大阪府摂津市JR千里丘駅周辺密着情報!!

末期

いよいよ安倍政権が末期症状を迎えているようだ。

安倍晋三氏が2006年9月20日~2007年9月26日まで総理大臣を務めた際の末期と、ここ最近の政局というか自民党内のゴタゴタが酷似しているように思えてならない。

前回の時も末期には閣僚の失言、スキャンダルが次から次に噴出し、支持率の低下に歯止めがかからず必死に閣僚を交代させたり内閣改造に打って出たりしてみたものの、第一次安倍改造内閣は 31日の短命に終わった。

あの頃のドタバタ、あの頃の慌ただしさと現在の症状は極めて似ており、そしてあの頃と同様に自民党内部に安倍おろし的な動きが散見される。

日本の政治家は海外の政治家と違ってお飾り的要素が強く、実際は誰がなっても日本の未来が大きく変わる訳でも世界的な影響力、立場にも影響が及ぶことはない。

それは日本人が優秀で真面目なこともあり、政治が腐っていても民間は自立して生活を営み、海外との交渉もできるという点と、官僚組織が極めて優れているからだと思われる。

今の日本、政治家がいなくても官僚さえいれば経済も潤滑に回るし、真面目な国民性ゆえに動乱が起こるとも考えにくい。

したがって、日本人の意識には選挙で誰が当選しても、どこの党が与党になろうと野党になろうと一緒という思いが強いため、政治に興味がなく選挙の投票率も上がらないのだと思う。

今のままではいけないと、たまに奮起して民主党(現民進党)を選挙で勝たせてやれば、外交から何からボロボロにしてくれたという苦い経験があるため、自民党以外の選択肢がないことも投票率が伸びない要因かも知れない。

安倍政権はすでに末期であり、断末魔の悲鳴を上げているように見えるので、内閣改造をしたところで長くは持たないだろう。

そうなれば総選挙があるかもしれないが、自民党以外に政治を任せられそうな党は見当たらない。

また低投票率で、いつもの通りの結果に終わるのか。

いや、小池百合子氏が何らかの動きを見せ、大胆な政界再編でもあれば話しは変わるかもしれないが。

北朝鮮もそろそろ末期的症状になってきているように思う。

無茶をせずに大人しくしていれば、世界から批判されようと現状維持が可能かもしれないのに、なぜ死に急ぐような挑発行為を繰り返すのか。

たとえ北が先制攻撃しようと、逆に他国から制裁的意味を含めた攻撃を受けようと、どちらにしても国が滅亡の淵に立たされることになるのは間違いない。

自分で自分の首を絞めるような、自滅一直線な行為をなぜ繰り返すのか理解困難だ。

そういう判断すらできないほど病が進んでいるのかも知れないが。

地球そのものも末期に近づいているような気がする。

ここ数年で劇的に環境が変化し、地球滅亡の日が加速度的に近づいているように思えてならない。

いくら農業技術が発達、進化したとは言え、熱帯地方が原産のマンゴーが北海道で採れるなどというのは異常なことだし、今まで生息していた魚が姿を消して南の海の魚が豊漁になるのも決して正常なことではないだろう。

自分の場合、もう 10年以上前から地球が危機的状況だと言っているので、ほとんどオオカミ少年と化してしまい、何の説得力もないかもしれないが、災害の規模の大きさだけを見ても異常だというのが分かる。

九州地方では、過去最大規模の雨量、記録的豪雨というのが毎年繰り返されているので、年々悪化の一途を辿っているのは間違いない。

北海道も過去最高気温を更新し続けている地方があるし、数年前まで一般家庭に必要のなかったエアコンが品薄状態になるほど売れている。

世界最大の二酸化炭素排出国であるアメリカが、地球温暖化対策の推進を目指した国際枠組みであるパリ協定から離脱するなど、地球を救おうという足並みが揃わない。

省益、庁益ばかり優先する官僚が動かしている日本に未来はなく、このまま少子高齢化が進んで人口がどんどん減り、地球滅亡の前に日本が滅亡している可能性も大きいし、アメリカ、中国、ロシアのパワーバランスが崩れて北朝鮮が暴走し、日本に数百の核が落ちてきて滅亡する可能性も否定できないので、温暖化が進んで百年後に地球がどうなっていようと関係ないのかもしれないが・・・。

誤用

どうも最近は間違った使われ方をしている言葉が多い。

それは俗にいう若者言葉とか、そういうレベルのものではなく、文章や言葉を商売にしているマスコミですら誤ったまま拡散させている。

北海道日本ハムファイターズの大谷翔平選手を二刀流と称するマスコミは多い。

投手としても、野手(打者)としても使うことができる選手であり、そのどちらも一流であるという意味で使っているのだろうが、そういう選手のことを正確には両刀使いというのではないだろうか。

両刀使いも二刀流も極めて類似した言葉ではあるが、両刀使いは侍が身につけていた主兵装(本差とも呼ばれる刀)でも、脇差し(小刀)のどちらも扱えるという意味であり、二刀流は両手に主兵装を持って戦う宮本武蔵が開いた剣術のことだ。

