カタカナ表記

日本で使われる文字は実に豊富だ。

ひらがな、漢字、カタカナ、英語(English)、アラビア数字(1,2,3,4)、ローマ数字(I,II,III,VI)、漢数字(一,二,三,四)などが紙面にあふれているので外国の人はとても驚くらしい。

最近では、それに加えて顔文字 (^o^) なども使われるようになって文章による感情表現までもが可能になってきており、それらから派生した絵文字や LINEのスタンプなどは海外でも人気を博しているという。

とても便利な日本の文字文化ではあるが、豊かすぎるゆえにデメリットもある。

その最たるものがカタカナ表記で、それがあるがために日本人は英語が苦手なのではないかと思えてならない。

人名であろうと品名であろうとなんでもカタカナにしてしまう。

それを超日本的発音で読むのだから本物の英語など身につくはずがない。

また、そのカタカナでさえ時によって変化する。

映画 『ダイ・ハード』 シリーズで一躍ハリウッド・スターになったブルース・ウィリスも、最初はブルース・ウィルスと紹介されていたし、すでに死亡した世界的テロリストのウサーマ・ビン・ラーディンも、オサマ、ウサマに始まってビンラディン、ビン・ラディンなどまちまちだった。

何らかの賞を与えるアワード(Award)もアウォード、アウォーズなどの表記があり、一向に統一される気配がない。

元々の言語、英語の発音にどれが最も近いのか。

どれが近かろうと英語の発音とは絶対的に異なるのだから、そもそも外来語をカタカナ表記するのをやめてしまったらどうなのだろう。

そうすれば、否が応でも英語の発音を覚えなければならないのではないか。

しかし、ディーゼルをヂーゼル、ビルディングをビルヂングと表記していた時代から長い時間をかけて培われ、親しまれてきたカタカナを捨てることなどできないに違いない。

だとすれば、いつの日からかバイオリンをヴァイオリン、ボーカルをヴォーカル、バン・ヘイレンをヴァン・ヘイレンなどと表記するようになったように、新しい表記方法を開発して少しでもカタカナを英語の発音に近づける努力をすべきではないだろうか。

日本人が苦手な発音は 『R』 を含む英単語や 『TH』 で始まる英単語などがあるが、舌を巻いたり歯の裏側に舌を当てたりする発音など日本語にないのだから仕方がない。

しかし、それらを強制的に覚えさせるカタカナ表記があったならば・・・。

例えば木曜日のサースデー(Thursday)なんぞは TH で始まって R まで含まれるという日本人にとって難解極まりない発音を要求されるが、カタカナでサースデーなどと発音していては英語の発音など身につくはずがない。

歯の裏側に舌を当てる TH は、サとタの中間あたりなので表記のしようがないが、舌を巻く R 関連は何とかなりそうな気がする。

ヴァに使われている小さいアのように、ラリルレロを小さくするのはどうだろう。

そして、この小さいラリルレロは上あごに舌をつけずに発音する。

サースデー(thursday)ならばサースデー。

ドライブ・スルー(drive-through)ならドイブ・ス

泳ぎのクロール(crawl)ならクール。

アイスクリーム(ice cream)ならアイスクーム

クレーン(crane)車ならクーン車と書いたらどうだろう。

・・・。

こんな面倒なことをするくらいなら英語のまま表記したほうがマシか。

とにかく、カタカナなどという便利な表記法があるため日本人は英語の発音ができないのではないかということである。

中国語だって韓国語だってWebサイトを見ると英語は英語のまま表記されているし、日本でもとくにコンピューター用語などは英語表記のままだが、それ以外の名詞はなんでもかんでもカタカナになってしまっているのがいけないのではないかと言いたいのだが・・・。

