2006年 7月
老化現象 2006 老化現象 2006
以前の雑感にも書いたが、あれから益々カタカナを覚えられなくなってきている。 最近は楽曲、アーティスト名ともカタカナだらけなので、FM 放送を聴いていても 2-3日経過すると誰の何という曲なのか見事なほどに忘れている。『
お買物日記』 担当者と 「忘れるということは重要なことではないのだ」 などと、なぐさめ合ってきたが、そうも言っていられなくなってきた。
最近になってカタカナではない漢字の名前すら怪しくなってきたのである。 人名を覚えるのは昔から苦手で、それがカタカナだと更に酷いことになる。 登場人物が複数になると名前を覚えられないというのが翻訳ものの小説を読まない理由だったりするのだが、日本の小説ですら登場人物の名を覚えられなくなってきた。 急な場面展開で何ページも前に登場した人が出てくると、慌てて前文を読む始末だ。
パソコンには住所録があり、携帯電話にもメモリされているので、電話番号も覚えられなくなってきた。 若い頃は友人から仕事関係先まで何件もの番号を記憶していたのに、今となっては自宅と実家の番号が関の山で、よく話しをする仕事仲間の電話番号すら記憶していない。『
お買物日記』 担当者の携帯電話はおろか、自分の携帯電話の番号すら分からないという体たらくだ。
もしかしたら BSE (いわゆる狂牛病) 患者のように、脳がスポンジ状にスカスカになってきているのではないだろうか。『指先を動かすとボケない』 という説を信じるならば、毎日キーボードを打っているし、マウスだって操作している。 ゲーム機のコントローラだってテレビのリモコンだってピコピコと操作しているので、その運動量は十分なのではないかと思ったりしているのではある。
しかし、「ボケても昔のことは良く覚えている」 とも聞く。 小学生、中学生時代の友達の家の電話番号だの、昔の業者の電話番号だったりを今でもしっかりと覚えているというのが妙に怪しい。 着々と脳のスポンジ化が進んで穴が大きくなり、スカスカどころかボワンボワン状態になっているのではないかと疑いたくもなってしまう。
色々と不安は募るばかりであるが、よく考えてみると自分の場合は天然ボケの要素も多分にあるのではないかと予想される。
以前の雑感にも書いたが、あお向けに寝転がってタバコを吸っていたのに大きなアクビをしたので火の点いたタバコが落下し、ノドを火傷しそうになったことがある。 ゲホゲホしながら慌てて起き上がり、口の中に指を入れて取り出したが、思いのほか奥まで入り込んだタバコを出すのは辛く苦しいもので、自分の指がノドの奥に入ってゲロゲロと吐きそうになってしまったことがある。
何年も前の話になるが、自転車に乗っていたときにクシャミが出そうになった。 気合いとともに我慢すると一度は治まったのだが、余波が次から次に押し寄せてくる。 不思議なものでクシャミのパワーは蓄積されるのか、余波が来るごとにエネルギーが増していく。 そして、耐え切れなくなり、十分にパワーを充填した大きなクシャミが 「ぶ、ぶえっくしょ〜ん!」 と放出された。
その衝撃で握っていたハンドルがガクガクとなり、まるでコントのようにユラユラと軌道を逸れた自分は電柱に激突し、そのままボテッと転んでしまったのである。 激走していた訳ではないので怪我などせずに済んだが、上述したタバコの時と同様に 「何たるアホか!」 と自分で自分を責めることになる。 もの凄い自己嫌悪に陥り、しばらくは立ち直れない気分になるのだ。
昔から間抜けなことをやっているので、今さらながらに 「ボケが始まったのではないか」 と不安になることもないような気がするが、物覚えが悪くなった事実だけは否めない。 そして、様々なことを忘れながらも歳を重ねていくことになる事実も避けようがないのであろう。
