2002年 6月
兵どもが夢の跡 兵どもが夢の跡
いよいよ今日でワールドカップも終わりである。日本はベスト 16位入りを果たし、日本サッカーの歴史を変えた。共催国である韓国は昨日の試合で残念ながら負けてしまい、4位に終わってしまった。今日の試合の後はトルコの選手も韓国の選手もお互いの国旗を掲げてサポーターに挨拶をしていた。サポーターも観客席で大きなトルコの国旗を広げて祝福していた。
お互いの健闘を称え、素晴らしい試合をしたことを喜びあっている姿は感動的だった。
以前の雑感にも書いた通り、自国の応援しかせずに相手国の健闘を称えないようなスポーツであれば嫌いになっていたことだろうが、韓国のサポーターを見る限り、サッカー(W杯)っていいな〜。スポーツって(見るだけなら)いいな〜と純粋に感動することができた。
韓国も日本もよく頑張ったと思うが、日本と韓国の差は何だったのだろう。同じトルコに負けたのだからといって韓国と日本の実力も同じというわけではないだろう。なにせ韓国は ”あの” スペインやイタリアに勝利しているのだ。サッカーには詳しくないので何かは分からないが、明らかに ”何か” が違うように思ってしまった。
技術的な差があるのかは分からない。身体能力に関しては食文化の違いなどにより多少の違いがあるのかもしれない。韓国にはニンニクやら高麗人参やら身体に良さそうなものが沢山あるのでパワーの源(みなもと)になっているのかもしれない。それにひかえ日本では納豆が身体に良いだのヒジキが良いだのと TVでやっていたりする。
健康には良いのかもしれないが ”パワーの源” とはちょっと違うような気がする。日本の食材でパワーが出そうなものといえば山芋(長芋)、うなぎ程度かもしれない。どうもニンニクや高麗人参と比べるとパワーが劣っているような気がしてしまう。生まれてから 20年程も違う食文化の中で育てば基本的な体力や体質にも差ができてしまうだろう。
こんなマヌケなことを言っているのは自分くらいだと思われるので身体能力にも大きな差がないとすると、他にはどんな差があるのか。両国とも身長が高く空中戦に向いているわけでもない。走る速さだって大きな違いがあるとは思えない。少しサッカーに詳しい人に聞くと、監督の差だと言うが、トルシエ監督とヒディング監督にそれほどの差があるのだろうか。
ハングリー精神などという使い古された言葉は使いたくないが、確かに韓国は ”ガムシャラ” に ”ヒタムキ” に頑張っているように見えた。失うものなど何もない、明日のことは考えずに今日さえ勝てれば良いという一途さを見たように思う。対照的に日本は何かを守っているように見えてしまった。韓国と同様に失うものなど何もなかったはずなのに・・・。
韓国の試合は勝っても負けても清々しいものがあったが、日本が負けたときは 「もう少し頑張れたんじゃないの?」 などと思ってしまい、どこか消化不良の感があった。専門家はそうは言わないだろうが、個人的には日本と韓国が試合をしたなら、きっと日本は韓国には勝てないだろうと感じている。それは技術的なことなどではなく日本にはない ”何か” が韓国にはあると感じているからだと思う。
この差は戦略や戦術の違いによるものだとしたら確かに監督の差ということになるだろうが、日本代表の選手と韓国代表の選手、各個人の気持ちはどうだったのだろう。韓国の選手は全員がゴン中山のように剥き出しの闘争心とガムシャラさを備えているように見えた。日本の選手は全員がゴン中山のようだっただろうか。消化不良に感じてしまったのはそういう部分の差だったのかもしれない。
何はともあれ今日のブラジル vs. ドイツで 1カ月間に及んだワールドカップも閉幕である。日本も韓国も負けてしまった以上、自分としてはどちらが勝っても良いと思っている。まったく興味がなくなったのではなく、ブラジルはブラジルで勝たせてやりたいし、ドイツにも頑張ってほしい。つまり、どちらを応援したら良いのか分からないでいるのである。昨夜の韓国 vs. トルコのように素晴らしい試合、見ていて気持ちの良くなるプレーを披露していただきたいものである。
そして明日になればすべてが終わり、残るものは巨大な建造物と膨大な赤字だけとなってしまう。
前々回である 1994年にアメリカで開催された W杯ではアメリカンフットボールの競技場を利用した。前回 1998年のフランス大会でも開催スタジアムのうち、新設されたのは決勝戦が行われたフランス競技場だけで国の総投資額は 17億4000万円にすぎない。ところが今回での日本の実体を見てみると、ケタ違いの金額が動いている。
