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元号(和暦)

現天皇陛下の退位が現実味を帯びてきた今、平成という元号から新しいものへと変わるのも確実となっている。

天皇が亡くなってからだと、カレンダー、手帳業界の印刷物をはじめ、銀行から各行政機関まで様々な書類にある 明・大・昭・平 を選ぶ欄に新元号を慌てて追加せねばならず、印刷業界関係者の睡眠時間が著しく短くなってしまい、その界隈での交通事故件数が跳ね上がる危険性があったりなかったりするかもしれないが、これが今の案にあるように 2019年元旦からと決まっていれば、少しは落ち着いて仕事ができるのではないだろうか。

そこでふと思ったのだが、元号が社名になっている会社は多い。

事実、大正製薬という会社名は、同社が1912年(大正元年)に創業したことに由来している。

明治製菓は元号の明治に由来するものではないらしいが、それでも明治が含まれており、昭和シェル石油となる前の昭和石油も元号の昭和からとったものだろう。

日本に星の数ほどある中小企業の中にも社名に大正、明治、昭和のつく会社は多いだろうし、正、明、昭など、一文字をもらって命名された社名に至っては数えるのに苦労するほど多いに違いない。

しかし、平成の名がつく大会社はない。

もしかすると自分が知らないだけで、ある業界では名の知れた会社が存在するのかもしれないが、少なくとも一般人であっても誰でも知っているような有名企業はないだろう。

平成といえば元年は西暦 1989年で、直後の 1991年にバブル景気が崩壊し、それから平成29年の現在までの 27年間は実感・実態のない程度の好景気しか訪れておらず、長いデフレ期が続いたままとなっている。

政府や日銀は数年前に脱デフレ宣言をしたが、実態としてデフレは終わっておらず、消費者マインドはインフレを拒絶したままの状態だ。

以前から何度も書いているが、デフレなどそう簡単に克服できるものではない。

それまで産業革命で繁栄を謳歌していたイギリスは景気後退が原因で、1870年代前半から1890年代半ばまで、およそ四半世紀に渡って物価の下落が続いた。

それより遥か昔のローマでは 50年間もデフレだったという史実もある。

そんなネガティブマインド状態の日本においては、平成由来の社名をつける気にもならないかもしれない。

すでに26年間もデフレ状態が続いていると仮定するならば、元号が変わるであろう 2019年で 28年目、東京オリンピックが開催される 2020で 29年となる。

30年も経てばデフレの終わりも見えてくるだろうし、オリンピック景気も手伝って日本にも光明が射すことだろう。

だとすれば、次の元号を社名にするケースもそこそこ多いのではないだろうか。

元号の決め方には色々と注意点があるらしく、主には以下の 4点なのだそうだ。

1. 漢字二文字
2. 書きやすい
3. 読みやすい
4. 俗用されていないもの

2 と 3 は子どもでも書けて読めるのが好ましいということだろうし、4 はありふれていないものということである。

それほど画数が多くなく、縁起の良い漢字二文字で構成しなければいけないのだから考えるほうも大変だ。

ウィキペディアに過去の元号一覧が掲載されているが、一文字かぶりはあるものの、同じ元号がないのがすごい。

経済の低迷が続き、好景気らしい好景気の経験もなく、デフレ脱却の意識もなく、世界情勢も不安定で日本の将来に希望が持てない今、次の元号は力強く明るく、そして威勢のよいものにして頂きたい。

『安』、『和』など安心感のある漢字、『永』、『久』などの将来性を感じる漢字、『栄』、『宝』など景気の良さそうな漢字を用いると良いのではないかと勝手に思ったりしているのだが、どうだろう。

ゆとり効果

『ゆとりでしょ? そう言うあなたは バブルでしょ?』
これは第一生命保険が毎年開催し、恒例となっているサラリーマン川柳で 1位となった作品だ。

ゆとり世代の人たちは、
「ゆとり世代だからなぁ」
とか、
「だからゆとり世代のやつらは・・・」
などと、何か失敗したり、同世代の人の行いが悪いと一緒くたにされて上の世代から小馬鹿にされ、忸怩たる思いをしたり、逆に反感を抱いたりしているケースが多いらしい。

バリバリの詰め込み教育を受けた世代にとっては多少のやっかみも覚えつつ、
「最近の若いものは・・・」
と言うのも年寄りっぽいので
「ゆとり世代は・・・」
などと言っているのではないかと思われる。

ゆとり世代とは、ざっくり 2002年度から2010年代初期までの学習指導要領に沿った教育を受けた世代のことで、1987年4月2日~2004年4月1日生まれの 13~30歳(2017年現在)を指す。

今は会社組織に所属していないので、それほど多くの若者と接する機会はないが、それでもお客さんの会社を訪問してその世代らしき人たちと会話することはある。

確かに常識的には考えられないような言葉遣いや態度で接してこられたりしないでもないが、自分も若い頃は十二分に非常識の跳ねっ返りだったこともあり、多少の腹立たしさを覚えつつも若いのだから仕方がないと、最終的には諦めにも近い割り切りをしてしまう。

