監督はファン至上主義を貫いている。 今季から千葉マリンスタジアムのフェンスの一部がバレンタイン監督の要望によって開閉式に変えられた。 この、通称 『ボビーズ・ウィンドウ(ボビーの窓)』 から色紙やボールを受け取ってファンにサインをする。
選手はシーズン中の試合前であってもファンにサインを求められると正当な理由がないかぎりは断らない。試合開始前、対戦相手のチームと整列し、一通りのセレモニーが終るとロッテの選手はファンで埋まるスタンドに向かって走り寄り、帽子を取って挨拶する。 試合に負けてしまった時は選手全員がスタンド前に行って 「ごめんなさい」 と頭を下げる。
勝ち試合の後も、その日に活躍した選手が外野スタンドに挨拶に行って勝利をファンと共に喜び合う。 それは、相手チームのファンがうらやましくなる光景だと言う。 そしてロッテファンは、最後の選手がベンチから姿を消すまで席を立たない。 今季の初め、ロッテは開幕ダッシュしたかと思えば 10連敗するという内容だったが、1カ月間の観客動員数は昨年より 37%も増えたと言う。
選手達は本当にファンを大切にしてきただろうか。 今回の件でファンの大切さを身にしみて実感できたこととは思うが、プロ野球人気が低迷するまでファンを大切にすることを忘れていた選手の責任も大きい。 今回、球団消滅が確定して悲劇の主人公のように扱われている近鉄の選手の中には 「ファンに 1回手を振ればいくら(金)と要求する選手もいた」 という。 そんな奴はプロの資格があると思えない。
ファンを大切にして球場に足を運んでもらえるようになったとしても、収容人数、試合数が有限である以上、入場料の値上げでもしない限りは収益にも上限がある。 どんなに頑張っても入ってくる金額に限界があるのに選手の年俸だけが上がり続けるのには矛盾がある。 それなのにプロ野球の憲法と言われる日本プロフェッショナル野球協約には、選手の年俸の減額制限が盛り込まれている。
年俸 1億円以下の選手は 25%、1億円以上の選手は 30%を超えて翌年の年俸が下がることはない。 球団経営者からすれば、選手が怪我などで一年を棒に振ったとしても更改した金額は払わなければならないし、その翌年に復帰できるか定かではないのに 30%までの減額しかできない。 ずいぶんとリスクの多い話である。 選手側も今回の件を期に制度を見直すべきではないだろうか。
マスコミも球団、選手の双方に遠慮してか、どっち着かずのコメントしかしていないが、パ・リーグを危機に追いやった責任は重い。 一部の番組を除いてはセ・リーグ中心に試合の結果を伝えてパ・リーグは二の次である。 試合内容も伝えずに試合結果だけしか伝えない番組も多い。 プロ野球全体としては調子の良くない選手を取り上げて 「体の開きが早い」 だの 「手首の返りが」 だのと偉そうに解説するオッサンばかりで選手を褒め称えて尊敬する心に欠ける。
その影響なのか、ファンも選手を尊敬するのではなく、下の目線で見ていることが多くないだろうか。 肝心なところで活躍できないと、そのプレーを残念がるのではなく、罵倒したり小馬鹿にする人が多いような気がする。 自分にはない運動能力を持ち、自分にはできないプレーを見せてくれる選手をもっと尊敬すべきだと思う。 そして良いプレーには敵も味方もなく喝采を送るべきだと思う。
選手や監督を含めたチームは審判(アンパイア)を尊敬し、審判はもっと威厳を持つべきだとも思う。 スポーツを観戦していてプロ野球ほど審判に文句を言う競技を他に知らない。 日本のプロ野球は何かがおかしい。 ドラフト制度、FA 制度など改革の必要がある点はまだまだ多いと思うが、これを期に球団経営者、選手、マスコミ、ファンのすべてがプロ野球を考え直して良い方向に進んでもらいたいと思う。
そして、それすらもできないようであれば、日本のプロ野球に未来はないと思う。
2004 / 09 / 25 (土) ¦ 固定リンク
表現の不自由 表現の不自由
以前から知り合いに 「表現が変だ」 と言われることが多い。 物事を伝えるのが ”へた” なのではなく、”変だ” と言われてしまうのである。 実はそれを自覚しており、わざとメチャクチャなことを言って人を混乱させて喜んでいる部分もあったりする。 思えばこれは小学校高学年くらいから始まって、今となってはすっかり身に着いてしまったクセのようなものかもしれない。
最初に使い出したのは 『力一杯』 を 『力三十六杯』 と言ったものだと思う。 他愛もない子供の会話で、「力一杯がんばる」 と言った友達に対して 「じゃあ俺は力二杯がんばるもんね」「なら俺は力三杯」 と増えて行き、結局は三十六杯で落ち着いたのだろう。 なぜ落ち着いた先が三十六なのかは良く分からないが、それからは自分の持っている力以上にがんばる時は 「力三十六杯」 と言っている。
それからは数値や単位をメチャクチャに使うことが多くなった。 「十年早い」 を 「一万六千二百二十八万年早い」 などと、とんでもなく中途半端な数値で言ってみたり、「五十四光年早い」 などと、数値から単位まで違うものを使ってみたり、「二万ペタ(peta)早い」 などと理解不能なことを言ったりしている。 言われた方は 「はぁ?」 という顔をしているが、相手を怒らせない効果はあるようだ。