カメルーンの到着が遅れて一躍有名になった中津江村は数千万の投資額であれだけの知名度を得たわけなので成功した例かもしれない。ベッカム様率いるイングランドのキャンプ地であった津名町も報道陣などが大挙として訪れたため、それなりの経済効果もあったことだろう。投資額に対して収入(見返り)が大きければビジネスとして成立するが、巨額の投資をして回収できないのであれば、それは失敗なのである。
キャンプ地として名乗りをあげた市町村は少ない(数千万円)の投資で、それなりの経済効果もあったのだろうから住民も納得できるだろうが、最悪なのは大会の開催地として名乗りをあげた所である。上述したように国の総投資額が 17億4000万円のフランス大会に対して日本が今大会のためにつぎ込んだ額は札幌市 422億円、宮城県 250億円、新潟県 312億円、茨城県 267億円、埼玉県 356億円、横浜市 603億円、静岡県 300億円、大阪市 401億円、神戸市 230億円、大分県 251億円。計 3,392億円に達する。
これは総投資額ではなくスタジアムの建設費だけの金額である。そして腹立たしいのが各スタジアムで黒字を予定しているのは札幌市の札幌ドームだけ、維持可能としているのが茨城県だけなのだ。その他は宮城県 維持費 3億5,000万円に対して収入は未算定、新潟県 4億円に対して 5,000万円、埼玉県 7億円に対して 3億円、横浜市 8億7,000万円に対して 1億9,000万円、静岡県 4億5,000万円に対して 未算定、神戸市 6億円に対して 未算定、大分県 3億円に対して 6,000万円、我が大阪市は 3億3,400万円に対して 6,600万円に過ぎない。
つまり、札幌と茨城以外は収入よりも維持費の方が大きい、大赤字のスタジアムを建設したのである。それは結果ではなく、最初から分かっていたにもかかわらず俗に言う ”ハコモノ” を公共事業として建設してしまった。中には 「儲かると分かっていれば民間が作る。儲からない物は国が作る」 と馬鹿まる出しの発言をする市や自治体まであり、確信犯の様相を呈している。
言うまでもないが大阪の長居スタジアムの建設費 401億円も、年間維持費の赤字額 2億6,800万円も我々の税金である。年間維持費の -(マイナス)2億6,800万円は長居スタジアムが存続する限り永遠に税金が投入されるわけである。ワールドカップという建前を利用して平気な顔をして巨額の税金を採算性をまったく考えずに投入して、涼しい顔で 「財政赤字だから増税を」 などと言っているのである。
いつもいつも、この雑感では大きな組織や国に対して文句ばかり言っているので自分は反体制主義なのかもしれないが、無計画なのにも程がある政策に対しては文句の一つも言ってやりたくなる。これから先、巨額の投資をして維持が困難なスタジアムはどうなって行くのだろう。国民(または大阪府民)は、それでも黙って税金を払いつづけるのだろうか。
いつも思うことだが馬鹿な政治家や官僚は総辞職して、本当に世の中のためになる政策を打ち出してもらえないものだろうか。大きな祭りのあとだけに ”兵(つわもの)どもが夢の跡” という言葉をしみじみとかみ締めてしまうのであった。
2002 / 06 / 30 (日) ¦ 固定リンク
嗚呼日本人4 嗚呼日本人4
ワールドカップでは日本も健闘したが惜しくもトルコに敗れてしまった。いかにも日本的だったのは 「よく頑張った」 「夢をありがとう」 など賛辞の言葉ばかりで敗戦の理由を冷静に分析することを忘れている。問題点というのは明らかにするから解決できるのであって、放っておけば解決できない。よく頑張った日本代表チームを称えるのは当然として、何がいけなかったのかも分析してほしかった。
ゴルフの試合で一打目をミスショットし、そのホールをボギーとしてしまったにも関わらずギャラリーから 「ナイス・ボギー」 という声援があがったのを外国人選手が不思議な顔をして聞いていたという話がある。ギャラリーからすると 「あれだけのミスをよくカバーしてボギーで終わらせたね」 という意味の 「ナイス・ボギー」 だったのだろうが、そんな浪花節的な発想では更に上を目指すことは難しいのではないかと思う。