これが先輩や上司だと、確かに若者の扱いはとても難しいに違いない。

あまり言葉を荒げて叱り飛ばせばパワハラだと言われかねず、心の折れやすい若者であれば出社拒否になったり精神を病んで訴訟沙汰になってはたまらないだろう。

また、最近は先輩や上司にも問題があって、若者ウケの良い、理解のある先輩とか上司でいようとするあまり、多少どころか相当なことにも目をつぶるなど、ろくに注意をしなかったり教育しない場合が多い。

これでは世の中どんどんおかしなことになっていってしまうのではないかと、老齢に向かってまっしぐらな自分としては日本の行く末を憂いたりしてしまう。

しかし、よく考えてみると、その世代の活躍が目覚ましいのも間違いのない事実だ。

ここ数日、世間の話題の中心となっているのは 14歳にしてプロ棋士となり、目下のところ 26連勝中と勢いが止まらない中学生、藤井聡太はバリバリのゆとり世代である。

次々に様々な記録を更新し、現在(2017/6)は世界大会優勝 53回というとんでもない成績をおさめている女子スキージャンプの高梨沙羅も 1996年生まれで超ゆとり世代だ。

数々の実績を示し、惜しくも引退してしまった女子フィギュアスケートの浅田真央(1990年生まれ)もゆとり世代。

現在の卓球界の立役者である福原愛(1988年生まれ)も、世界を相手に堂々と戦っている石川佳純(1993)、伊藤美誠(2000)、平野美宇(2000)などなどもゆとり世代。

男子卓球の水谷隼(1989)、丹羽孝希(1994)や、中学生にして活躍目覚ましい張本智和(2003)もバリバリのゆとり世代。

その他、萩野公介(1994)、入江陵介(1990)、瀬戸大也(1994)を始めとする水泳選手、陸上100mで 10秒を切りそうな桐生祥秀(1995)、ケンブリッジ飛鳥(1993)、最年少Jリーガーの久保建英(2001)もゆとり。

世界に伍して戦えるようになったのは、すべてゆとり世代の活躍以降というケースが多い。

学力低下が叫ばれ、学習指導要領は軌道修正されてしまったが、ゆとり教育が生み出した副産物も多かったのではないだろうか。

その学力低下も授業日数、時間が減ったことによる副作用と胆略的に考えられているが、実は詰め込み型の教育方法しか身に着けていなかった教える側が、楽しく効率的に学べる手法を導入することを怠り、従来通りの教育法で時間だけが短くなってしまった結果が、学力の低下として現れてしまっただけなのかもしれない。

せっかく長所を伸ばすことができてきたのに、昔ながらの教育になってしまうのは残念だ。

今はスポーツなどでの活躍が目立つゆとり世代だが、彼らが新ビジネスを構築し、世界に打って出て大成功するかもしれない。

もう何十年も登場していない日本の世界企業を創り上げる能力を秘めつつも、その発想力、想像力や創造力が詰め込み教育で失われないことを願う。

ここでもう一度、ゆとり教育とは何だったのか、その効果はどうだったのかを誰か検証してくれないだろうか。

世界共通語

先週は日本文化について書いたが、最近の海外ドラマを見ていると、かなり日本文化が世界に広まってきていることを実感する。

以前は登場人物の乗る車は韓国車、使うスマホも韓国製ばかり、ちょっと前だとドラマの中でテイクアウトの食事は中華ばかりが目立った。

まさに国力、勢いの差が如実に現れていて、バブル崩壊から日本経済は大きく失速して落ち込み、設備投資などを怠っているうちに財閥資本に物を言わせた韓国勢が巨額投資などで台頭し、LG、SAMSUNGなどに家電、電子製品の世界シェアを奪われ、30年近くが経過した今も広げられた差を埋めることができずにいる。

人件費が安価だというだけの理由で日本企業の多くが中国に進出し、技術の流出が懸念された際にも日本の高度技術に追いつくには最低でも20年、いや、30年はかかるなどと根拠のない自信を見せていたが、10年もしないうちに技術は真似されたり盗用されたりし、レベルはあっという間に埋められてしまい、経済力も中国が日本を抜いて世界第二位になってしまった。

アメリカでの存在感も韓国や中国は日本を抜き、その製品などが広く使われるようになったためドラマや映画などでも多く採用されることになったのだろう。

1990年代から2010年くらいまでのドラマでは日本の存在感があまりにも薄く、忸怩たる思いをしたりしていた。

ただし、それ以前のバブル経済絶頂期に日本企業は品のない買収劇を繰り返していたので、映画やドラマで描かれる日本は、どちらかと言えば小馬鹿にされたりしていて決して良い印象の扱いではなかったものだが。