2006 / 07 / 29 (土) ¦ 固定リンク
夏休み 夏休み
今日は暑くなったが、昨日までは気温も低く、何だか実感が湧かないまま夏休みに入った子供たちも多いことだろう。 例年より梅雨が長引いているので
7/13 や
7/18 に見たセミは伴侶どころか仲間とも出会うことなく天寿を全うしてしまったに違いない。 何ごともタイミングというのが重要である。
今の子供たちは夏休みに何をしているのだろう。 休日に子供の声が聞こえず、夕方も暗くなりかけてからバタバタと走る足音や友達との話し声が聞こえ始め、(こんなに遅くから遊び始めなくても・・・) などと思ったりしていたのだが、よくよく考えてみると、現代っ子は休みの日でも塾通いをしていて、夕方にならなければ遊ぶ時間がないほど忙しいのかも知れない。 それは夏休みも同様なのだろうか。
自分が子供の頃は、あまり夏休みを嬉しく思ったことがない。 決して勉強が好きだった訳ではないが、学校で友達と遊んでいるのが大好きだったので家にいても面白くなかったのである。 自分が育ったのは商業の街だったので、多くの転勤族で構成されていた。 長い休みになると里帰りで人口が一気に減ってしまい、親に連れられて友達も街から消えてしまう。
小学生の頃は父方の祖父母の家に行くことが多かった。 夏休みの初めに車で 3時間の距離にある父親の実家に向う。 我が両親としては顔見せ程度に考えて帰省しており、2-3泊して帰るつもりなのだが、自分は帰っても遊び相手が少ないので、そのまま祖父母の家に残ると言い出す。 低学年の頃は親も心配して 「寂しくない?」 などと聞いてきたが、「ぜんぜん」 と応えて怒らせたりしていた。
実際、親と何日も離れて暮らしても全く寂しがらないという、親からすれば可愛い気のない子供だったらしい。 祖父母の家の裏には幅 1m くらいの小川があり、その上流には水量を調節する小さなダムのような形をした堰 (せき) もある。 その小川を挟んで両側には子供の足でも登ることが可能な山があり、遊び場には不自由しなかったのである。
5分ほど歩けば海にも行けたので、毎日が楽しくて仕方がない。 おまけに祖父母は両親とは異なり、暗くなってから家に帰ろうと、山から転げ落ちてキズだらけになって帰ろうと叱られることもなかった。 父親は 7人兄弟だったので、子育てに慣れており、男の子が多少の ”やんちゃ” をして帰ってきても気にも止めなかったのだろう。
朝から晩まで山に登っては虫を捕まえ、川で小魚を捕ったりザリガニを捕ったりして遊び、それに飽きると海に行って遊ぶという毎日で、完全なる野生児と化していた訳だ。 当時、自分の叔父である父親の末弟はまだ高校生で家におり、夜になると布団の上でプロレスの真似をして遊んでくれたりした。 一日中ドタバタと体を動かしているので食事が美味しい。 夜は疲れ果ててコトンと寝てしまう。
そんなこんなで夏休みの期間中、祖父母の家にいると喘息持ちで病弱なはずの体が嘘のような健康体となり、顔色もよく適度に肉もついた元気な男の子に変身する。 夏休みの終わりに迎えにきた両親が驚くやら喜ぶやら、憎らしそうにするやらの複雑な顔をしていたものだ。
そして、いよいよ祖父母の家を出発する時間になると、もの凄く寂しそうにしていたらしい。 そんな自分の顔を見て両親は怒り出す。 「ニコニコして勝手に泊まって帰るときに寂しそうな顔をするとは何ごとぞ!」 と母親などは逆上気味に怒鳴り散らすのだが、そんな声は無視して遠く去り行く祖父母の住む街を名残惜しく見つめる自分なのであった。
2006 / 07 / 22 (土) ¦ 固定リンク
マサルノコト scene 6 マサルノコト scene 6
前回の続きになるが、マサルが連続で遊びに来る記録が 9週で途絶えたのは体力の限界が理由だった。 当時、二人とも仕事に対して少なからず不満を持っており、そのストレスを発散するため、あるロックバンドのライブを観に通ったりしていた。