かと言って、何度も書いているように自分はサッカーに詳しいわけではないので敗戦の理由を分析することなどできない。したがって、「よく頑張ったね」 とか 「次回(2006年)に向けての重要な経験ができたね」 などと典型的な日本人思考になってしまう。結果的に偉そうなことは言えないのである。
スポーツの世界で ”たら” とか ”れば” を使ってはいけないそうだが、もう少しだけ頑張ってい ”たら” もう少し長く夢を見られたのに・・・。あの時のトルコ戦で日本が勝ってい ”れば” 今日(06/22(土))は大阪での試合だったのに・・・。ワールドカップに気を取られていて気が付けば阪神はズルズルと順位を下げているし、大阪府民のテンションは下がりっぱなしである。
この雑感で予想した通り、にわかファンが溢れ出てきたことと、熱しやすく冷めやすいのは何とも日本人らしい。にわかにサッカーファンとなり、熱病にでもおかされたように騒いでいたくせに日本が敗退すると急に冷めてしまったようだ。日本が負けてしまったことで 、にわかサッカーファンの 70%は冷めてしまったのではないだろうか。そして ”ベッカム様” 率いるイングランドが負けたことで更に 20%程度の人が冷めてしまい、これからもサッカーという競技そのものを楽しむ人は 10%程度ではないだろうか。
勝手な推測で申し訳ないが、その 10%の人で Jリーグの試合会場に足を運ぶ人は何人いるだろうか。世界の中でもレベルの高い試合を見たあとで Jリーグの試合を見て満足できる人が何人いるだろうか。そしてこれからもサッカーという競技そのものを楽しむ人はどの程度いるのであろう。サッカー人口が増えて Jリーグの組織やチームの運営が楽になると良いのだが、大きな効果は期待できないような気がする。
日本人らしいといえば、イングランドのキャンプ地だった淡路島の津名町では小学生がベッカムから貰ったサインを津名町教育委員会が取り上げてしまったらしい。単純に「サインが貰えない子供がかわいそう」 ということなのだろうが、なんでもかんでも公平にすれば良いというものでもなかろう。もらえる人もいれば、もらえない人もいる。勝つ人もいれば負ける人もいる。
最近の小学校では運動会の時もみんなが手をつないで一緒にゴールさせたりしているらしい。それも 「負けた子がかわいそうだから」というのが理由なのだろうが、そんなことをして何になるのだろう。スポーツに限らず何にでも勝ち負けがある。勝者の陰には何人もの敗者がいる。小さな頃から負け方もきちんと学習しておかなければ、ロクな大人になれないと思う。
なんでも公平に平均的にしていると、少しでも平均から外れたり負けそうになった時の対処法が身に付かないではないか。このままだと人が持っているものを自分が持っていないなど、ちょっとした理由で ”キレる” 人間や何かに負けた時に過剰に精神が反応してしまい、人を傷つけたりする人間が増えてしまうのではないだろうか。大人はバカなことばかりしていないで勝者を尊敬したり勝者に敬意を払うことを子供に教えるべきだと思う。
人と競わないのであれば競技ではなくなってしまう。自分の子供が敗者になることを嫌って一緒にゴールさせたりするくせに勉強や進学先は平気で競い合わせている。どこか矛盾していることに気がつかないのだろうか。津名町の件は結果的には生徒達にサインを返すことで落ち着いたらしいが、過保護にするのはいいかげんにして、これから先の人生にも無数の勝敗が待ち受けていることを教えてやった方が良いと思う。
今回のワールドカップでは日本人の恥ずかしい部分も見えてしまった。6月14日、日本が決勝トーナメント進出を決めた夜。共催国である韓国も決勝トーナメント進出を決めた。TVには日本と韓国両方のサポーターが喜ぶ姿が映し出されていた。インタビューを受けた韓国人サポーターの多くが 「日本と一緒に決勝トーナメントに出られて嬉しい」 と答えていたが、日本人サポーターで 「韓国と一緒に・・・」 と答えた人を見なかった。
韓国人サポーター達が集まって昼間におこなわれた日本の試合を TVを観ながら応援している姿があったが、その夜の韓国の試合を応援する日本人サポーターの姿は見ることができなかった。実際には 「韓国と一緒に・・・」 と答えた人や夜の試合で韓国を応援していた日本人サポーターもいたと思いたいが、それが TVに映し出されることはなかった。