つまり、イメージ的には大谷選手が右手と左手にバットを持って打席に立てば、これぞまさしく二刀流ということになるだろう。

野球のルールにも打席に持ち込めるバットの長さ、太さなどに規定はあるものの、1本しか持ち込んではいけないなどという決まりはないので、ちょっと面白そうだし、このオールスター戦でネタ作り的にやって遊んでもらえないだろうか。

この二刀流に関しては両刀使いと微妙にしか違わないので完全なる誤用ではないが、つい先日の新聞記事は明らかな誤りだ。

『日本ハム大谷翔平が今季初登板で炎上』

これは7月12日の試合、オリックス戦で怪我からの復帰後、初先発となった大谷投手が 1回1/3で29球を投じ、2安打4失点となった事を報じた新聞記事の見出しである。

ネット関連で誰それのブログが炎上とか、問題発言でツイッター大炎上などという使い方をされるケースを多く目にするようなった昨今、どこかの新聞社のオッサンが正確な意味も知らないくせに、世の中の流れに乗ってみようと炎上の2文字を使ってみたのだろうが、そのタイトルは単に意味不明なものとなってしまっているところに中年の悲哀を感じてしまう。

年寄りが若者受けを狙ったり、迎合したりしてもろくなことにならないということを認識すべきだ。

会社などで若者言葉を使ってみたりする人がいるが、オッサンやオバハンの耳に届く頃には言葉自体が古くなっていることが多いため、若者の失笑をかうこと請け合いだし、使い方も微妙に間違っていることが多いため軽蔑されるのがオチである。

話をもとに戻せば、7月12日の大谷投手の登板で『炎上』的要素はひとつもない。

さらに言えば、見出しを炎上としているくせに記事には炎上の文字が一つもないのである。

そのタイトルを見せられたこちらとしては、久々の登板なのにボコスカ撃たれて大谷選手のブログかツイッターが炎上したのかと思いつつ記事を読んだのだが、炎上の炎の字すら見当たらない。

結局はちょっと炎上という言葉を使ってみたかっただけなのであろうし、その意味すら分かっていないのだろう。

ネット用語の炎上は、不祥事の発覚や失言などをきっかけに非難が殺到し、収拾が付かなくなっている事態または状況を差す。

この収拾がつかないほどというのが肝であり、単に非難されたり批判・誹謗・中傷を数十件や数百件くらい書き込まれる程度であれば炎上する手前であるため『ぼや(小火)』と呼ぶのが一般的だ。

今後、マスコミ関係者におかれましては十分に意味を理解した上でご使用いただければ幸いである。

かなり以前の雑感にも書いたような気がするが、日本においてリストラとは人員整理を指す。

会社をリストラされたと聞けば、人員整理で退職させられたのだろうと直感的に受け取ってしまう。

しかし、正確な意味のリストラ(リストラクチャリング(Restructuring)は、企業が不採算部門の整理、成長分野への進出など、業態の再構築をはかることであって、その一環として人員整理も含まれているのに過ぎない。

したがって、現在は成長分野へ進出すると前向きな意味でリストラとは言えない、言いづらいという実に妙な事になってしまっている。

たまに、どこを見ても面白い番組をやっていないので、チャンネルを通販番組に合わせてしまうことがあるのだが、そこで使われているカタカナは誤用が多いので笑ってしまうことが多い。

化粧品の通販で
「テクスチャーがきれい」
とか
「さらっとしたテクスチャー」
「とろみのあるテクスチャー」
などと言っているのをよく聞くが、それは化粧品のさわり心地やつけ心地、質感のことを言っているようだ。

本来は織物の表面の質感・手触りなどを指す概念であるし、コンピュータ用語でも3次元モデルの表面に質感を与えるための手法として用いられる。

手触り、質感という点でいえば、化粧品でテクスチャーと言っても大きな間違いではないかもしれないが、決して正確ではないことを自覚し、あまり多用するのは避けたほうが良いのではないだろうか。

もう一つ、同じ化粧品の通販で
「デコルテがきれいに見えるメイク法」
などと、鎖骨を浮き上がらせて見せるメイク術などというのを聞く。

しかしデコルテとは服飾において、襟を大きく開け、胸や肩、後背部をあらわにするデザインのことを指す。

つまり、ピンポイントで鎖骨のことではないし、人体の部位や部分を指す言葉でもない。

いつ誰が言い始め、それがどのように広まったのか分からないが、このままだと通販業界が訳の分からない言葉で埋め尽くされるのではないだろうか。

今でも通販では『落ち感』『くしゅ感』『きちんと感』などなど、オッサンにはついて行けない言葉が多用されているので、今さら手遅れなのかもしれないが・・・。

今週のトピックス 2017/07/08

書くことが何も思いつかないので、この一週間のできごとなどをつらつらと。

■ 07月02日(日)