ところが最近になって情勢は変わり、今はテイクアウトの定番も外食で選ばれるのも日本食、そして劇中に日本語が多く使われるようになってきた。

会話の中で
「ありがとう(arigato)」
が度々使われるが、それは日本人が軽くお礼言う際に
「サンキュー(thankyou)」
と言うのと同じようなノリで使っているのだろう。

それ以外にも
「おはようございます(ohayo gozaimasu)」
なども時々耳にするし、警察が容疑者のアジトに踏み込む際に
「こんにちは!(konnichiwa!)」
と叫んでいるシーンもあった。

ドラマで使われるということは、ちょっとアメリカで日本語が流行っているのかもしれない。

そう言えばメジャーリーグの中継を見ていてもたまに
「さよなら(sayonara)」
「すごーい(sugoi)」
などと実況の人が言うことがある。

自然災害の多い日本ゆえ、津波(tsunami)が世界共通語になったのは分かるし、第二次世界大戦で神風(kamikaze)が有名になったのも当然だろう。

その後、日本といえば、すき焼き(sukiyaki)、てんぷら(tempra)、芸者(geisya)、富士山(fujiyama)というのが最も有名だった。

映画などで昔から侍(samurai)、忍者(ninja)は有名だったし、日本発祥のカラオケ(karaoke)はアメリカのみならず世界で通用する単語だ。

最近になると、かわいい(kawaii)、漫画(manga)などの若者文化が世界中に広まり、それに引きずられてオタク(otaku)もメジャーな世界共通語になりつつある。

携帯電話で使われる絵文字(emoji)も世界で通用するし、いかにも日本らしい折り紙(origami)や盆栽(bonsai)も広く知られるところとなった。

トヨタ生産方式の改善(kaizen)は世界のビジネス用語として定着しているし、省資源国ゆえの節約志向が根付いていた頃のもったいない(mottainai)も多くの国で使われている。

最近の日本食ブームで豆腐(tofu)、味噌(miso)、寿司(sushi)、刺身(sashimi)、テリヤキ(teriyaki)なども有名になったし、日本独特の文化とかわいい文化、手先の器用さが融合したキャラ弁の写真が世界に拡散して弁当(bento)も共通語になりつつあるようだ。

それどころか日本発祥ではないパン粉(panko)、ラーメン(ramen)も、日本語として広がりを見せている。

最近になって世界共通語となったものは、総じて明るいというかポジティブな印象のものが多いが、それは世界が日本の価値観や文化を認め、日本の良いところを見てくれているからではないだろうか。

そう言えば海外ドラマで中国マフィアや韓国の犯罪組織が登場したり、密輸先として中国や韓国の名がでることは多いが、悪い意味で日本が登場するケースは極めて少ない。

ジャパンマフィアは閉鎖的で海外進出していないのも一因かも知れないが、日本人は正直でクリーンなイメージがあるのも事実なのだろう。

せっかくアメリカが、そして世界がそういう目で見てくれているのだから、汚職(osyoku)だの、いじめ(ijime)などなどのネガティブ・イメージな言葉が世界共通語になってしまわないことを願うばかりである。

文化

訪日外国人客数が右肩上がりに延び続けている。

日本には世界に誇れるような絶景など数知れているので、来日する外国人の興味は日本文化にあるのだろう。

そして、今でも少なからず日本らしい文化というか風景が残っているのは京都くらいなものなので、観光地として圧倒的な人気があるのもうなずける。

風情のある建物に舞妓さんの着物姿、京料理に神社仏閣とそろえば日本文化を堪能するのに十分だろう。

着物など海外の人から見たら独特な衣装であり、珍しいのだろうが同じ日本人でも着物を着る人は珍しくなった。

そもそも、どうして必死になって覚えなければ自分で着られないような衣類が文化として根付いたのだろう。

どこの国だって大昔の移動手段は馬を代表とする動物によるものが定番だ。

ラクダに乗るにしても馬に乗るにしても、背中にまたがるのだから両足が開く方が都合が良い。

だとすれば必然的に衣類も股を開きやすいズボン的なものになって当然だと思うのだが、日本の場合は男女とも両足の動きが制限される着物になったのが不思議でならない。

そして、どこの国の人がどう見たってヘンテコなチョンマゲ文化はどうして日本に根づいていたのか。

世界的に見ても全員が同じヘアスタイルをしている国など類を見ないと思われる。

男はチョンマゲ、女は日本髪。

よほど髪が薄くなって髪が結えなくなる以外、例外なく同じなのだから驚いてしまう。

それは着物を着るのが大変なのと同様で、自分一人では髪を整えるのが極めて困難だ。

ちょっとした乱れを整えるくらいはできるだろうが、最初から自分の髪を一人でチョンマゲにしたり日本髪に結い上げることなどできないのではないだろうか。

なぜそんな面倒な髪型になり、なぜそれが面倒すぎるからと単なるロングヘアや短髪にする人がいなかったのかが解せない。

没個性、右へならえ精神は、それよりも遥か昔の太古の時代から脈々と流れる日本人の DNAなのか。

日本の食文化で生魚を食べるのは島国で海産資源が豊富なのだから理解できる。

むしろそれが自然だったのだろうが、他国から見ると火を通さずに食べるなど異様だったことだろう。

釣り上げた魚を単にさばいて食べるだけという簡単な調理法もあるが、一手間、二手間、いや、いったいどれだけの工程があるのか分からないほど複雑な製法で作り出されるものもあるのだから日本の食文化は奥が深い。