6月18日、日本がトルコに敗れたその日の夜、韓国が無理と言われていたイタリアに勝利した。しかし、それを喜び、素晴らしい試合をした韓国に敬意を払う日本人サポーターの数は極少数だった。東京にあるリトルコーリア(韓国料理の店が建ち並ぶ地域)では韓国の人が熱心に自国の応援をしていた。そこに日本代表ユニフォームを身に付けて韓国を応援する日本人サポーターがいたことに少しだけ救われた思いがしたが、その数はあまりにも少なすぎた。
もちろん韓国人が嫌いな人もいるだろう、アメリカ人が嫌いな人もドイツ人が嫌いな人もいるだろう。しかし、韓国人に特別な感情がない人は共催国でもあるのだから、もう少し韓国の応援をしても良いのではないかと感じてしまった。”あの” イタリアに勝利したのだからもっと韓国チームを尊敬しても良いのではないだろうか。日本が負けたあとの一番の関心事はベッカム率いるイングランドに移ってしまったのが悲しかった。
考え方は人それぞれだろうが、自国のこととアイドル的有名選手にしか感心を示さない日本人はあまりにも心が狭く 「やっぱり島国根性しか持ち合わせていないのか」 と、とても残念に思えてしまった一週間だった。そして・・・。韓国がスペインに勝った今日(6/22)、我家では日本戦より控え目ながらも小さくパチパチと拍手なんぞしたりしているのであった。
2002 / 06 / 23 (日) ¦ 固定リンク
あうん あうん
世の中 W杯一色である。大会前日までは静かなものだったのに、どこから湧き出てくるのか街中に青いユニフォームや Tシャツを着たサポーターがウロウロしている。誰かが右を向いたら一斉に右をみてしまうという、相変わらず極端な民族である。
何週か
前の雑感に書いたとおり ”にわか”サッカーファンも含めて日本国中が大騒ぎしている。当然のことながら自分も典型的な日本人であるわけなので、日本の試合結果は気になるし、勝てば喜んだりしている。仕事を休んでまで観戦はしないが、自宅にいる時に放送していれば TVの前で応援するし、日本に点が入ればパチパチと拍手したりもしている。
しかし、TVで映し出されるサポーターのように必死に応援したり歓喜の声を張り上げたり狂喜乱舞するまでには至っていない。昨日(6/14)の試合で日本が勝利を収め、グループリーグ 1位で決勝リーグ進出を決めたところ、全国各地で大変な騒ぎになった。すっかり大阪名物になってしまった道頓堀のダイブでは警察の制止を無視して 640人が川に飛び込んだとのことだ。
飛込みを止めるよう呼びかけていた警察もあきらめて、途中からは 「頭から飛び込まずに足から着水するように」 という呼びかけに変わったらしい。道頓堀川は水位が低いので頭から着水すると危険だし、川底には投げ捨てられた自転車などもあるので更に危険度が増す。怪我人がでなかっただけ ”マシ” なのかもしれないが、人に迷惑をかけるような行為は考えものである。
戎橋だけで 2,000人、周辺を含めると数万人の群集が押し寄せたために早々と店じまいする店も多かったと聞く。ミナミの店が金曜の夜に早く店を閉めなければならないのだから売り上げにも影響があるだろう。しかし仮に同じ時刻に試合があったらミナミも閑散としてしまうのだろうから結果は同じなのかもしれないのだが・・・。
いずれにせよ昨夜は各地で騒ぎが大きくなり逮捕者も出たのだから尋常なことではない。大会前に海外からやってくるフーリガンに怯える競技場周辺の住民や商店街の店主が取材を受けていた。警察もフーリガン対策には万全の体制で臨んでいた。一部のマスコミでは過剰警備との批判まで出ていたが、危機に備えるのが警察の仕事で、フーリガンを出国させない、入国させないという水際作戦との併せ技で大きな混乱もなくプログラムが進行できているのだと思う。
ところが ”敵” は内に潜んでいた。”にわか” サッカーファンやら便乗して騒ぎに参加する輩(やから)が全国各地に湧いて出てきたのである。もちろんサッカーを愛する純粋なサポーターもいる。前回(1998年)の W杯ではスタジアムで自分達が出した紙ふぶきなどのゴミを綺麗に掃除している日本人サポーターを地元(フランス)のマスコミが絶賛していた。
もちろん、今回も自分の出したゴミは自分で掃除する善良なサポーターだっているに違いないが、どうしようもないのは騒ぎに便乗することが目的の ”にわか” サポーターである。電柱によじ登ってみたり、花火を打ち上げてみたりと、日本代表チームが勝った喜びよりも、騒ぎに参加する方に喜びを見いだしてしまったようだ。