となりの店マユちゃんの結婚式。

昨年9月、すでに兵庫県に嫁いで行ってしまっているが、いよいよこの日が来たかという感じ。

マユちゃんが高校生、彼氏が大学生の時からの付き合いで、若干の紆余曲折はあったものの、めでたくゴールイン。

隣は朝からドタバタとせわしなく、午後から全員が出かけてしまい、室内で飼われている犬がうらめしそうに窓から外を覗いていた。

今日で3日連続の夏日。

■ 07月03日(月)

マユちゃんと旦那さんの姿が。

昨日が結婚式だったと言うのに、札幌で一泊したり、新婚旅行に行ったりしなかったのか。

ずっと暑かったのに急激に気温が下がって今日の最高気温は 19℃。

寒暖の差に体がついていかない。

■ 07月04日(火)

朝から雨。

毎週火曜日は自転車で 10分弱のところにあるスーパーで買い物をするのだが、また雨が降り出しそうだったので徒歩 5分のスーパーで買い物。

夜になるとマユちゃんの部屋に明かりが。

まだ兵庫県には帰っていないらしい。

「赤ちゃんができて、つわりがひどく、このままお盆まで帰らないのかもしれない」
などと大胆予想する 『お買い物日記』 担当者。

■ 07月05日(水)

作り溜めていた CGの動画を YouTubeにアップロードし続けること 1年以上、ついに在庫がなくなったので一段落。

アップロード数 1,868件、よくもまあ作ったものだと我ながら感心する。

夜になってもマユちゃんの部屋の明かりが灯らない。

とうとう兵庫県に帰ってしまったようだ。

■ 07月06日(木)

毎週木曜日は我流の柔軟体操をする日と定めている。

肩こりのひどかった頃は毎日、その後何年間も週に二回のペースでやっていたのだが、今はひどい肩こりをしなくなった。

それもこれも長く体操を続けたおかげだろうか。

■ 07月07日(金)

午後から買い物に行ったり施設に行ったりとバタバタした週末。

それでも午前中と夕方以降は集中して作業できたので、お客さんのサイトのリニューアル作業が完了した。

着手してから実働約 10日間程度。

もう少し効率化を図り、作業時間を短縮したいところだが、今回は今までにない処理をプログラミングしたので色々と勉強にもなった。

■ 07月08日(土)

鼻がグシュグシュして目が覚めた。

気配を察して心配そうに 『お買い物日記』 担当者が見に来たが、時すでに遅し。

例によって鼻の奥がジンジンして鼻水が止まらない。

とても久しぶりのことなので、過去の記録を見てみると 2016/07/23に記述があるだけだ。

もしかして一年ぶりのことなのだろうか。

夏が来れば

夏がくれば思い出す、はるかな大阪とおい空♪

・・・。

ということで、北海道にもやっと夏が訪れた訳だが、この時期になると大阪での夏を思い出す。

あれから約 10年の時が流れ、それなりに年を積み重ねて体力も減退した今、もう一度大阪で暮らせと言われたら、パリッとしたスーツに身を包み、そこそこ値のはる手土産を持参しつつ丁寧にお断りするであろうことに疑いの余地はない。

もう無理である。

さすがにもう二度と大阪で暮らすことはできないと思う。

それは、ただ一点、夏の暑さに耐えられないということに尽きる。

人も食べ物も嫌いではないし、最初はひどかった水道水も劇的に改善されたので、暮らしていても暑さ以外に文句はない。

ただ、その暑さに関しては文句をいくら言っても言い足りないくらいだ。

長年住んだので、今でも全国の天気予報を見れば大阪のことが気になる。

そして、そろそろ真夏日という 30℃を超えた数字を頻繁に目にするようになった。

それを見ていていつも思う。

30℃だからって本当に 30℃の訳がない。

熱を中へ伝えにくくする良質の木材で製作され、放射熱をなるべく遮断できるよう白く塗り、芝生または地面の地上1.5メートルという、周りに邪魔するものがない風通しの良い場所に設置された百葉箱の中で計測された温度が気象庁の発表する気温である。

アスファルトとコンクリートに囲まれ、日本一緑が少ない町と言われる大阪の、いったいどこをどう探せばそんな好条件な立地があるのかと、大阪管区気象台の職員を正座させて問いただしたくなってしまう。

住んでいた当時も、そして今も、発表された気温に 3℃くらいプラスして丁度良いと思っている。

発表が 30℃の真夏日なら市内は 33℃、35℃の猛暑日なら 38℃といったところだ。

実際、部屋の空気を入れ替えようと窓でも開けようものなら、直射日光を浴びて焼けた外壁とベランダの床によって十分に暖められた熱風が入り込んでくることなど日常茶飯事だった。

この季節になればホームセンターで購入したスダレに様々な工夫をこらしてベランダを囲い、まるで虫かごの中のような暮らしをしていたものである。

今のように肌に触れると涼しく感じるような機能性繊維も開発されていなかったので、寝苦しさを解消するような寝具なども売っていなかった。

そこで、スノコを並べた上に布団を敷き、シーツの上にゴザを敷いて寝たりもしてみたが、暑いものはどうやっても暑く、冷凍庫でカチカチに凍らせたアイスノンに頭を乗せて寝てみても 1時間もしないうちに常温になってしまうという恐ろしい世界が大阪の夏だ。