グツグツ煮ればできるソースやケチャップとは異なり、何か月もかけてやっとできる醤油や味噌、かつお節などの深い味わいは日本独特のものであり、甘味、苦味、酸味、塩味に加えて第5の味覚と世界が認めた『旨味』は日本発のものである。

日本人として誇れるものは多くはないが、その食文化、『和食』は誇っても良いのではないだろうか。

うどんや蕎麦は、水が豊富だからこそ生まれた食文化だろう。

水がとても貴重で、何キロも歩いて水源から運んでくるような土地では、一滴たりとも水を無駄にできない。

そのような環境で暮らす人が麺を打つ際にも水を必要とし、茹でる際にも大量の水を使い、茹で上がった麺を流水でじゃぶじゃぶ洗い、たっぷりのだし汁で食べる料理など作れないどころか、発想することすらできないだろう。

その土地だからこそ可能なことがあり、その土地だからこそ生まれる文化はある。

ただし、冒頭に書いたように着物と日本髪がなぜ生まれたのかに関しては、やはり納得できないが・・・。

飽き

歳のせいなのか、最近は何事にも飽きが来るのが早いような気がしてならない。

子供の頃は、よく飽きないものだと親から呆れられるくらい同じことを繰り返したり、同じもので遊んだりしていたし、先月の雑感に書いたように同じことを何度繰り返しても苦にならなかった。

今でも同じ本を何度も読んだり好きなドラマを繰り返し見るのは同じだが、ことゲームに関しては以前ほどのめり込まなくなったし、一度クリアしたゲームを最初からやり直すことなどない。

そもそも最後までやる前に飽きてしまい、途中で止めてしまうことが多くなってきたのである。

クリアするのが難しくて挫折してしまうのではなく、途中で興味が薄れて続ける気が失せてしまう。

これは先に進みたいという好奇心というか、向上心みたいな部分が欠落してしまったのだろうか。

だとすれば少し問題だが、飽きてしまうのはゲームだけではない。

世の中の関心が向いている話題も、すぐに飽きてしまう。

たとえば森友学園問題。

最初は超個性的なオッサンとその妻、娘や長男のキャラが面白かったことと、安倍首相婦人である昭恵氏の関わりがどうなっているのかなど、報道内容を興味深く見ていた。

しかし、報道が加熱してヒートアップし、世の中の関心が集まってボルテージが最高潮に達する前に飽きてしまい、ニュースがその話題になると鬱陶しくてチャンネルを変えてしまう。

最近になって急浮上してきた加計学園問題も同様で、すでに飽きてしまっている。

「官邸の最高レベル」「総理のご意向」などと記された文章は本当に存在するのかというところで興味はピークアウトしてしまい、25日に行われた元文科次官である前川氏の記者会見の内容などどうでも良く、見る気にさえならなかった。

天下り問題で辞職に追い込まれた前川氏の報復で単なる作り話なのか、それとも窮鼠猫を噛むの例え通り事実をもっての逆襲なのか、これからの生活を考えて暴露本でも売って儲けようとするイタチの最後っ屁なのかはさておき、私怨が見え隠れしてくると「勝手にどうぞ」という意識が強くなって興味の対象外となってしまう。

その点、飽きさせずに程良い感じで話題を提供してくれるが北朝鮮だ。

連日連夜の報道だと頭のおかしな奴のことなどどうでも良いという気になってしまうが、ミサイルを撃って世間の注目を浴びたと思えばしばしのインターバルがあり、核実験したかと思えば少し間を置き、今度は水爆の実験に成功したと言い出し、また間を置いて弾道ミサイルを発射してみたりと、飽きない程度の間隔で興味を引かせるその手法は天下一品であり、ある意味では天才的だとも言えるのではないだろうか。

世界各国も、中国、韓国、そして肝心のアメリカも忘れたくても忘れられない、かと言って一気に事を進めるほどの事態にもならないという、絶妙なバランスでブレンドされた挑発行動なので対応に苦慮するのだろう。

飽きる飽きないの話に戻れば、海外ドラマも途中で飽きてしまって見るのを止めるものが多くなってきた。

以前であれば、最初は面白かったのにだんだんつまらなくなってきたなどと感じながらも、一応は最後まで見たりしていたものだが、最近は物語の途中であっても見るのを中止してしまう。