それほどサッカーファンではない自分でさえ日本が勝てば嬉しいのだから、ずっと応援しつづけている人たちの喜びは ”ひとしお” であろうと想像できる。全身を使って喜びを表現するのも構わないが、人に迷惑をかけるような喜び方をしても日本代表チームの面々は嬉しくないと思われるので ”ほどほど” にしておくべきである。
前置きが長くなってしまったが本題は ”あうん” の呼吸についてである。サッカーに詳しい訳ではないので余計に感じる事なのかもしれないが、競技中の選手達はどのようにして意志の伝達を図っているのか、とっても不思議に感じてしまう。もちろん声を出して伝えていることもあるだろうが、ゴール前にパスを出し、誰かが走りこんできてシュートを放つ。
そんな時に 「おーい○○!パスいくぞ〜!」 「おー!まかせとけ〜!」 などと言っていると相手にもバレバレになってしまう訳だから当然、無言でプレーしている。中には誰かが ”ススッ”とゴール前に移動したのを確認してそこにパスすることもあるが、敵も見方もいない場所にボールを送ると、どこからか味方が現れてシュートしたりしている。
アイコンタクト、つまりは目と目で語っているのだろうか?などと想像してしまうが、サッカーに詳しい人に聞くと ”練習のタマモノ” という無難な回答が帰ってきた。お互いに 「あいつは、あの場所にボールを出してくるに違いない」「あそこにボールを出せば、あいつならシュートするに違いない」という、まさに ”あうん”の呼吸である。それを可能にするのはやはり練習しかないのであろう。
そのほかにも突然反対方向にパスしてみたり、かかとで後ろの人にパスしてみたり、ボールを受けるふりをして急にやめ、その先にいる人に渡してみたりとなかなか多彩な ”技” を見せてくれる。それも ”あうん” の呼吸と相当な集中力がなければ不可能なように思う。それもこれも日々たゆまぬ努力と練習のおかげなのであろう。
世界トップレベルの ”技”を目の当たりにしてサッカーの面白さが少しだけ分かってきたような気がするが、のめり込む程のサッカーファンにはまだなっていない。人それぞれの楽しみ方でサッカーに興味を持ち、W杯が終わったあとも Jリーグの試合に足を運んで観客数が増えると良いのだが、そこは日本人、多くの人は W杯が終了するか、日本が負けたとたんに一気に熱が冷めてしまうものと思われる。
それでも少しの人でもサッカーファンとして残って Jリーグを盛り上げなければ、今のような観客数では組織運営が厳しいのではないだろうか。発足当初は日本経済がバブル期であったこともあり、Jリーグのロゴ使用や TVの放映権に巨額なお金が動いたりしていた。しかし、すぐに視聴率の低迷から TVでの試合中継が激減し、ファン層の拡大に陰りが出てきた。
TV中継がなくなり、競技場にも人が集まらないとなると当然スポンサーも離れていく。お金が動かなければチーム運営も厳しくなり、選手に支払う年俸にも影響が出てくる。報酬が得られないのであればサッカー選手を目指す人が減り、競技人口も増えない。競技人口が少なければ世界に通用する選手も発掘が困難になる。まさに悪循環である。
純粋なサッカーファンではないので偉そうには言えないが、便乗して騒ぐだけでなく競技そのものを楽しんで競技を理解すべきだと思う。その気がないのであれば自分のように家で大人しくしていればよろしい。決勝トーナメントに進むことができた段階でこの騒ぎである。18日のトルコ戦で日本が勝てば次の試合でまた大阪に帰ってくる。相手がスウェーデンかセネガルなので勝ったら勝ったで大騒ぎになるのだろう。
そしてどちらの国が相手であっても相当に強いと聞いているので負ける確率が高い。そうなった時、日本の群集はどういう行動にでるのだろう。ガックリと肩を落として悲しむのだろうか。それともどこかの国のサポーターみたく、くやしさを紛らわすために暴れるのだろうか。勝っても負けても人に迷惑をかけるような騒ぎを起すのだけはやめていただきたいものである。
もし何かが起きても警察官は数人がかりの ”あうん” の呼吸で暴れている奴を取り押さえてくれるに違いないと信じている。
2002 / 06 / 16 (日) ¦ 固定リンク
犬や猫の・・・続き 犬や猫の・・・続き
犬や猫の・・・というタイトルのくせに先週の雑感では犬の話に終始してしまった。文書が長くなってきたので途中で切り上げたというのが実情だが、猫よりも犬の方をよく見かけるのも事実である。犬に散歩は欠かせないので朝晩とも必ずと言っていいくらい会うことができるのだが、猫は勝手気ままにウロチョロしているので会えるとは限らないのである。