今から思えば寝室にもエアコンを設置すれば良かったとは思うが、当時はそんなことを思いつきもせず、ただひたすら暑さに耐えていたのは、まだそれなりに体力もあったからだろう。

それでも朝方までには何とか眠りにつくのだが、起床した途端に暑い。

朝日が昇ればすでに暑いのも、最低気温が 25℃を下回らない熱帯夜が状態化しているのだから当たり前の話しだろう。

出勤のため家を出ると、すでに地面のアスファルトは十分に加熱されているし、湿気が多いので日陰を歩いても一向に涼しくない。

その横を車が通ればまた熱風に襲われるし、冷房が効いているはずの電車内も人が多すぎてオッサン同士のベタベタした肌が触れ合うだけだ。

よくもまあ、何年間も会社勤めをしたものだと、今から思えば当時の自分を褒め称えてやりたくなる。

北海道に帰ってきてから 2-3年間は、夏が楽で本当に嬉しかった。

冬の厳しさもあるが、室温は大阪の部屋と変わりないし、寒ければ厚着をすれば済む。

やはり夏が涼しいのが何よりで、いくら暑いと言っても朝晩は涼しく、熱帯夜を経験したのはこの10年で 1度か 2度しかない。

真夏でも最低気温が 10℃台ということが多いので、窓を開けて就寝したこともない。

昨年の夏はショウコの件で忙しかったこともあるにせよ、とうとう扇風機を出すことすらなかった。

それでも温暖化の影響なのか、北海道の夏もどんどん高温度化、高湿度化が進み、ジメジメと暑い日が多くなってきている。

多少の寝苦しさを覚える日も少しずつ増えてきているような気はするが、そんな時も
「大阪よりマシ、大阪のことを考えればまだ涼しい。」
と、呪文のように繰り返して乗り切ったりしている。

さて、今年の夏はどんな夏になることだろう。

元号(和暦)

現天皇陛下の退位が現実味を帯びてきた今、平成という元号から新しいものへと変わるのも確実となっている。

天皇が亡くなってからだと、カレンダー、手帳業界の印刷物をはじめ、銀行から各行政機関まで様々な書類にある 明・大・昭・平 を選ぶ欄に新元号を慌てて追加せねばならず、印刷業界関係者の睡眠時間が著しく短くなってしまい、その界隈での交通事故件数が跳ね上がる危険性があったりなかったりするかもしれないが、これが今の案にあるように 2019年元旦からと決まっていれば、少しは落ち着いて仕事ができるのではないだろうか。

そこでふと思ったのだが、元号が社名になっている会社は多い。

事実、大正製薬という会社名は、同社が1912年(大正元年)に創業したことに由来している。

明治製菓は元号の明治に由来するものではないらしいが、それでも明治が含まれており、昭和シェル石油となる前の昭和石油も元号の昭和からとったものだろう。

日本に星の数ほどある中小企業の中にも社名に大正、明治、昭和のつく会社は多いだろうし、正、明、昭など、一文字をもらって命名された社名に至っては数えるのに苦労するほど多いに違いない。

しかし、平成の名がつく大会社はない。

もしかすると自分が知らないだけで、ある業界では名の知れた会社が存在するのかもしれないが、少なくとも一般人であっても誰でも知っているような有名企業はないだろう。

平成といえば元年は西暦 1989年で、直後の 1991年にバブル景気が崩壊し、それから平成29年の現在までの 27年間は実感・実態のない程度の好景気しか訪れておらず、長いデフレ期が続いたままとなっている。

政府や日銀は数年前に脱デフレ宣言をしたが、実態としてデフレは終わっておらず、消費者マインドはインフレを拒絶したままの状態だ。

以前から何度も書いているが、デフレなどそう簡単に克服できるものではない。

それまで産業革命で繁栄を謳歌していたイギリスは景気後退が原因で、1870年代前半から1890年代半ばまで、およそ四半世紀に渡って物価の下落が続いた。

それより遥か昔のローマでは 50年間もデフレだったという史実もある。

そんなネガティブマインド状態の日本においては、平成由来の社名をつける気にもならないかもしれない。

すでに26年間もデフレ状態が続いていると仮定するならば、元号が変わるであろう 2019年で 28年目、東京オリンピックが開催される 2020で 29年となる。

30年も経てばデフレの終わりも見えてくるだろうし、オリンピック景気も手伝って日本にも光明が射すことだろう。

だとすれば、次の元号を社名にするケースもそこそこ多いのではないだろうか。

元号の決め方には色々と注意点があるらしく、主には以下の 4点なのだそうだ。

1. 漢字二文字
2. 書きやすい
3. 読みやすい
4. 俗用されていないもの

2 と 3 は子どもでも書けて読めるのが好ましいということだろうし、4 はありふれていないものということである。

それほど画数が多くなく、縁起の良い漢字二文字で構成しなければいけないのだから考えるほうも大変だ。

ウィキペディアに過去の元号一覧が掲載されているが、一文字かぶりはあるものの、同じ元号がないのがすごい。

経済の低迷が続き、好景気らしい好景気の経験もなく、デフレ脱却の意識もなく、世界情勢も不安定で日本の将来に希望が持てない今、次の元号は力強く明るく、そして威勢のよいものにして頂きたい。