すごく近いことを 「おしい!あと 2ミリ(mm)くらい」 とも言うが、それは決して距離ではなかったりする。 クイズなどで正解に近い場合でも使うから相手は混乱してしまう。 そこでも 「あと 2デシリットル(dl)くらい」 とか、ものすごく近い場合は 「あと 6ナノ(nano)くらい」 などと言っている。 最初は呆れ顔をされるものの、使い続けていると、それなりに理解してくれるようになる。
たくさん酒を飲んだ場合なども 「30ガロン(gallon)は飲んだ」 とか 「3万バレル(barrel)は飲んだ」 などと適当なことばかり言っているものだから 「はいはい、すごいですね」 と馬鹿にされてしまう。 そろそろ止めようかとも思うのだが、長い年月をかけて身に着いてしまっているので、なかなか抜け出すことができないでいたりするのである。
このように数値や単位をメチャクチャに使うことも変だと言われるが、その他にも表現が変だと言われることがある。 人の顔が誰かに似ている場合、「○○さんと、△△さんを足して 2で割ったような感じ」 と表現することがあるが、その場合も 「○○さんと、△△さんをミジン切りにして玉ねぎを加えてフライパンで焼いたような感じ」 とか 「ラップしてレンジでチンしたような感じ」 と言ってしまう。
人からは不思議がられるが、自分としては本当にそう思って言っているのである。 当人(芸能人)より色黒であれば、「フライパンで焼いたような感じ」 となるし、太っていれば 「45分くらい蒸した感じ」 だし、あっさりしていれば 「ねぎや醤油を加えた感じ」 で、くどければ 「マヨネーズで和えた感じ」 となる。 その時の気分で別の ”調理法” を持ち出すこともあるが、頭の中では調理済みの顔が浮かんでいる。
何ヶ月か前、仕事仲間と健康診断について話している時、「バリウム飲んだことありますか?」 と聞かれたので 「あるよ」 と答え、「どんな感じなんですか?」 と聞かれたので、少し考えてから 「ノドごしが、ひらがなの ”ぬ” に濁点(だくてん)の ”ぬ゛” っていう感じ」 と教えてやったら、「うわぁ〜嫌だな〜」 と身をよじってジタバタしていた。
「いつもは変な言い方だと思っていたけど、妙にリアルに伝わる場合もあるんですね」 と仕事仲間はクールに分析していたが、そんなことは、でっけー(大きな)お世話である。
■ 単位一覧 ■
光年 9.460528348 兆キロメートル
ペタ(peta) 1000 兆倍
デシリットル(dl) 1/10 リットル
ナノ(nano) 10億分の1
ガロン(gallon) 3.785 リットル
バレル(barrel) 159 リットル
2004 / 09 / 18 (土) ¦ 固定リンク
スカスカ脳 スカスカ脳
BSE(狂牛病) 問題で輸入禁止が続いているアメリカ産牛肉だが、前頭検査が見直されて生後 20カ月未満の牛が検査対象から除外される方向で検討が進められている。 これで輸入肉が解禁になり、吉野家を代表とする牛丼チェーンの売り上げが改善することが予想されるので株も値上がりしたようだ。 牛丼販売の再開を待ち望んでいる人にとっても朗報だろう。
しかし、20カ月未満の牛は BSE に感染しないのではなく、検査に反応しないだけの話なので安全性に不安を覚える人も少なからずいるに違いない。 我家の場合は長期間に渡って肉を断っているし、たまに食べる肉も鶏肉か脂身の少ない豚肉なので、牛肉に不安があろうとなかろうと特に問題はない。 ただし、牛肉を食べて BSE に感染しなくても脳は確実にスカスカになってきているようだ。
何年か前の雑感にも芸能人の名前が分からなくなってきたと書いているが、その症状は悪化の一途を辿っている。 『モーニング娘。』 は、すでに 7割以上が誰なのか分からない。 覚える気など最初からないので分からなくて当然なのかもしれないが、テレビで何度見てもさっぱり頭に入ってこない。 グループ名もカタカナになると苦手になってきた。
一応は気になる曲を聴いたりすると、誰が歌っている何という曲なのかをチェックし、その時は 「ふむふむ」 と納得しているのだが、曲名もアーティスト(グループ)名もカタカナ(英語)だったりすることが多いので、次に曲を聴いたときには記憶の片隅にも残っていない。 何度か聴いてやっと記憶してもすぐに忘れてしまったりするのが情けない。
最近はお笑いブームでテレビには様々な芸人さんが登場するが、そのコンビ名やグループ名さえも覚えられなくなってきた。 覚えられないというよりも、画面に映し出されてるコンビ(グループ)名を思い出せないことが多いのである。 「う〜ん」 とか 「え〜と」 とか考えているうちに彼らのことが紹介され、そこで名前を聞いて、やっと 「それだ!」 と思い出す始末である。