過去の雑感に特定のもののファンになることはないと何度も書いている通り、今から思えばその音楽性やバンドそのもののファンだったのではなく、単にライブ会場で大暴れしてストレスを解消することだけが目的だったように感じる。 何十枚も CD が発売されているのに持っているのは 4-5枚程度だし、メンバー全員の名前すら知らない。
その程度のものであるにも関わらず、毎回のチケット購入が面倒になったので、電話予約だけで予約可能なファンクラブにまで入会していた。 電話をして予約を済ませ、銀行にお金を振り込んでおけばチケットが郵送されてくるので楽だったのである。 本当のファンで心から応援している人たちには申し訳ない限りだ。
それでもファンクラブの力は絶大で、会場の最前列近くのど真ん中にある席のチケットが送られてきたりするので、マサルと自分のライブ熱はヒートアップするばかりだった。 ライブ前日から仕事を休んでマサルが宿泊し、自分だけ仕事に行ってスーツ姿のまま会場に直行したり、マサルが仕事を休めない日は休日の朝早くに家を出て 400km の道を車で移動してやって来る。
もの凄く忙しい時は夜 9:00過ぎにライブが終わって軽く食事を摂り、そのまま 400km 先の自宅に帰るという無謀なこともしていた。 自分の住んでいた街とマサルが住んでいた街の中間地点までライブを観に行き、それが終わった後に 200km 先にある自分の街までマサルが送ってくれたこともある。 その時点で深夜になっているのだが、明日も仕事だからと言って 400km 先まで帰っていったこともあった。
若さゆえに可能だった荒業ではあるが、そんな無茶なことが長く続くはずがない。 連続記録更新中の 9週目に事件は起こった。 その時は金〜日曜の 3 days のライブだったので、マサルは仕事を休んで遊びに来ていた。 チケットはファンクラブ経由で 3日間とも押さえてある。 最終日のライブを観に行っていると、翌日に遠く離れた街で野外ライブを決行することが告げられた。
三日間のライブで気合いの入ったマサルは、「もう一日休んで観に行く!」 と言い出した。 自分も異論はなかったので、仕事を休んで遠い街まで出かけることにした。 そこは自分の住んでいた街から 400km 以上も離れていたが、気合いが入っているので気にならない。 二人勇んで会場に向った。6時間以上の道のりも苦にならずに到着してライブが始まる。
そして終了したのは 20:00 を過ぎていた。 ここまで来てしまった訳だから当然、帰らなくてはならないのだが、ライブで燃え尽きたので道のりが遠く感じる。 帰りは夜ということもあって割とスムーズに進んだが、帰宅したのは深夜 1:00 を過ぎていた。 そして、恐ろしいことにマサルの自宅はまだ 400km 先である。 燃え尽きたマサルは少し悩んでいたが、「今から向えば仕事に間に合うかもしれない」 と言い残して遥か彼方にある街に向ってアクセルを踏み込んでいった。
帰宅した自分は倒れこむようにベッドに入り、ドロのような眠りに落ちた。 翌日の仕事を終えてからマサルに電話してみると、ものすごく元気のない声が受話器から聞こえてくる。 「あれからどうだった?」 と尋ねると、仕事に間に合う時間に到着したが、『あしたのジョー』 のように体力も気力も燃え尽きて、真っ白な灰になってしまい、高熱を発して倒れてしまったのだと言う。
翌日になっても熱は下がらず、前週の金曜日を含めると 4日間も会社を休むことになってしまい、上司からこっぴどく叱られたマサルは週末に遊びに来るのを止めた。 これが連続記録が 9週で途絶えてしまった真相だが、あの無理がなければ何週間の記録が生まれただろうと思う。 しかし、それを期にライブからも足が遠のき、会う機会もめっきりと減った。