『安』、『和』など安心感のある漢字、『永』、『久』などの将来性を感じる漢字、『栄』、『宝』など景気の良さそうな漢字を用いると良いのではないかと勝手に思ったりしているのだが、どうだろう。

ゆとり効果

『ゆとりでしょ? そう言うあなたは バブルでしょ?』
これは第一生命保険が毎年開催し、恒例となっているサラリーマン川柳で 1位となった作品だ。

ゆとり世代の人たちは、
「ゆとり世代だからなぁ」
とか、
「だからゆとり世代のやつらは・・・」
などと、何か失敗したり、同世代の人の行いが悪いと一緒くたにされて上の世代から小馬鹿にされ、忸怩たる思いをしたり、逆に反感を抱いたりしているケースが多いらしい。

バリバリの詰め込み教育を受けた世代にとっては多少のやっかみも覚えつつ、
「最近の若いものは・・・」
と言うのも年寄りっぽいので
「ゆとり世代は・・・」
などと言っているのではないかと思われる。

ゆとり世代とは、ざっくり 2002年度から2010年代初期までの学習指導要領に沿った教育を受けた世代のことで、1987年4月2日~2004年4月1日生まれの 13~30歳(2017年現在)を指す。

今は会社組織に所属していないので、それほど多くの若者と接する機会はないが、それでもお客さんの会社を訪問してその世代らしき人たちと会話することはある。

確かに常識的には考えられないような言葉遣いや態度で接してこられたりしないでもないが、自分も若い頃は十二分に非常識の跳ねっ返りだったこともあり、多少の腹立たしさを覚えつつも若いのだから仕方がないと、最終的には諦めにも近い割り切りをしてしまう。

これが先輩や上司だと、確かに若者の扱いはとても難しいに違いない。

あまり言葉を荒げて叱り飛ばせばパワハラだと言われかねず、心の折れやすい若者であれば出社拒否になったり精神を病んで訴訟沙汰になってはたまらないだろう。

また、最近は先輩や上司にも問題があって、若者ウケの良い、理解のある先輩とか上司でいようとするあまり、多少どころか相当なことにも目をつぶるなど、ろくに注意をしなかったり教育しない場合が多い。

これでは世の中どんどんおかしなことになっていってしまうのではないかと、老齢に向かってまっしぐらな自分としては日本の行く末を憂いたりしてしまう。

しかし、よく考えてみると、その世代の活躍が目覚ましいのも間違いのない事実だ。

ここ数日、世間の話題の中心となっているのは 14歳にしてプロ棋士となり、目下のところ 26連勝中と勢いが止まらない中学生、藤井聡太はバリバリのゆとり世代である。

次々に様々な記録を更新し、現在(2017/6)は世界大会優勝 53回というとんでもない成績をおさめている女子スキージャンプの高梨沙羅も 1996年生まれで超ゆとり世代だ。

数々の実績を示し、惜しくも引退してしまった女子フィギュアスケートの浅田真央(1990年生まれ)もゆとり世代。

現在の卓球界の立役者である福原愛(1988年生まれ)も、世界を相手に堂々と戦っている石川佳純(1993)、伊藤美誠(2000)、平野美宇(2000)などなどもゆとり世代。

男子卓球の水谷隼(1989)、丹羽孝希(1994)や、中学生にして活躍目覚ましい張本智和(2003)もバリバリのゆとり世代。

その他、萩野公介(1994)、入江陵介(1990)、瀬戸大也(1994)を始めとする水泳選手、陸上100mで 10秒を切りそうな桐生祥秀(1995)、ケンブリッジ飛鳥(1993)、最年少Jリーガーの久保建英(2001)もゆとり。

世界に伍して戦えるようになったのは、すべてゆとり世代の活躍以降というケースが多い。

学力低下が叫ばれ、学習指導要領は軌道修正されてしまったが、ゆとり教育が生み出した副産物も多かったのではないだろうか。

その学力低下も授業日数、時間が減ったことによる副作用と胆略的に考えられているが、実は詰め込み型の教育方法しか身に着けていなかった教える側が、楽しく効率的に学べる手法を導入することを怠り、従来通りの教育法で時間だけが短くなってしまった結果が、学力の低下として現れてしまっただけなのかもしれない。