歳をとると 「新しいことは覚えられないくせに昔のことは良く覚えている」 と言われるが、古い芸能人の名前さえあやふやになってきてしまった。 家族と話していても 「ほら、アレを歌っていたアレのアイツ」 などと訳の分からないことになってしまう。 それでも少しだけ救われているのは、時間さえかければなんとか思い出せるので、完全に脳がスカスカになっているのでもなさそうだ。
ただし、思い出すのに時間がたっぷりかかってしまう。 20分も 30分もかけて思い出したり、ひどい時には数日たってから何の脈絡もなく 「ポン!」 と頭に浮かんだりする。 電車の中で思い出したときなど一人で 「ハッ」 とした顔になり、その満足感から一人で悦に入った表情をしているのだから周りの人からは奇異な目で見られているに違いない。
どういう訳なのか、トイレや浴室の中で思い出すことも多い。 出たら思い出したことを自慢してやろうと考えているのだが、トイレや浴室から出たときには思い出したことすら完全に忘れているという有り様である。 今は芸能人などの名前が主で、仕事や実生活に支障を来たすほど物忘れがひどくはないが、この調子でいくと老人になったときには頭の中がお花畑になって家族や周りの人に迷惑をかけてしまうかもしれないと、少しドキドキしてしまう。
指先を動かすとボケ防止になると聞くので、自分がそうならないためにもキーボードだけはポコポコと打ち続けていようかと考えたりしている今日この頃なのである。
2004 / 09 / 11 (土) ¦ 固定リンク
価値観 価値観
デフレ経済が長引いていたが、少しずつ物価の下落率が低くなって出口が見えはじめたと言われている。 経済にとっては良いことなのかも知れないが、庶民にとっては物価が上昇するより物が安くなる方が嬉しかったりするので手放しでは喜べないような気がする。 しかし、インフレといっても悪性のハイパーインフレでなければ何もかもが値上がりし、生活が圧迫されるということもないだろう。
自分が所属するコンピュータ業界などは今も昔もデフレしか経験したことがないような業界である。 昔は数百万円していた高性能な PC が数万円で買えるし、数十万円していたメモリも数千円だ。 HDD などは 1MB(メガ)1万円と言われていたのに、今では 120GB(ギガ)の HDD が一万円以下で売られている。 家電以上に価格の下落率が高いので PC の買い時に悩む人も多いだろう。
しかし、よく考えてみると物の価値など値段で決まるわけではなく、もっと論理的なものだと思う。 大阪人は ”せこい” などと言われるが、一概にそうは言えないと思うことがある。 仮に一万円の食事をしても、それが美味しく、心から満足できれば高いとは言わないだろう。 それが千円の食べ物であっても百円の食べ物であっても同じ事である。 価格に見合った満足感が得られるか否かが重要だ。
食べ物以外でも、その人にとって必要かどうかによって価値が決まるのだろう。 現在の PC の速度に満足できず、もっと処理速度の速い PC が欲しいと思えば、それがその人にとっての ”買い時” であろうし、それから数カ月後に値段が下がっても仕方のないことである。 処理速度が遅いというストレスから開放されたのであれば、下落した分の金額くらいの価値はあっただろう。
阪神・淡路大震災のときに被災して路頭に迷っている人たちを相手に 100円程度で売られているミネラルウオーターを 1,000円で売り歩いてヒンシュクを買った人がいたが、それはそれでたくましい商魂だったかもしれないし、水がなくて困っているだろうからという親切心で販売しに行ったのだが、あの大渋滞の中を運ぶのが思いのほか大変で、ガソリン代も高くついてしまったから 1,000円という価格になったのかもしれない。
いずれにせよ、その水が 1,000円でも 「それだけの価値がある」 と思った人は買うだろうし、思わなかった人は買わないという価値観の問題である。 おかれた状況や、その時々によって物に対する価値が変わることだってあるはずだ。 普段は蛇口をひねれば出てくる水に価値があると思っている人は少ないだろう。 それがたとえ 1,000円でも必要なときは必要なのかもしれない。
本で読んだのだが、1961(昭和 36)年に発生した大阪の ”釜ケ先暴動” の現場では、暴徒と化した群集が放火や投石などで荒れ狂っていた。 そんな中、投石用の石を集めてバケツ一杯 10円で売っているオバチャンがいたらしい。 場合によっては石にまで価値がでることと、大阪人のたくましい商魂に関心しながら活字を目で追っていた記憶がある。
どこの国かは忘れてしまったが、アラブ系の国でノートを購入する際に 5冊まとめて買おうとすると値段が高くなったという話を聞いたことがある。 日本ではまとめ買いすると安くなるはずなのに高くなったことに驚いて店主に抗議すると、「5冊も買うということは、あなたにとって価値があるものなのだろう。だから値段が高くても買うはずだ」 と言われたそうである。
人によって価値観は違うものの、どうしても重要なものがある。 電気やガス、水道などが典型的な例だが、そういう価値あるものを提供できれば大きな商売になることは分かっている。 しかし、残念ながら答えはまだ見つけられずにいたりするのである。
2004 / 09 / 04 (土) ¦ 固定リンク