やはり今さらカタカナを無くせないだろうし、本格的な英語教育も始まったので、こんなことは余計な心配だったりするのだろう。

ところで、かなり以前にも書いたような気がするが、髪を固めるジェル状のものはデップ(dep)であって決してディップではない。

というのも、デップと発音してクスクス笑われた経験があるからだ。

デジタル時計をディジタル時計とは言わない。

デスクトップ PCをディスクトップ PCとは言わない。

デパートをディパートとは言わない。

それと同じでデップはデップであって決してディップなどではないということを声高に宣言しつつ、なんだかよく分からなくなってしまった今週の雑感を終えようと思う。

土地柄人柄

この雑感を書き始めた頃、それは大阪での生活、その土地の人柄にもまだ完全には馴染めず、その圧倒的パワー、とくに女性、それも中年以上のオバちゃんには少なからず恐怖すら感じることが多かった。

関西のオバちゃんは無敵であり、誰もかなわないであろう、もしオバちゃんが戦場におもむいていたならば、第二次世界大戦も勝利していたに違いなく、今現在もしこりを残す沖縄米軍基地問題も存在しなかったに違いないとすら思っていたものだ。

それから数年が経過して土地の生活にも慣れると、マシンガントークを繰り広げ、せかせかと動き回っている関西のオバちゃんでさえ鈍臭く思えるようになってきた。

反射神経も鈍くなり、要領も悪くなって電車の券売機やレジの前でモタモタしているのが気になったりイライラしたりしたものである。

北海道に帰ってくると、人々は実にゆったりとしており、歩くスピードや会話のスピードは大阪の半分といった感じで、最初はあまりの違いに戸惑ったり調子が狂ったりしていた。

北の大地に再び根を下ろし、もう少しで丸 7年になる。

北海道の生活スピードにも慣れ、最初はおおらかな土地柄、人柄を楽しく、そして微笑ましく見ていた目にも少しずつ変化が生じ、どこに住もうと腹の立つオッサンやオバハンはいるものだと思うようになってきた。

最初はゆったりとした動きも楽しんで見られたが、今となっては目の前でノロノロされるとイラッとしてしまう。

スーパーで買物をし、行列しているレジでやっと自分の番になる直前に、前のオバちゃんは合計金額を知らされてからやおらバッグの中の財布を探し、ノロノロと取り出してから小銭を数え、しまいには小銭が足りずに札を出すという典型的なイライラシーンの主演を務めてくれたりする。

自分の場合、後ろの人をイラつかせるのもレジの人を待たせるのも嫌なので、店員さんが品物をレジに通している間に小銭を数え、何十何円までなら対応できるか確認しておく。

ところが、そういうオバちゃんに限って品物一つ一つのバーコードが読み込まれるのをじっと見ていたりする。

そして、モタクタと精算した後に受け取ったレシートをその場に立ったままじっと見たりするのもだから後ろがつかえて仕方がない。

一体、オバちゃんたちは何を確認したいのだろう。

レジを通すのをあれだけじっと見ていたのだからレシートまでじっと見て確認する必要などないのではないか。

レジ係も人によってスピードが大きく異り、平均すると若い人は速く、年齢を重ねるごとに遅くなっていくように思う。

最近になって気づいたのだが、若い人はデジタル生活をして様々なものを使いこなしているので機械を全面的に信用しているらしく、商品のバーコードを POSレジが 「ピッ!」 と読み取る音を頼りに次から次へと品物を通すが、年配の人は基本的に機械を信用しておらず、「ピッ!」 と音がしたあとにディスプレイを見て本当に今の商品の情報を読み取ったのか一つ一つ確認する。

それがたとえ 1秒だったとしても、30品買えば 30秒、10人の列ができていれば計300秒、つまり 5分もの差を生むことになるので、待っている身としてはイライラがつのるばかりだ。

つい先日のこと、スーパーで買物をしていると目の前を歩いていた老夫婦が、トングを使って自分で袋詰めする菓子パンの一山を崩してしまった。

決してわざとやったことではないので、店員さんを呼んで謝れば済むことなのに、その爺さんはあろうことか床に転がったパンを、それも手づかみで拾って積み上げ、何言もなかったように立ち去って行くではないか。

驚いた周りのお客さんが店員さんを探して事情を話したので事なきを得たが、もし誰も見ていなかったら床に落ち、爺さんが手づかみしたパンを誰かが購入することになってしまっただろう。