そしてその後、二度と再び記録に挑むことはなかったのであった。
2006 / 07 / 15 (土) ¦ 固定リンク
ゆかいな仲間 二人目 ゆかいな仲間 二人目
若い頃、ずいぶん年上の友達でイシヤマさんという人がいた。 車の A級ライセンスを取得し、トヨタ社のテストドライバーをしていたのだが、知り合ったときには植木屋さんをしているという変わった経歴の持ち主だ。 テストドライバーにとって生命線でもある視力が極端に低下し、将来に不安を感じていたときに植木屋さんをしている御尊父が体調を崩されたので家業を継いだという訳だ。
自宅に遊びに行ったときにテストドライバー時代の写真を見せてもらったが、どの写真を見ても颯爽としている。 日本人離れした彫りの深い顔に日に焼けた黒い肌。 イシヤマさんは 「これが俺の全盛期だった・・・」 と遠い目をして言う。
当時は女性にモテまくっており、彼女を作るのに苦労などしたことがないらしい。 確かにそれはそうだろう。 日本人離れした容姿に職業はテストドライバーである。 周りの女性が放っておくはずがない。 ところが、容姿は変わらないのに植木屋さんになった途端に女性と縁がなくなり、当時 31歳だったのに彼女いない暦 5年になってしまったらしい。
「この商売になってから声をかけてくるのは植木の手入れに行った家のオバチャンだけだ」 と言って嘆いている。 中には色目を使ってくる主婦もいるらしいが、多くの場合は手入れの終わった植木を見ながら何だかんだと話をして、お茶をすすりながら時間だけが過ぎて行く。
「俺の青春を返せ!」 と言い、「どうして視力がおちたのかな〜」 と悔しそうにしている。
過去の雑感に何度か書いたように、視力の衰えを知らない自分はイシヤマさんの辛さも知らずに 「そうだね〜どうしてだろうね〜」 などと適当に相槌をうちながら出されたセンベイをボリボリと食べているのだった。
そんなイシヤマさんのストレス解消法は、車に乗ってビュンビュンと走り回ることだ。 自分もそれに同乗させてもらうのが大好きだった。 何せ A級ライセンスを保有する元テストドライバーなので、すばらしい運転技術である。 多くの場合は峠道を疾走するのだが、急カーブ、急勾配が多い道をアクセルとブレーキ、エンジンブレーキを駆使してもの凄い勢いで走る。
跳っ返りの若者の車が必死に後について来ようとすることもあるが、誰も追いつけるはずがなく、ついてくることすらできない。 途中で休憩していると、やっと追いついてきた車から髪が金色の兄ちゃんが降りてきて 「あんたスゲーよ」 と声をかけてくるのだが、運転手が日本人離れをした顔立ちのオッサンだと知って驚くことも良くあった。
ある日、いつものように車に乗せてもらい、峠道をビュンビュン疾走していた。 自分も助手席で 「ヒャッホ〜」 だの 「ヒュ〜ヒュ〜」 だのと奇声を発しながらスピード感を楽しむ。 かなり前方に一台の車が走っているのが見えたが、こちらが鬼のようなスピードで走行しているので見る見るうちに近づいてくる。
「一気に抜くぞ!」 とイシヤマさんがアクセルを踏み込んだ瞬間、その車の天井で赤色ランプが回転を始めた。 「うわぁぁ〜!パトカーだぁ!」 と叫び、慌ててスピードを落とすイシヤマさん。 そのまま停車できそうなスペースに車を寄せ、エンジンを切って二人で寝たふりをしていた。 10分経っても 20分経ってもパトカーが来なかったので、ノロノロ運転で峠を下って行った。
街の灯りが見え始め、人心地ついたところで後ろの車の天井で赤色ランプが回転を始めた。 パトカーは見逃してはくれなかったのである。 当時の警察は後ろから来る車の速度を測定する手段を持っていなかったので、スピード違反の切符を切られることはなかったが、「いったい何という走りをするのか!」 とこっぴどく叱られてしまった。
