時間

時間というのは地球の自転から割り出されたものであって数学のように全宇宙共通のものではなく、26時間かけて自転する星であれば 1日は 26時間となるし、18時間で一周すれば 1日は 18時間だ。

いや、単に地球と時間の流れが異なるだけで、どんなに自転が遅かろうと早かろうと、一周する間隔を 24で割れば 24時間ということになり、1時間を 60で割れば 1分、また 60で割れば 1秒となるか。

この星と、あの星では 1秒の長さが異なるだけのこと。

つまり、物理的なようであっても実は論理的な事象でしかないのが時間という概念であり、それを受け止めるのが人間のあやふやな感覚であるから時は長くも短くも感じるのだろう。

子供の頃は長く感じた時間も、加齢とともに短く感じるようになるジャネーの法則に関しては以前の雑感にも書いたが、それだけでなく精神状態の有り様によっても時間の流れは変わってくる。

楽しいことをしていると、時間などあっという間に過ぎてしまうが、肉体的、精神的苦痛を伴う場合は時間の経過が遅く感じる。

心に深い傷を負ったり精神が病んだりすると、辛く苦しい状態が未来永劫に続いてしまうような、このまま自分だけが時の流れに置いて行かれてしまうような不安にかられるほど時間が重くゆっくりと流れたりするものだ。

ここのところ、毎日、毎週、毎月がビックリするようなスピードで過ぎ去り、気づけば一年の折り返し地点を過ぎてしまっているような有様で、このままではビックリする間もなく爺さんになってしまっているのではないかと心配にすらなってしまう。

この時の流れの早さに閉口し、『お買い物日記』 担当者と二人でニコニコ笑って過ごすだけでなく、たまには苦悩に満ちた日々でも過ごさなければいけないのではないだろうかと真剣に話し合ったほどだ。

そして、時間というものは環境によっても流れが変わって感じるもので、ハワイや沖縄などのリゾート地に行くと、時間がゆっくり流れているように感じる人も多いだろう。

実際、大阪で流れていた時間と北海道で流れている時間は 2倍以上の差があるように思える。

日本一歩くのが早い大阪人の歩行速度になど到底およばず、ゆっくり歩く人が多いのは言うまでもなく、車が一台も通行していなくても赤信号では立ち止まって青に変わるのを待つ。

帰ってきた当初は思わず渡ってしまいそうになることもあったが、今は信号無視をすることもなくなり、目の前で信号が赤になてもボ~っと待っていられるし、待つのに何の苦痛も感じなくなった。

信号のない道路を渡ろうとすると自動車のほうが止まってくれる。

時々、あまりにも遠くから速度を落として交差点を渡るのを待っていてくれたり、自転車に乗っている自分が通り過ぎるのを待っていてくれたりするものだからこちらも気を使わねばならず、急いで横断するハメになる。

それは、先に述べた信号待ちが苦にならないのと同じように、ドライバーも歩行者が通りすぎるのを待つのが苦にならないのだろう。

それだけ心に、体内時計の刻む流れに余裕がある。

すっかり北海道の時間の流れに慣れてしまったが、いまだに慣れることができないのは約束の時間だ。

仕事関係であればなおさら、訪問の時間を告げた場合は早くて 5分前、遅くても定刻には相手先に到着していなければならないというのは社会人としてのルールだと教えられてきた。

ところが、こちらでアポを取って定刻に訪ねると、相手が慌ててスーツに袖を通しながら現れることが多い。

打ち合わせ場所に、5分や 10分くらい遅れて現れるのはザラである。

どうやら都会とは違う時間が流れているらしいと感じたり 『お買い物日記』 担当者と話したりしてはいたが、少し前の雑感に書いた屋根の修繕工事でそれは決定的となった。

工事自体は 3-4日で終わったのだが、それが始まるまでの見積りやら準備やらで一カ月以上も経過したし、工事が終わったのは6/26なのに、今日になってやっと最終点検しに来て工事の完了を告げて行った。

実にのんびりしたものである。

そして、今朝、最終点検に来るとの連絡があり、15分くらいで到着するとのことだったのに、業者さんが現れたのは 30分以上も経過してからだった。

それをネタに雑感を書こうとしただけなのに、こんなに長文になってしまったのは、やっぱり時間がたっぷりあるからだろうか?