これまで 250作品ほど見てきているが、最終シーズンの最終話まで見たのは 50作品ほどではないだろうか。

そして、そのうち何度も繰り返して見たくなるのは僅か 3作品程度である。

色々と飽きっぽくなってきたような気がしているが、食べ物に関してそれはないようだ。

もう何年も毎日食べ続けている食品や食材が我が家には 10種類近くあるのだが、そのどれもに飽きを感じたことはない。

いつまでも、そして今でも美味しく食べることができている。

つまりは根本が変わったのではなく、好き嫌いがハッキリしてきて興味の薄いものは飽きるのも早くなってきたということなのだろうか。

この歳になって好き嫌を自覚するなど遅すぎるような気がしないでもないが・・・。

春爛漫

北海道は初夏の一歩手前、春真っ盛りとなっている。

毎年のことではあるが、梅も桜もチューリップもスイセンにスズラン、ライラックなどなど、ありとあらゆる花が咲き乱れており、雪と樹木のモノトーンの世界から一気に原色まぶしいカラフルな世界へと変貌を遂げた。

そうなれば北海道民もウキウキし、野へ山へと繰り出して行く。

出不精を絵に描いたような自堕落的な生活を送っている我が家も、この時期だけは積極的に外に出て春の陽射しを堪能する。

この時期にはいつも独り言にも書いているように、桜の樹の下で昼ごはんを食べるのが毎年の恒例行事だ。

桜の時期は短いので、雨さえ降らなければ毎日でも出かけようと思っているが、少し前のソメイヨシノの時期は天候に恵まれず、せっかく満開になったと思ったら暴風雨となってしまい、あっという間に桜は散ってしまった。

今は八重桜が見頃を迎えている。

まだ満開にはなっておらず、おまけに八重桜は花の寿命が長いのでまだまだ楽しめそうだし、天気も大きく崩れることはなさそうなので花を見ながらの昼食は何回くらいできるだろう。

実は今日の昼も桜の樹の下で食べてきた。

北海道の5月にしては暑いくらいの気温だが、木陰は涼しく実に気持ちが良い。

陽の光を全身で浴びると体の芯からポカポカしてきて思わず眠りそうになってしまう。

そんな楽しい思いをしてきたところなので、パソコンに向かってカタカタとキーボードを打つ気分ではない。

そう、今回の雑感は気乗りしないし書くのが面倒だということを訴えたいのである。

なぜ、こんなに気持ちのよい日にグダグダと駄文を書き殴らなければならないのか。

いや、誰に強要されている訳でもなく、誰かが毎週の更新を楽しみに待っている訳でもないので、書きたくなければやめたら良いだけの話ではあるのだが・・・

話は戻って桜のことになるが、若かりし頃は毎年のこの時期を心待ちにするほどではなかった。

なぜ人は年齢を重ねるごとに咲く桜に感動し、散りゆく桜に悲哀を感じるのか。

「それは、生きている間にあと何回くらい桜を見られるかと想うからだ」
とは、義兄の言葉である。

確かにそうかもしれない。

これから先、あとどれくらい桜の咲く時期を迎えることができるだろう。

日本人の平均寿命はどんどん延びて人生100年時代となりつつある。

だとすれば、今まで見てきたのと同じくらいの回数は見ることができるかもしれない。

そうだとしても、子供の頃や若い頃は今と異なり、そんなことは考えもしなかったが、そろそろ人生の終わりを意識する年齢になってきているのは確かだ。

ただし、自分の場合はそれで考えを新たにしたり、立ち振舞を改めたりすることはなく、せっかくだから桜の時期を思い切り楽しんでおこうと思ったりする、不届き者だったりするのであるが・・・。

デジタル化の波 Signal-20

デジタル化の波 ~目次~

スマホの普及率が圧倒的になってきた。

それとともに固定電話の普及(設置)率は大きく下がり、パソコンの普及率は頭打ちから減少傾向となっている。

少し前であれば、公共の書類などに記載するのは固定電話番号と制限され、携帯電話の番号は拒否されたものであるが、今となってはむしろ固定電話を持つ単身世帯は稀だ。

スマホがあればネットも楽に繋がり閲覧も可能なので Webサイトの閲覧も今はスマホからが 70%、タブレットからが 20%、パソコンからは 10%程度という構成になっている。

もちろん、サイトの内容などによって比率は変わるだろうが、Twitter、facebook、Instagramなどの SNSだと 90%以上がスマホやタブレットからだと思われる。

確かにスマホからのネット検索などは便利なことこの上ない。

わざわざ文字入力しなくても音声認識で検索してくれるし、GPS機能で場所を特定できるため、店などは現在地の近くにあるものを優先的に調べてくれる。

以前は『大阪 千里丘 歯医者』 などいうワードで検索していたものが 『歯医者』 と 1ワードで検索すれば自動的に現在地の近くにある歯医者を調べてくれるのだからありがたい。

