記憶 Memory-14

過去の記憶

今回は今までのネタと異なり、子供の頃の記憶ではない。

ましてや自分の記憶にまつわることでもないことを取り上げることになるが、実際、身近に起こった出来事ではある。

若いころに勤めていた会社はいわゆるコンピュータ産業で、世にパソコンというものが広まる時期であったので技術者の平均年齢は 20代前半と若く、エネルギーに満ち溢れた職場だった。

そのエネルギーは休憩時間にも発散され、昼休みともなると外にあるテニスコートで汗を流す者、体育館でバスケットに興じる者など様々だったが、スポーツに興味のない自分は社屋の裏にある未開の地を進み、流れる小川に何か生き物はいないか観察したりしていたのである。

他にも何人か同じように休み時間を過ごす仲間がいたのだが、そのうちの一人が足を滑らせ仰向けに倒れたところ、そこに大きめの石があって頭部を強打してしまった。

幸いに怪我もなく、大事に至らなかったと思った矢先、今自分がどこにいて何をしているのか分からないと言い出す。

今は会社の裏手にある林の中であると、何度も教えているのに 30秒もしないうちに今どこにいるのかと尋ねてくる。

普段から冗談を言ったりする奴だったので、最初はふざけているのだろうと思っていたのだが、あまりにも執拗に場所を聞いてくるので冗談ではなく本気で言っているのか、本当に分からないのか確認したところ、転ぶ寸前までの記憶はあるが、それ以降はまったく覚えておらず、今している会話すら数秒後には記憶から消えるのだと言う。

これは大変なことになったと状況を上司に説明し、打ちどころが悪かったに違いないと脳神経外科に連れて行くことにした。

レントゲンや脳波の検査などが終わって医者が説明するには一過性全健忘(TGA)であり、何かのきっかけに突然発症するが、通常は 24時間位内に自然治癒するのだという。

今回の場合は頭を強打したことによるものだが、外傷も内出血も骨折もないので特に治療の必要もなく、一晩寝て起きれば治っているだろうとのことだった。

医者や本人が言うには記憶できないのは頭を打った瞬間からのことで、それ以前の記憶はあるので一人で帰宅できるとのことだが、やはり心配なので先輩の車で送り届けることにした。

その車の中でも 30秒おきに、それも延々と今日は何月何日なのかと聞かれて閉口したが、しつこいとかうるさいとか叱っても仕方のないことなので、ため息混じりに今日の日付を 30秒おきに、そして延々と答えていたところ、その会話とも言えない虚無な言葉のやりとりが急に止まる。

そして、すでに車内ではケンボーと呼ばれるようになってしまった健忘症の彼が
「今、道路に金髪のネーチャンの本が落ちていた」
などと言い出す。

一過性健忘であり、今は何も記憶できないという症状ではないのか!?

という大きな疑問を抱きつつも、金髪ネーチャンにのみ反応し、そんなことだけは記憶できる彼の性格というか脳のことが可笑しくてたまらない。

自宅に送り届けても、30秒おきに今日の日付を、47秒おきに金髪ネーチャンのことを繰り返す彼を見守っていると同棲中の彼女が知らせを聞き、仕事を早退して帰宅したので後を託して会社に戻った。

翌日、医者の言う通り症状は治まり、見事に社会復帰した彼は言う。

どうしても道路に落ちていた金髪ネーチャンの本が気になったので見に行くと、それは金髪ロン毛のロック歌手の写真が載った 『ヤングギター』 だったと。

それから何カ月もの間、彼は職場でエロケンボーと呼ばれるようになったのであった。