せっかく長所を伸ばすことができてきたのに、昔ながらの教育になってしまうのは残念だ。

今はスポーツなどでの活躍が目立つゆとり世代だが、彼らが新ビジネスを構築し、世界に打って出て大成功するかもしれない。

もう何十年も登場していない日本の世界企業を創り上げる能力を秘めつつも、その発想力、想像力や創造力が詰め込み教育で失われないことを願う。

ここでもう一度、ゆとり教育とは何だったのか、その効果はどうだったのかを誰か検証してくれないだろうか。

世界共通語

先週は日本文化について書いたが、最近の海外ドラマを見ていると、かなり日本文化が世界に広まってきていることを実感する。

以前は登場人物の乗る車は韓国車、使うスマホも韓国製ばかり、ちょっと前だとドラマの中でテイクアウトの食事は中華ばかりが目立った。

まさに国力、勢いの差が如実に現れていて、バブル崩壊から日本経済は大きく失速して落ち込み、設備投資などを怠っているうちに財閥資本に物を言わせた韓国勢が巨額投資などで台頭し、LG、SAMSUNGなどに家電、電子製品の世界シェアを奪われ、30年近くが経過した今も広げられた差を埋めることができずにいる。

人件費が安価だというだけの理由で日本企業の多くが中国に進出し、技術の流出が懸念された際にも日本の高度技術に追いつくには最低でも20年、いや、30年はかかるなどと根拠のない自信を見せていたが、10年もしないうちに技術は真似されたり盗用されたりし、レベルはあっという間に埋められてしまい、経済力も中国が日本を抜いて世界第二位になってしまった。

アメリカでの存在感も韓国や中国は日本を抜き、その製品などが広く使われるようになったためドラマや映画などでも多く採用されることになったのだろう。

1990年代から2010年くらいまでのドラマでは日本の存在感があまりにも薄く、忸怩たる思いをしたりしていた。

ただし、それ以前のバブル経済絶頂期に日本企業は品のない買収劇を繰り返していたので、映画やドラマで描かれる日本は、どちらかと言えば小馬鹿にされたりしていて決して良い印象の扱いではなかったものだが。

ところが最近になって情勢は変わり、今はテイクアウトの定番も外食で選ばれるのも日本食、そして劇中に日本語が多く使われるようになってきた。

会話の中で
「ありがとう(arigato)」
が度々使われるが、それは日本人が軽くお礼言う際に
「サンキュー(thankyou)」
と言うのと同じようなノリで使っているのだろう。

それ以外にも
「おはようございます(ohayo gozaimasu)」
なども時々耳にするし、警察が容疑者のアジトに踏み込む際に
「こんにちは!(konnichiwa!)」
と叫んでいるシーンもあった。

ドラマで使われるということは、ちょっとアメリカで日本語が流行っているのかもしれない。

そう言えばメジャーリーグの中継を見ていてもたまに
「さよなら(sayonara)」
「すごーい(sugoi)」
などと実況の人が言うことがある。

自然災害の多い日本ゆえ、津波(tsunami)が世界共通語になったのは分かるし、第二次世界大戦で神風(kamikaze)が有名になったのも当然だろう。

その後、日本といえば、すき焼き(sukiyaki)、てんぷら(tempra)、芸者(geisya)、富士山(fujiyama)というのが最も有名だった。

映画などで昔から侍(samurai)、忍者(ninja)は有名だったし、日本発祥のカラオケ(karaoke)はアメリカのみならず世界で通用する単語だ。

最近になると、かわいい(kawaii)、漫画(manga)などの若者文化が世界中に広まり、それに引きずられてオタク(otaku)もメジャーな世界共通語になりつつある。

携帯電話で使われる絵文字(emoji)も世界で通用するし、いかにも日本らしい折り紙(origami)や盆栽(bonsai)も広く知られるところとなった。

トヨタ生産方式の改善(kaizen)は世界のビジネス用語として定着しているし、省資源国ゆえの節約志向が根付いていた頃のもったいない(mottainai)も多くの国で使われている。

最近の日本食ブームで豆腐(tofu)、味噌(miso)、寿司(sushi)、刺身(sashimi)、テリヤキ(teriyaki)なども有名になったし、日本独特の文化とかわいい文化、手先の器用さが融合したキャラ弁の写真が世界に拡散して弁当(bento)も共通語になりつつあるようだ。

それどころか日本発祥ではないパン粉(panko)、ラーメン(ramen)も、日本語として広がりを見せている。

最近になって世界共通語となったものは、総じて明るいというかポジティブな印象のものが多いが、それは世界が日本の価値観や文化を認め、日本の良いところを見てくれているからではないだろうか。

そう言えば海外ドラマで中国マフィアや韓国の犯罪組織が登場したり、密輸先として中国や韓国の名がでることは多いが、悪い意味で日本が登場するケースは極めて少ない。

ジャパンマフィアは閉鎖的で海外進出していないのも一因かも知れないが、日本人は正直でクリーンなイメージがあるのも事実なのだろう。

せっかくアメリカが、そして世界がそういう目で見てくれているのだから、汚職(osyoku)だの、いじめ(ijime)などなどのネガティブ・イメージな言葉が世界共通語になってしまわないことを願うばかりである。