そんなに便利なものだから、ますます普及するだろうし、手元でいつでもネットが使えるのだからパソコンを持つ必要性も薄れる。

パソコンは大学生の必需品、それがなければ就職活動に大きな支障をきたすという時代もあったが、今はスマホがあれば事足りるのでパソコンまで買う必要がない。

今や日本の学生のパソコン所有率は世界でも最低レベル、それがゆえにパソコンに関するスキルも世界で最低のレベルになってしまっている(Newsweek)。

それは今後ますます必要となるパソコンのスキル、プログラミング能力が低いということで、日本の世界競争力が現在の 8位から低下の一途をたどるのではないかと不安になってしまう。

パソコンが一気に普及して社会の必需品となった 1995年くらいから、スマホが普及する 2010年までの 15年間に社会に出た現在 30~45歳くらいの人たちは、パソコンの使えない上司と部下に囲まれて、さぞかし苦労されているのではないかと思われる。

そのパソコンを使えない上の世代が大量に定年退職するご時世になってきた。

新聞購読を辞めてしまう世帯主の 7割がリタイアした 60代 70代世帯なのだそうだ。

そうなると、パソコンやスマホが使えないため主たる情報源はテレビが圧倒的になってしまうのだろうから、マスコミによって世論を操作することなど簡単なことに違いない。

しかし、これから数年後になれば、テレビの視聴率よりネット閲覧率のほうが遥かに上回る時代が確実にやってくる。

そうなると世論を大きく動かすのはテレビではなくネットということになり、その伝播力のすさまじさから、すべてが萎縮した世の中になってしまわないか心配だ。

今現在もネットで悪評が広がらないよう、神経質にならざるをえない状況になっている。

それはすべての業種に言えることで、接客態度が悪かったりちょっとした落ち度があれば、あっという間にネットで叩かれ、顧客にそっぽを向かれてしまうという危険性をはらんでおり、一瞬たりとも気が抜けない。

個人が発信する情報も、安易な書き込みで個人が特定される場合もあるので気をつけるべきだ。

facebookを除けば多くの場合は匿名でネット住民となっているが、Twitterでもブログでも、たとえば
「昨日、近所に○○という店がオープンしたから行ってみた」
などと書き込めば、その日付と店名、新規オープンなどの情報から店の住所が特定され、そのネット住民は確実にその辺りに住んでいることが分かる。

並行して実名のfacebookなどをやっていて、同じ情報を書き込んでいたりすれば知人に Twitterなどのアカウント名が知られてしまう可能性も低くない。

それらのことを気にすれば、気軽につぶやいたり書き込んだりできなくなってしまう。

しかし、いくらネットの世界でもルールやマナーがあるのだから、一定程度の気を使いながら利用するのは当然か。

マナーと言えば、最近は常識にも変化が起こっているようなので、自分のようなオッサンは特に気をつけなければならないだろう。

少し前に話題となったのは『電話野郎』。

スマホ、LINE世代からすると、携帯電話にいきなり電話してくるのは迷惑千万な行為なのだそうだ。

まずは LINEかメールにて電話しても良いか確認し、了解を得てから電話すべきなのだとか。

・・・。

何のための携帯電話なのだろう。

いつでも、外出中でも電話を受けられるという利便性から生まれたのが携帯電話であり、それが進化したのがスマホな訳で、その根本は携帯性を実現した電話であることに変わりはない。

いつでもどこでも電話できることを前提としているのであれば、なぜ電話して良いかとお伺いを立てなければならないのか。

「ふざけたことをぬかすなっ!」
と、怒鳴ってやりたいオッサンではあるが、それが新常識、現代のマナーなのであれば仕方がない。

ここは素直に従い、若者に電話する時は先に LINEで問い合わせることにしようと思う。

いや、若者に電話することなどないと思われるが・・・。

駄文

かなり以前の雑感にも書いたように、毎日のように独り言を更新したり週に一度はこの雑感を更新したりしているが、実のところは作文は苦手だったりする。

良く書こう、面白く書かなければという意識が強すぎ、結果的に何を書いたら良いのか、どう書けば良いのか分からなくなってしまう。

したがって、小学生から始まった学生時代に一度たりとも文章に関して褒められたことも、優秀な成績を収めたこともない。

今日現在、こうして駄文を垂れ流したりできているのは、開き直りによるところが圧倒的に大きく、良い文章を書こうとか面白い文章を書こうなどという意識を持たず、恥をかくつもりで書きなぐるようにしているからだろう。

細かなことを気にしていては何も書けないし何も伝えられない。

かと言って、文章で何かを伝えたいという意識もないので、そもそもそのことを気にする必要などないというのが現状だ。

読書感想文も同じで、子供のことから作文以上に超苦手なものの一つだった。

この年齢になって読書感想文を書くことなどないが、どっぷりと浸かっている海外ドラマの感想などを書くことはある。

ところが、必要に応じてドラマの粗筋なども記載しようとすると、それがうまくまとめられない。

頭では起承転結を理解しているつもりなのだが、文章化しようとすると時系列がどうなっていたのか、ドラマの中の彼は何を思い、彼女はどう考えていたのかなどさっぱり思い出せないのである。