だいぶ前に近所に住んでいた夫婦(?)は飼い猫に首輪をつけ、犬と同じようにヒモ付きで散歩させていた。猫が帰ってこなくなるのが心配だったのだろうが、猫の飼い方として正しいとはどうしても思えなかったので散歩させている姿を目撃するたびに奇異な感じを受けていた。猫は繋がれることなく元気に走り回っていれば良いのである。たまに家出をして 3-4日帰ってこず、飼い主を心配させてこそ猫らしい猫なのではないだろうか。
以前の雑感にも書いた家に入れてもらえずに困った顔をしている猫は相変わらずである。懲りもせずに暗くなるまで遊んでいるものだから、家から締め出されてしまって門柱の上で困った顔をするハメになる。暖かくなってからは毎日のように困った顔をして丸くなっているので 「また入れてもらえなかったの?」 と問いかけると 「ウニャ」 というお返事だった。
ある日、その猫が首をうなだれて ”しょんぼり” していたので、どうしたのかと良く見てみると目の上にケガをしている。「どうしたの?」 と聞くと、とっても情けない声で 「にゃ〜ん」 と鳴きながら前足をなめていた。その前足からも血が出ており歩きづらそうにしている。どうやらケンカして負けて帰ってきたらしいのである。「ケンカしちゃいけないんだよ」 と言い聞かせてやったが、その後も何度かケガをしていたところを見たので近所に宿敵がいるらしい。それでもこのあたりでは ”顔” なのか、その家の前で猫の集会が開催されることもある。会社帰りにあちらこちらの枝道で猫が歩いているのを見かけたので 「今日はずいぶん猫に会うな〜」 と思っていたら当日は ”集会”の日だったらしく家の前にはたくさんの猫が集まっていた。
猫の集会は有名であるし、現場に立ち会ったのは初めてだったので何を話し合うのか興味津々とながめていたのだが、誰かが議長をするわけでもなく、議題に関して話し合うわけでもなく、なんとなく集まってじーっと猫座りしたままなのである。自分の飼い主に関する不満を打ち明けたり、近所のうわさ話に花を咲かせるのかと期待していたのだが、それぞれが 3mくらいの間隔をあけて声を発することなく猫座りしている。中には目を閉じて考えごとをしている猫もいた。その日はたまたま議題がなかったのか、猫の集会とはああいうものなのかは謎だが見ていてもつまらないので途中で帰って来てしまった。もしかすると 「やっといなくなったね」 などと言いながら、その後に活発な意見交換を始めたのかもしれない。
線路沿いにあった文化住宅が立て壊されて更地になった。それまで見えなかった裏の建物まで見渡せるようになると、そこには猫の家族も住んでいた。手のひらに乗る程度の大きさしかない子猫が 3匹と親猫 2匹の 5人(?)家族だ。子供を育てるのはメス猫の役目でオス猫は子育てに参加しないものだと聞いていたが、その一家は両親揃って子育てにはげんでいるのであった。
いままで狭い場所で遊んでいたのに目の前に大きな広場ができたものだから子猫達は嬉しくてしようがないらしい。体との比率からみて大きな足で地面をしっかりと踏みしめながら 「のっしのっし」 と歩いていたかと思えば兄弟で広場を駆け回ったりしている。じゃれあって首を噛んだり、走っているところにタックルしてひっくり返っても親猫は好きにさせている。
ところが空き地から一歩でも道路に踏み出そうとすると母猫がものすごい勢いで走ってきて空き地に追い返すのである。言うことを聞かない子猫などは首をくわえられて空き地の真ん中まで運ばれていた。あれをしちゃいけない、これをしちゃいけないと細々注意するのではなく、ある程度は好きにさせておいて危険なこと、やってはいけないことは厳しく教えるその姿を人間のバカ親にも見せてやりたいものである。
猫は誰にでもなつく訳ではないので、こちらから話しかけても無視されることが多いのだが、どうやら犬には好かれるようだ。散歩中の犬が鼻をフンフンいわせながら近づいてくることもよくある。こちらも犬は好きなので近づいて来ても迷惑なことはないのだが、飼い主は 「ダメ!」 と言いながらクサリを強く引いたりする。ある程度の大きさの犬であれば引き戻すことも可能だが、大きな犬は制御が困難な場合もある。