文化

訪日外国人客数が右肩上がりに延び続けている。

日本には世界に誇れるような絶景など数知れているので、来日する外国人の興味は日本文化にあるのだろう。

そして、今でも少なからず日本らしい文化というか風景が残っているのは京都くらいなものなので、観光地として圧倒的な人気があるのもうなずける。

風情のある建物に舞妓さんの着物姿、京料理に神社仏閣とそろえば日本文化を堪能するのに十分だろう。

着物など海外の人から見たら独特な衣装であり、珍しいのだろうが同じ日本人でも着物を着る人は珍しくなった。

そもそも、どうして必死になって覚えなければ自分で着られないような衣類が文化として根付いたのだろう。

どこの国だって大昔の移動手段は馬を代表とする動物によるものが定番だ。

ラクダに乗るにしても馬に乗るにしても、背中にまたがるのだから両足が開く方が都合が良い。

だとすれば必然的に衣類も股を開きやすいズボン的なものになって当然だと思うのだが、日本の場合は男女とも両足の動きが制限される着物になったのが不思議でならない。

そして、どこの国の人がどう見たってヘンテコなチョンマゲ文化はどうして日本に根づいていたのか。

世界的に見ても全員が同じヘアスタイルをしている国など類を見ないと思われる。

男はチョンマゲ、女は日本髪。

よほど髪が薄くなって髪が結えなくなる以外、例外なく同じなのだから驚いてしまう。

それは着物を着るのが大変なのと同様で、自分一人では髪を整えるのが極めて困難だ。

ちょっとした乱れを整えるくらいはできるだろうが、最初から自分の髪を一人でチョンマゲにしたり日本髪に結い上げることなどできないのではないだろうか。

なぜそんな面倒な髪型になり、なぜそれが面倒すぎるからと単なるロングヘアや短髪にする人がいなかったのかが解せない。

没個性、右へならえ精神は、それよりも遥か昔の太古の時代から脈々と流れる日本人の DNAなのか。

日本の食文化で生魚を食べるのは島国で海産資源が豊富なのだから理解できる。

むしろそれが自然だったのだろうが、他国から見ると火を通さずに食べるなど異様だったことだろう。

釣り上げた魚を単にさばいて食べるだけという簡単な調理法もあるが、一手間、二手間、いや、いったいどれだけの工程があるのか分からないほど複雑な製法で作り出されるものもあるのだから日本の食文化は奥が深い。

グツグツ煮ればできるソースやケチャップとは異なり、何か月もかけてやっとできる醤油や味噌、かつお節などの深い味わいは日本独特のものであり、甘味、苦味、酸味、塩味に加えて第5の味覚と世界が認めた『旨味』は日本発のものである。

日本人として誇れるものは多くはないが、その食文化、『和食』は誇っても良いのではないだろうか。

うどんや蕎麦は、水が豊富だからこそ生まれた食文化だろう。

水がとても貴重で、何キロも歩いて水源から運んでくるような土地では、一滴たりとも水を無駄にできない。

そのような環境で暮らす人が麺を打つ際にも水を必要とし、茹でる際にも大量の水を使い、茹で上がった麺を流水でじゃぶじゃぶ洗い、たっぷりのだし汁で食べる料理など作れないどころか、発想することすらできないだろう。

その土地だからこそ可能なことがあり、その土地だからこそ生まれる文化はある。

ただし、冒頭に書いたように着物と日本髪がなぜ生まれたのかに関しては、やはり納得できないが・・・。

飽き

歳のせいなのか、最近は何事にも飽きが来るのが早いような気がしてならない。

子供の頃は、よく飽きないものだと親から呆れられるくらい同じことを繰り返したり、同じもので遊んだりしていたし、先月の雑感に書いたように同じことを何度繰り返しても苦にならなかった。

今でも同じ本を何度も読んだり好きなドラマを繰り返し見るのは同じだが、ことゲームに関しては以前ほどのめり込まなくなったし、一度クリアしたゲームを最初からやり直すことなどない。

そもそも最後までやる前に飽きてしまい、途中で止めてしまうことが多くなってきたのである。

クリアするのが難しくて挫折してしまうのではなく、途中で興味が薄れて続ける気が失せてしまう。

これは先に進みたいという好奇心というか、向上心みたいな部分が欠落してしまったのだろうか。

だとすれば少し問題だが、飽きてしまうのはゲームだけではない。

世の中の関心が向いている話題も、すぐに飽きてしまう。

たとえば森友学園問題。

最初は超個性的なオッサンとその妻、娘や長男のキャラが面白かったことと、安倍首相婦人である昭恵氏の関わりがどうなっているのかなど、報道内容を興味深く見ていた。

しかし、報道が加熱してヒートアップし、世の中の関心が集まってボルテージが最高潮に達する前に飽きてしまい、ニュースがその話題になると鬱陶しくてチャンネルを変えてしまう。

最近になって急浮上してきた加計学園問題も同様で、すでに飽きてしまっている。

「官邸の最高レベル」「総理のご意向」などと記された文章は本当に存在するのかというところで興味はピークアウトしてしまい、25日に行われた元文科次官である前川氏の記者会見の内容などどうでも良く、見る気にさえならなかった。