その時はしゅんとして話を聞いていたが、それからも再三にわたって峠道を疾走していたのは言うまでもない。
2006 / 07 / 08 (土) ¦ 固定リンク
ゆかいな仲間 一人目 ゆかいな仲間 一人目
今でこそ、世の中で起こるくだらない事件を見てはブツブツ文句を言い、悲惨な事件を見ては心を痛める単なるオッサンになってしまったが、若い頃は何も考えずに虚無な生活を送っていたものである。 そして、類は友を呼ぶの例え通り、自分の周りに集まる仲間も変な奴が多かった。
仲間の一人とは部屋にこもってゲームをしていることが多かった。 夜も寝ないで 24時間以上も続けていたことすらある。 当時は 『
みんなで うさぎ小屋』 にもある、『テトリス』 が全盛で、どちらが高得点を記録できるか競っていたものだ。 高得点を得る方法として、複数の段を一度に消すのが近道である。 その場合、縦一列だけを残して隙間なくブロックを積み上げ、縦長のブロックが落ちてくるのを待つ。
ところが、そういう時に限って望むブロックが落ちてこない。 そんな時、そいつは 「リスッ!リスッ!」 と呪文のように念じ始める。 最初は 『テトリス』 の 『リス』 なのかと思っていたが、話を聞くと動物のリスのことだと言う。 リスは英語で squirrel (スクワーレル) というらしく、彼曰く 『信じる者はスクワーレル』 の意を込めて縦長のブロックが落ちてくることを 「リスッ!」 と祈っているのだそうだ。
実は彼は小学校の教師をしているのだが、見かけはとても教師に見えない。 身長 180cm くらいで体重は 90kg はあろうかという巨漢、パンチパーマをかけて西部警察の団長がするようなサングラスをかけ、肩を揺すって歩く。 彼の職業は?と十人に聞いたら十人ともヤクザと答えるに違いない。
ある日、翌日が参観日であり、普段はジャージ姿で教壇に立っているが、さすがにスーツくらいは着た方が良いのではないかということになり、紳士服売場に同行したことことがある。 気に入ったスーツを見つけたのだが、それは手持ちの金額をはるかに超えていた。
「金貸して」 と言われたので 「いくらだ?」 と聞くと 「五万円」 と言う。 彼には金を貸しても確実に返ってくることが分かっていたので 「おうっ」 と言って貸してやった。 そのやり取りを店員さんが直立不動の姿勢で見ており、もの凄く丁寧に支払いのカウンターまで案内された。ズボンの裾直しが必要なこと、それには数時間が必要なことことを額から汗を流して説明する。
預り証に氏名と職業を記入する蘭があり、そこに 『教師』 と書いたのを見た店員さんが、「が、学校の先生だったんすか〜」 と裏返った声で問いかけ、「はぁ〜」 と深いため息をついている。 「どうして?」 と聞くと両手をパタパタしながら 「いえっ!な、なんでもありません」 と、まだ裏返ったままの声でごまかしていたが、見かけの恐い男が簡単に金の貸し借りをしたりしていたので危ない職業だと勘違いしていたものと思われる。
その証拠に店を出る際に振り返ってみると、店員さんはカウンターに左手を置いたまま、ガックリと頭を下げて疲れ果てていた。 きっと店員さんは閉店までの体力と神経を使い切ってしまったに違いない。 数時間後に裾直しが終わったスーツを受け取りに行き、帰る際にも 「ありがとうございました〜」 という相変わらず裏返った声で店を送り出されたりした。
そんな仲間とも今は疎遠になってしまい、年賀状のやり取りくらいになっていたが、今年の正月には宛先不明で返ってくるようになってしまった。 今も問題など起こさずに先生をしているはずだが、他の仲間を介して調べてみても彼の消息は杳として知れない・・・。
2006 / 07 / 01 (土) ¦ 固定リンク