そしてひと通りの買い物を終えてレジに並んでいると、一人の婆さんが列を横切り、何くわぬ顔で横入りしていた。

自分の目の前に割り込んだなら文句の一つも言ってやるところだが、隣のさらに隣の列でのことであることだし、並んでいる人は誰も文句を言っていないし、さらには多くの人がいる中で大声で注意するのも気が引けるので黙って見過ごしてしまったが、どこの街でも爺さん婆さんの傍若無人ぶりが目に余るというものだ。

ただし、北海道と大阪には決定的な違いがある。

先日、地物野菜の直売所に行くと店内はとても混雑していた。

ところが・・・ところがである、店の中は実に静かだ。

大阪であれば主婦どうし、家族どうしの会話で鼓膜に大きく、それも決定的なダメージを受けて何年かすると難聴になる危険性が高まるほどうるさいに違いない。

どんな土地柄、人柄でもその行動に大差はないものの、声の大きさと話すスピードだけは大阪のオバちゃんにかなうものはないものと思われる。

解散風

永田町に解散風が吹き荒れているらしい。

安倍政権が誕生した前回の衆院選も 2012年12月16日と、1990年以来 22年ぶりとなる冬の選挙だったが、何を好き好んで寒い時期に選挙をせねばならぬのか。

有権者だって投票しに行くのは寒いし北海道など雪国の場合は道も悪い。

当日が吹雪になろうものなら投票率が激減するのは火を見るより明らかだ。

自民党とすれば支持層にさえ投票してもらえれば、悪天候によって投票率が低下し、浮動票が他党に流れないほうが都合が良いのかもしれないが、今回の選挙はその心配すら必要ないのではないだろうか。

そもそも解散する意味が分からない。

解散報道が伝わった当初は、消費税率引き上げの是非に関して国民の信を問うという内容だった気がするのだが、それがここ数日で消費税率引き上げ時期を一年半先延ばしにすることに関して信を問うと変化してしまった。

消費税率引き上げに賛成か反対かという選挙であれば、自民党に投票することを躊躇する人も多かったに違いないと思うが、それを一年半ほど先延ばしにするのは賛成か反対かと問われれば、賛成だという有権者が圧倒的だろう。

そして、それは野党も賛成なのだから何を争点に選挙戦を展開するのか。

各党に政策の違いがあって、それぞれの主張を聞いた上でどの党に、どの立候補者に投票するのかを決めるのが有権者であるはずだ。

しかし、今の時期に選挙をしたところで政策の違いはあるのか。

消費税率引き上げはできるだけ先のほうが良い。

女性の社会進出、子育て支援を進めるのは賛成。

社会保障を充実さるのも賛成。

財政健全化を進めなくてはならないのは当たり前。

難病支援、難病対策も必要。

税金の無駄遣いなどもってのほか。

・・・。

これと異なる政策を論じる党など存在するのか。

存在したとして、そんな党を支持する有権者などいるはずがない。

すべての党が似たような政策を主張するのであれば、残る選択肢は党を、そして立候補者をどう思うかという有権者の好みの問題のみとなってしまう。

せっかく基板を築き、多くの支持を得られるようになったみんなの党は、渡辺喜美氏の DHC会長からの 8億円借入問題を発端に不協和音が響き渡り、集団離党など分裂を繰り返して一時期の勢いも支持もなくなってしまった。

維新の党(日本維新の会)も元東京都知事の石原閣下が抜け、メディアでの橋下徹代表の言動が問題視されるなど、こちらも人気、支持率とも低下傾向にある。

一時は政権を奪取した民主党にかつての輝きはない。

どこも代わり映えしない政策、野党の凋落を思えば、自民党の圧勝は目に見えているし、拉致問題に関して北朝鮮との交渉が始まったばかりの今、何をどう考えれば解散総選挙となるのか。

その意味も、動機も、政策の違いも理解できないのであれば、積極的に選挙に参加しようとする人も少ないだろうし、過去最低の投票率だった前回(2012)の59.32%を下回るようなら、それは本当に国民の審判であり、信を問う結果となるのか疑問である。