他人のブログを見たりすると、ドラマの内容、感想が良くまとめられているものが多いので感心してしまう。

自分には文才もなければ物語を正確に理解する能力もないのだと、つくづく情けなくなったりしていたのだが、ある人のブロクを読んでいて才能ではなく努力が必要なのだと分かった。

その人は我が家でも大好きな海外ドラマを一話ごとにまとめているのだが、粗筋を書き、登場人物の心情を分析し、それらについての感想も上手に書いているそのブログを運営するために相当な時間と労力を要しているらしい。

ドラマのストーリーの中には少し難解なものもあり、そんな話も見事にまとめているのは才能だと思っていたのだが、実はブログに文章としてまとめるため、メモをとったりしながら何度も見直し、自分なりに解釈できるまでそれを繰り返しているのだそうだ。

とてもじゃないけどそんなことはできない。

いや、大好きなドラマであれば不可能ではないかもしれないが、それを時間が許してくれないだろう。

時間が許せば何度だって見たいし、自分なりに理解し、解釈できるまで繰り返してみたい。

しかし、仕事だってしなければならないのでそれは無理な話である。

いや、いっその事、それを職業にしてしまえば思う存分、誰に遠慮することなく大好きな海外ドラマを見られるではないか。

いやいや、物書きとなるには努力だけではなく、やはり才能も必要だ。

さらに言えば、自分の好きな作品だけ見ることを努力などといえるはずがない。

やはりこの件に関しては趣味にとどめ、これからも駄文を垂れ流すしかないのであろう。

反復

可能な限り面倒な反復作業は避けたく、同じことを何度も繰り返すのであれば何とか自動化できないかと考え、それが実現して楽できるのであれば努力と手間を惜しまない性分であるということは以前の雑感にも書いた通りだ。

しかし、好きなものであれば、それを何度繰り返しても苦にならない。

絵の勉強をしていた頃、毎日かかさず特定の絵を描いていた。

どんなに夜遅くに帰宅しようと、どんなに酒を呑んでいようと、どんなに風邪をひいて熱があろうと、必ず 1枚の絵を描いてからでなければ眠りにつかない。

それも、描くのはいつも同じ絵で、同じ人物の同じ角度から見た同じ顔だ。

目的はその人物を描くことではなく筆使いだったり筆圧だったりを体に刻み込むための、いわば訓練のようなものであり、いつも同じものを描く必要はないのだが、違うものを描こうとすると想像力を豊かにせねばならず、色々と考えたりしているうちに創作意欲に火が付いて眠れなくなってしまう危険性があるため、あえて毎日同じものを描いていたのである。

それでも今から考えると、よくもまあ、飽きずにそんな生活を 4年間も続けたものだと我ながら感心してしまう。

面白いと思った映画は最低でも2回、多いものだと10回近く観ているし、面白いと思ったドラマも何度も繰り返し見ることが多い。

これに関しては自分だけではなく、『お買い物日記』 担当者も同じなので実に助かる。

一人だけがそういう性分で、何度も同じものが観たいのに嫌がられるとか、我慢して相手に付き合わなければならないのであればストレスとなってしまうが、互いに観たいと思っているのだから平和が乱されることはない。

今はあまりやらなくなってしまったが、一度クリアしたゲームを最初から何度でも繰り返しプレイすることも多かった。

それはアクションゲームでもシューティングゲーム、ロールプレイングゲーム(RPG)でも同じで、とくに RPGなどはストーリーも結末も分かっているのに、なぜ繰り返しプレイしなければならないのかと自分でも疑問に思いつつやっていたような気がする。

そして、なぜなのかという疑問に対する答えは今でも見つかっていない。

好きなマンガも何度も読み返し、あまりにも読みすぎてページがボロボロになったら買い直してまで何度も何度も読んでいた。

結果、16巻くらいのコミックの中の、どのシーンであっても絵が頭に浮かぶようになったし、台詞(せりふ)もほとんど暗記してしまったので、どこか一部の台詞を聞けば、そこから続く台詞をスラスラと言えるようになって友だちから驚かれたりしたこともある。

今も好きな作家の小説などを繰り返し何度も読んでいる。

大阪から引っ越してくる際に本を 500冊以上もリサイクル店に売ってしまったため、今手元にある数が少ないという理由もあるが、現存する本はすべて 3回以上、多いものだと 2-30回は繰り返し読んでいる。

もうストーリーも分かっているし、台詞の一部は記憶してしまっているのだが、読むたびにハラハラ・ドキドキしたりしているので、めでたい性格だと自分に呆れたりしないでもない。