もう数カ月前の話だが、自転車で近所を走っていると ”おかあさん” が大きな黒い犬を散歩させていた。生意気にも首輪に苗字と名前のフルネームを書いてもらっている。「そうかこの犬は○○五郎」 というのかなどと思いながらその二人(?)を追い越したのだが、後ろから ”おかあさん” の絶叫が聞えた。「誰と勘違いしているの〜〜!!」 と叫びながら大きな犬に引きずられるように走っている。
どうやらその犬は自分を誰かと勘違いしたらしく、嬉しそうに近づいて来て大きな舌でベロンベロンと足を舐められてしまった。こちらも嫌いではないので犬の好きにさせていたのだが、”おかあさん” は 「ごめんなさい、ごめんなさい」 と何度もあやまっている。「別にいいですよ」 と笑顔で別れたのであったが、ズボンは犬のヨダレでペトペトになっていた。
犬好きなのはよいが、他人の家で飼われている犬にまで情が湧いてしまうのは困ったものである。”お気に入り” の黒い犬が傷口を舐めないようにするエリマキトカゲみたいな治療用の器具を首に付けられていた。そう言えば仲良しの ”おとうさん” と散歩している姿をここ数カ月の間見たことがない。「おとうさんが病気になってしまったのだろうか?」 「仕事の関係で単身赴任してしまったのだろうか?」 などと考え、寂しさなどのストレスから自分の体を傷つけることもあるらしいという話を思い出したりしながら、「早くよくなるといいねぇ」 と慰めていた。
ずっと器具を付けられていたが、最近になって器具をはずしてもらっていることが多くなった。数日前、出勤のため線路沿いを歩いていると数カ月ぶりに ”おとうさん” と一緒に歩いている姿を目撃した。勝手な想像ではあるが、”おとうさん” と会えない寂しさのストレスから自分の体を傷つけていたが、帰って来て散歩させてもらえるようになったため、回復に向かっているのだと思っている。
そして、先週の雑感にも書いた洋服屋さんで飼われている犬なのだが、水曜日に店のそばを通りかかった時、飼い主と店のお客さんが立ち話をしていた。耳に飛び込んできたのは 「散歩させたいけど、もう、ろくに歩けないからねー」 という飼い主の言葉だった。それを聞いたとき、2匹揃って愛想良く ”接客” に勤めていた若き日の姿を思い出してとても辛くなってしまった。
その時にも犬は飼い主の足元で座ったまま、ただ遠くを見つめているだけだった。先週の繰返しになってしまうが、もうお客さんに愛想を振りまかなくても良いし、今まで十分に働いてきたのだから、これから先の老後はゆっくりしてもらいたいものだと心から願わずにはいられなかったのである。
2002 / 06 / 09 (日) ¦ 固定リンク
犬や猫のいる風景 2002初夏 犬や猫のいる風景 2002初夏
味の好みや体質は変われど犬や猫を代表とする動物好きなのは変わっていない。ペット産業が拡大していることからも世の中には同じく動物好きな人が多いのかもしれない。それを見越してなのか、最近はテレビCMに犬や猫を出演させているものがたくさんある。よく見なければいったい何のCMなのかわからないくらいだ。犬や猫の仕草に見とれて映像に引きつけられているのだから、広告主や製作会社の思惑にまんまと乗せられてしまっているのであろう。
血統書付きなんかじゃなくてもいい。原種が何なのかさっぱり分からないくらいの雑種でも構わない。とにかく犬や猫を見ると幸せな気分になれる。その点、家の近所や会社の周りには犬や猫を飼っている人が多いので動物好きの自分としては嬉しい限りだ。
金曜日のことだが会社帰りに千里丘の駅から自宅に向かって歩いていると、細い路地に ”一人歩き” の犬がいた。「どこかから逃げ出してきたのだな」 と見ていると目が会ったので手のひらをパタパタしてやった。不思議そうにこちらを見ていたが、とくに近づいて来る様子もなかったのでそのまま歩き出した。しばらく歩いてふと後ろを振り返るとさっきの犬が遠く後ろを歩いている。
自宅方向への曲がり角でもう一度後ろを見るとまだ遠く後ろで同じ方向に向かって歩いてくる。「家に帰れなくなったのだろうか」 とか 「いや帰省本能くらい持ち合わせているだろう」 とか 「こんな夜遅くに一人歩きして、不良の犬にからまれないだろうか」 などと訳の分からない心配をしつつも再び自宅に向かって歩き出した。