結果が見えており、やる必要性、重要性を感じないような選挙など単なる税金の無駄遣いでしかないのだから止めておいていただきたい。

小渕優子氏と松島みどり氏のダブル辞任を引き金に政治と金を巡るスキャンダル追及で国会審議が停滞していることや、集団的自衛権の行使容認、原発再稼働問題などを処理した後では自民党の支持率が下がるであろうことや、今だったら民主党をはじめとする野党の選挙態勢が全く整っていないので抜き打ち的に解散してしまおうなどという安易な発想によるものだとすれば、それはとんでもないことだと分かってはいても、他に選べる党がないという有権者の悲哀を感じずにはいられない。

何はともあれ、ここまで風が強くなれば解散総選挙はあるのだろう。

国民の義務だと思っているし、責任は果たしたいのでどんなに寒くても、たとえ吹雪になろうとも投票には行くつもりだ。

しかし、予言しておこう。

年末に衆議院議員選挙があったならば、投票率は過去最低を記録し、自民党の圧勝に終わるであろうことを。

人と機械

犬や猫、鳥などのペットは自分の思い通りに動いてくれない。

まして人間は、それが親であれ子であれ恋人であれ、妻であれ夫であれ思いどおりに動いてくれるはずもなければ 1から 10まで従順に言いつけを守るはずがない。

しかし、機械は人間の指示通りに動かなければならず、指示を無視したり忘れたりしてはいけないし、ましてや指示もしていないのに勝手なことをすることなどあってはならない。

それが人間と機械との間を分ける絶対的な境界であり、そのラインを超えてはならず、機械に意思を持たせることをしてはいけないというのはロボット三原則にも謳われていることである。

もし機械が意思を持ったならば嫉妬深く腹黒い人間など低俗かつ不要なものとみなし、絶滅するまで攻撃してくるのではないだろうか。

そのような内容の SF小説、映画、アニメは枚挙にいとまがなく、その多くは機械が悪意を持った人間の命令に従ってしまっているか、機械が意思を持つことによって人間の愚かさに失望、立腹してしまうことに始まる。

機械が意思を持つことなどあり得ないとは思うが、過去には考えもしなかったことが現実となっている今、SFでしかないと断じることが果たして正しいのか。

何年か前に、Google社が人工ニューロンネットワークを構築し、YouTubeの動画を無作為に選んで 1週間にわたって見せ続けたところ、何も教えていないのにネットワークは猫の写真を識別することを学習したという報道があった

それはネットワーク自身が YouTubeの動画から猫がどういうものかを知ったことになり、そのまま学習を続ければ様々な動物を認識できるようになったり、同じ猫でも種類の違いを学習し、同じ種類でも個々の特徴から違いを認識できるようになるかもしれない。

そのシステムに世界中にある膨大なニュース映像を見せたら犯罪者の顔も認識できるようになり、何をすれば犯罪なのかということも学ぶかもしれない。

他人の財産を奪ったり人に危害を与えることはいけないことだと知った時、そのシステムは自分自身に危害を加えるものは何かを考え、動物や他の機械ではなく、自分を分解したり破壊したりできるのは人間だけだという結論に至るだろう。

そうなった時、自分を破壊し得る人間を敵とみなし、排除しようとするかも知れない。

人間を攻撃してはならないというプログラムをあらかじめ組み込んでおいたとしても、そのプログラムは正しいのか、その命令に従うべきなのか、それは自身のためなのかを機械が考慮した場合、絶対的に人間の命令に忠実でいられるのだろうか。

・・・・・。

・・・。

で、我が家の電子機器である。

以前からブルーレイ(BD)・レコーダーの調子が悪く、動作が不安定だった。

録画中に DVDや BDを再生して早送りや早戻しをしたり、番組予約をするなど複数の処理をさせようとするとフリーズしてリセットを余儀なくされることが何度もあった。

最近ではリモコン操作を受け付けないことがあり、リモコン側の電池が切れているのかと思って交換してみても動かず、結局は本体をリセットしなければならない事態に陥ったことも一度や二度ではない。