天下り問題で辞職に追い込まれた前川氏の報復で単なる作り話なのか、それとも窮鼠猫を噛むの例え通り事実をもっての逆襲なのか、これからの生活を考えて暴露本でも売って儲けようとするイタチの最後っ屁なのかはさておき、私怨が見え隠れしてくると「勝手にどうぞ」という意識が強くなって興味の対象外となってしまう。

その点、飽きさせずに程良い感じで話題を提供してくれるが北朝鮮だ。

連日連夜の報道だと頭のおかしな奴のことなどどうでも良いという気になってしまうが、ミサイルを撃って世間の注目を浴びたと思えばしばしのインターバルがあり、核実験したかと思えば少し間を置き、今度は水爆の実験に成功したと言い出し、また間を置いて弾道ミサイルを発射してみたりと、飽きない程度の間隔で興味を引かせるその手法は天下一品であり、ある意味では天才的だとも言えるのではないだろうか。

世界各国も、中国、韓国、そして肝心のアメリカも忘れたくても忘れられない、かと言って一気に事を進めるほどの事態にもならないという、絶妙なバランスでブレンドされた挑発行動なので対応に苦慮するのだろう。

飽きる飽きないの話に戻れば、海外ドラマも途中で飽きてしまって見るのを止めるものが多くなってきた。

以前であれば、最初は面白かったのにだんだんつまらなくなってきたなどと感じながらも、一応は最後まで見たりしていたものだが、最近は物語の途中であっても見るのを中止してしまう。

これまで 250作品ほど見てきているが、最終シーズンの最終話まで見たのは 50作品ほどではないだろうか。

そして、そのうち何度も繰り返して見たくなるのは僅か 3作品程度である。

色々と飽きっぽくなってきたような気がしているが、食べ物に関してそれはないようだ。

もう何年も毎日食べ続けている食品や食材が我が家には 10種類近くあるのだが、そのどれもに飽きを感じたことはない。

いつまでも、そして今でも美味しく食べることができている。

つまりは根本が変わったのではなく、好き嫌いがハッキリしてきて興味の薄いものは飽きるのも早くなってきたということなのだろうか。

この歳になって好き嫌を自覚するなど遅すぎるような気がしないでもないが・・・。

春爛漫

北海道は初夏の一歩手前、春真っ盛りとなっている。

毎年のことではあるが、梅も桜もチューリップもスイセンにスズラン、ライラックなどなど、ありとあらゆる花が咲き乱れており、雪と樹木のモノトーンの世界から一気に原色まぶしいカラフルな世界へと変貌を遂げた。

そうなれば北海道民もウキウキし、野へ山へと繰り出して行く。

出不精を絵に描いたような自堕落的な生活を送っている我が家も、この時期だけは積極的に外に出て春の陽射しを堪能する。

この時期にはいつも独り言にも書いているように、桜の樹の下で昼ごはんを食べるのが毎年の恒例行事だ。

桜の時期は短いので、雨さえ降らなければ毎日でも出かけようと思っているが、少し前のソメイヨシノの時期は天候に恵まれず、せっかく満開になったと思ったら暴風雨となってしまい、あっという間に桜は散ってしまった。

今は八重桜が見頃を迎えている。

まだ満開にはなっておらず、おまけに八重桜は花の寿命が長いのでまだまだ楽しめそうだし、天気も大きく崩れることはなさそうなので花を見ながらの昼食は何回くらいできるだろう。

実は今日の昼も桜の樹の下で食べてきた。

北海道の5月にしては暑いくらいの気温だが、木陰は涼しく実に気持ちが良い。

陽の光を全身で浴びると体の芯からポカポカしてきて思わず眠りそうになってしまう。

そんな楽しい思いをしてきたところなので、パソコンに向かってカタカタとキーボードを打つ気分ではない。

そう、今回の雑感は気乗りしないし書くのが面倒だということを訴えたいのである。

なぜ、こんなに気持ちのよい日にグダグダと駄文を書き殴らなければならないのか。

いや、誰に強要されている訳でもなく、誰かが毎週の更新を楽しみに待っている訳でもないので、書きたくなければやめたら良いだけの話ではあるのだが・・・

話は戻って桜のことになるが、若かりし頃は毎年のこの時期を心待ちにするほどではなかった。

なぜ人は年齢を重ねるごとに咲く桜に感動し、散りゆく桜に悲哀を感じるのか。

「それは、生きている間にあと何回くらい桜を見られるかと想うからだ」
とは、義兄の言葉である。

確かにそうかもしれない。

これから先、あとどれくらい桜の咲く時期を迎えることができるだろう。

日本人の平均寿命はどんどん延びて人生100年時代となりつつある。

だとすれば、今まで見てきたのと同じくらいの回数は見ることができるかもしれない。

そうだとしても、子供の頃や若い頃は今と異なり、そんなことは考えもしなかったが、そろそろ人生の終わりを意識する年齢になってきているのは確かだ。

ただし、自分の場合はそれで考えを新たにしたり、立ち振舞を改めたりすることはなく、せっかくだから桜の時期を思い切り楽しんでおこうと思ったりする、不届き者だったりするのであるが・・・。