違う作家の違う作品を読んだほうが見識も知識にも広がりがあるのではないかと思わないでもないが、ある程度の時間が経過すると、どうしてもまた読みたくなってしまう。

そして今夜もまた、枕元に置いてあるすでに 5回以上は読んでいる本に再び目を通しながら眠りにつくのである。

強迫性障害(OCD)

強迫性障害をざっくり言うと、自分の意に反してマイナスイメージが頭に浮かび、それを払拭するために同じ行動を繰り返してしまう病気だ。

今回は、具体例を挙げながら、果たしは自分はどうだろうかと考えてみることにした。

というのも、強迫性障害というほどではないが、こだわりは強い方だと自覚しているからである。

普段は何がどこにあろうと気にしないが、整理し始めると細部まで気になってしまう。

例えば本であれば、普段は乱雑に積み上げていようと斜めになっていようと気にもならないが、いざ整理を始めると作家順、発売順に並べたくなるし、本の高さも気になり背の低い順とかにしたくなってくる。

何かを並べる場合もミリ単位で平行なり垂直なりに並べたくなってしまう。

あくまでも、それはやり始めればということであって、普段はどうなっていようと気にしないところが強迫性障害との違いだと思われる。

普段の生活で強迫性障害なみにこだわりが強く出てしまうと家族などに迷惑をかけるが、仕事だとむしろ評価される場合もある。

Webサイトのデザインをする場合も、例えば四角い枠があった場合、1ピクセル(ドット)単位のズレも許せず、縦横がピタリと合うまで調整を続けてしまう。

しかしそれは、仕上がりが美しくなるためむしろ喜ばれることなので、プラスに作用している具体例だろう。

さて、強迫性障害における強迫観念と脅迫行為の具体例だが、それは以下のようなものなのだそうだ。

■ 汚染に関するもの ■

電車の吊革に触ることができない、公衆トイレの便座に座れない、または接触した後、菌やウイルスなどに汚染されるような不安に襲われ、何度も手を洗ったり、何時間も風呂に入ったりしてしまう。

これに関しては平気だ。

吊革にも平気で触れるし、公衆トイレなどは、たとえ便座クリーナーなどが設置されていたとしても、いちいち面倒なのでそんなものは使用せずにどっかと腰を落ち着けられる。

■ 安全確認に関するもの ■

外出の際、ドアに鍵をかけたか、窓は閉めたか、ストーブやガスコンロの火を消し忘れていないかなどと不安になり、何度も家に戻って戸締まりや火の元を確認してしまう。

これに関しては年に何度かは気になって引き返し、玄関の戸締まりを確認することがないではないが、毎回ということもないし、それを何度も繰り返すということもないので病的ではないだろう。

■ 他傷行為への疑念に関するもの ■

車の運転中に何かを踏んだりした場合、人をひいたのではないかという不安に襲われ、その場所に戻って確認せずにはいられない。その他、自分の行為が誤って人を傷つけてはいないか不安にさいなまれる。

これに関しても自分には病的症状はないだろう。

そもそも車の運転をしないので人をひくこともないし、人に不信感や不快感を与えてしまわないよう、一般常識的な気遣いくらいはするが、それ以上のことはないし、いちいち人を傷つけていないかなどと考えることもない。

■ 順序や数字などに関するもの ■

衣服を着る際、必ず決められた順序でなければいけないと考えてしまい、順番を間違うと最初からやり直すなどして 1つの行為に長い時間を費やす。

特定の数字を不吉と感じ、あらゆる行為の際にその数字を避けようとする。

左右対称でないといけないといった、ものの配置などに強くこだわるケースもある。

これに関しては若干の心当たりがある。

これは日本人ならだれでも少なからず思い当たるふしがあると思われるが、『4』という数字はちょっと敬遠してしまう。

たとえば何かを食べる際、3個とか 5個なら良いが 4個はちょっと気分がよろしくない。

ブログの更新をする際、時間が 04分だったり 42(しに)分だったりすると、投稿するのを少し待って 05分や 43分になってからボタンをクリックしたりする。

しかし、時間を見るのを忘れていて投稿時間が 04分や 42分になってしまったら、それを削除してやり直そうというほどではない。

左右対称などにこだわるのは冒頭に書いた通りであり、かなり強くこだわる傾向にあるのは自覚している。

■ その他 ■

不要になったものでも、いつかまた使うのではないかという思い込みから捨てられず、家の中が不要なもので埋め尽くされる。

これに関してはまったく当てはまらず、超ドライなショウコの血を完璧に受け継いだものと思われ、『お買い物日記』 担当者がオロオロするほど物には執着も頓着もせずにバンバン捨てることができる。

むしろ、これに当てはまりそうなのは 『お買い物日記』 担当者だ。

もちろん、家の中が埋め尽くされるようなことはないが、自分から見るともう何年も使っていないのだから持っていても仕方がないだろうと思うものも、『いざという時のため』 に捨てずにいることが多い。

その 『いざ』 がいつになったら来るのかは、まったくの不明なのだが・・・。