HDDに録画しておいたものを BDにダビングすることができず、 メディアが DVDなら録画できるので仕方なくそうしたことも何度もある。

そろそろ買い替えの時期かと 『お買い物日記』 担当者と話していたが、7月に DVDレコーダーを BDに買い替えたばかりであることと、その調子の悪い BDレコーダーは2010年11月に液晶テレビと共に購入したものなのでまだ 4年しか経過しておらず、昔の家電は 10年くらいは使えたものだという感覚が抜けないオッサンとオバハンは、購入することを躊躇していた。

そんなこんなで不満をいだきつつもだましだまし使い続けていたが、ついに BDレコーダーは録画済みのメディアに訳の分からない信号を勝手に書き込んで認識できなくし、それを勝手にフォーマットしてしまうという暴挙にでた。

・・・機械の反乱である。

確かに毎日、来る日も来る日も録画し続け、それから CMをカットする編集作業をし、録画数が一定量になると DVDや BDにダビングするという過酷な労働を強いたかもしれない。

動きが鈍いので文句を言ったこともあったし、リモコンを乱暴に扱ったことも、暴言を吐きながらリセットしたこともあっただろう。

それは辛い日々だっただろうし腹に据えかねることもあったかもしれない。

しかし、だからと言って人間に歯向かってはいけないのである。

命令以外のことを勝手にしてはいけないのである。

そんなことをする機械とはこれ以上は付き合いきれない。

・・・。

ということで先週末ネット注文し、火曜日には新しい BDレコーダーが届いた。

7月に購入したものと同シリーズなので設置も初期設定も難なく終わり、その日の夜から快適に使えるようになっている。

人間の命令に従わないどころか勝手なことをする BDなどお払い箱だ。

近いうちに廃棄処分にしてやろうと思っているところである。

五分五分

我が家はかかあ天下か亭主関白か。

きっと、そのどちらでもなく対等であり平等であり同等であり五分五分な関係だろう。

テレビを見ていると購買の決定権の多くは主婦にあると伝えていた。

その第一位は食材で、決定権は女性が98%に達する。

しかし、それは権力の問題ではなく毎日の献立を女性が考え、その調達も主に女性がするから必然的に男性の介入の余地がなくなっているのに過ぎないのだろう。

かなり以前の雑感にも書いたことがあるが、我家の場合はすべてにおいて対等、五分五分だと思われる。

食材に関しては毎日の献立も二人で決めるし、多くの場合は一緒に買物に行くのでどちらかの意見にかたよることはない。

テレビやブルーレイなどの AV機器、スマホやパソコンなどの電子機器の機種選定は自分がするが、購入を勝手に決めることもなければ強硬に主張して買うこともなく、必要に迫られて買わざるを得なくなるか、十分に話し合った上で購入を決める。

衣類も事前に相談したり話したりするので勝手に買うことはない。

外食する際の飲食店も相談して決める。

その飲食店で何を食べるかは、それぞれが勝手に決めるのは当然だが。

五分五分なのは食べる物、その質に関しても言えることだ。

男女の差、体の大きさの差があるため食べる量は違うが、質は限りなく同じにする。

例えばミカンを食べる場合、互いに一つずつ手に取るが、皮をむいた後で半分を交換する。

そうすれば、どちらか一方だけが甘くて美味しいものを食べるという事態を避けられ、公平に同じく味わうことができるからだ。

トウモロコシも味に個体差があるため、一人で一本を食べる場合は列の半分まで食べた段階で交換する。

ミニトマトも半分に切り、その半分ずつを分けて食べるようにサラダなどに盛り付けるのは 『お買い物日記』 担当者だ。

自分だけがマズい思いをしたくないという利己的な感情もないではないが、どちらかと言えば美味しい物を分け合うという意識が強い。

甘いお菓子は 『お買い物日記』 担当者のほうが圧倒的に多く食べたりするが、それは自分が甘い物が得意ではないという事情があるからであり、そのかわりと言っては何だが塩辛いお菓子は自分のほうが多く食べさせてもらっている。

食べる物がこれほど同じなのに体型が大きく異るのはなぜなのか。

どうやら栄養の吸収率は五分五分ではないらしい。