以前の雑感にも書いた ”お気に入り” の黒い犬がいる家の前を通ると、いつもは吠えないその犬がこちらではない方向を見ながら 「ワン」 と一声だけ発したので 「どうしたの?」 と見てみると、さっきの犬がまだついてきていて、距離も少し近づいている。「家が同じ方向なのだろうか?」 と思いつつ少し歩いて振り返ると、さらに距離を近づけながらまだ後ろを歩いている。こちらが立ち止まると犬も立ち止まり、きちんとお座りをして良い子にしているのである。
また少し歩いて振り返ると同じように立ち止まって ”良い子” のお座りをしてこちらを見ている。「家に帰りなさいよ」 と言ってやると小首を傾げながらじーっと見つめるのである。心の中では 「なんて可愛いやつなんだ!」 と叫んでいたが、ここで甘い顔を見せると自宅までついてきかねないので心を鬼にしながら 「うちはペット禁止だから飼ってやれないよ」 と言ってやった。
それでも首を傾けじーっと見つめている。後ろ髪を引かれる想いだったが少し早足で家路を急ぎ、しばらくして振り向くと遠くの三叉路でお座りしながらこちらを見ていた。「ちゃんと家に帰るんだよ」 と言うと反対方向に歩いていった。少し安心した反面、とても切ない別れをした気分になってしまったのだった。
会社のすぐ近くにある洋服屋さんにはシーズー犬が 2匹飼われていた。過去形になってしまうのは、そのうちの 1匹が亡くなってしまい、今は 1匹しか飼われていないからである。2匹いたころは見ていて本当に楽しかった。店の前で 2匹揃って日向ぼっこしている姿も可愛かったのだが、何よりも楽しませてくれたのは店にお客さんがいるときなのだ。
洋服を選んでいる間、その 2匹はお客さんの足元についていて店の中を案内しているようだった。洋服を胸に当てて鏡を見ていると、その足元で尻尾をちぎれんばかりに振ってお客さんの顔を見上げている。まるで 「よくお似合いですよ」 と言っているようだった。小さな犬がじゃれつくわけでもなく、ぴったりと寄り添い、あれほど完璧な ”接客” されたならばついつい財布のヒモもゆるんでしまうに違いない。
最初は顔見知りのお客さんだから馴れているのだろうと思っていたのだが、どのお客さんに対しても同じようにしていたところを見ると、飼い主である店主が接客しているのを見てマネをしていたのかもしれない。たまたま犬好きの人が 「似合う?」 などと話しかけ、売上に貢献した結果、飼い主に誉められたから 「こうするとご主人様が喜んでくれるのだ」 と理解して ”接客” に励んでいたのかもしれない。
実際にその 2匹は本当に賢い犬で、飼い主の言う事は人間の言葉を理解しているかのようになんでも守っていた。店は交差点の角地にあるので人や車が行き交う。2匹は放し飼い状態だったが 「危ないからこれ以上遠くに行ってはいけない」 と教えられた範囲から外にでることはなかった。店の外でも通行の邪魔にならない所で 2匹並んで昼寝などしていた。
冬の時期、店内ではストーブが赤々と燃えていたが、その前で店主が 2匹を座らせストーブを指さしながらなにやら話している。ガラスのドアは閉まっていたので声は聞えなかったが、その身振り手振りから 「これに触ると大変な事になるから絶対に近づかないように」 と教えているようだった。きちんと並んでお座りしている後姿や飼い主が説明しているのを見上げている姿は本当に可愛かったものである。
いつも 2匹で行動していたのだが 1年ほど前から 1匹の姿が見えなくなってしまった。最初は 「病気でもしたのかな?」 と心配しつつもすぐ治るだろうと思っていたのだが、現在に至るまでその姿を見ることができていないので、きっと亡くなってしまったのだと思われる。残された 1匹も相方を亡くしたのがショックだったのか急に年老いてしまったようだ。
最近では店にお客さんがいても伏せたままボ〜っと外を見ていることが多く、毛艶も失われてバサバサになってしまった。そんな姿をみると寂しかったり悲しくなったりしてしまうが、若かりしころはあれほど ”接客” に勤め、きっと店の売上にも貢献したのだろうから、これから先の老後はゆっくりしてもらいたいものだと思っている。
動物は本当に大好きなのだが、自分の性格からいって溺愛するだけのバカ親になるのは目に見えるようだし、死なれたときの悲しみを想うと実際に飼うのはためらってしまう。平均で 80年は生きると言われているオウムを飼うという手もあるが、それではこちらが先に死んでしまう結果になるのは明らかである。
そんこんなで自分で動物を飼うことは諦め、近所の犬や猫をみては喜んでいる毎日なのである。
2002 / 06 / 02 (日) ¦ 固定リンク