記憶 Memory-09

過去の記憶

生まれたときは社宅暮らしだった。

その社宅というのは名ばかりの長屋に住んでいたというのに夜中になれば少しの物音で目を覚まして泣き叫んだり、体が弱く病気がちで具合が悪いものだからビービー泣くという、まことに手のかかる子どもを持った両親は、壁が薄く隣近所に迷惑をかけているのではないかと気を揉む毎日だったという。

そこで、共稼ぎと言えども安月給だった若夫婦は一念発起し、壁越しの隣人に気を使わなくて良い一軒家を建てることにしたのであった。

それは自分が二歳を過ぎた日のことで、それがどれほど迷惑をかけた結果であるか、それがどれほどの決断であるかも知らず、アホ丸出しで 「わーい」 と単純に喜んで走り回っていたらしい。

当時は今のような工法が開発されておらず、昔ながらの大工さんが昔ながらの方法で基礎から地道に固め、ゆっくりとしたペースで建設されていった。

今でこそ一カ月や一年などあっという間に過ぎ去ってしまうが、ニ歳児の感覚では一日すら長く、一時間もあれば様々な遊びができたくらいなので、着工から完成までひどく長い時間が経過したように記憶している。

時間経過がゆっくりと感じられる子どもにとって式典などというのは退屈の極みであり、いつまでも延々と続く空間で大人しくしていろということ自体が無理な相談というものだ。

棟上げまで工事が終了した際にとり行われる上棟式も子どもにとっては過酷な我慢大会のようなものであり、つまらない大人の話しを聞いてなどいられない。

人の多さに圧倒されて静かにしているのも 10分くらいなもので、それを過ぎると周りをキョロキョロ見渡したり、大工道具に興味を持ってチョロチョロと動きまわったりし始める。

神妙な顔をした母親が目だけ鬼のように釣り上げてこちらを見ていたが、大勢の前で叱られることもあるまいという子どもなりの打算も働き、目を合わさないようにしながらコソコソと一人遊びをしていた。

それにしても長く、一人で遊ぶことにも飽き、そろそろ我慢も限界に達しようとしていた時、その場にいた全員が起立して何かが始まったようだ。

さすがに自分のいるべきところに戻ったほうが良いのではないかと思い、両親の姿を探したが背の高い大人が全員立ち上がって狭い空間に密集していると顔を確認することができない。

人をかき分けて進み、必死になって探していると見覚えのあるスカートと大きな尻が目に入った。

無事に母親の元へとたどりつけた安心感と、勝手に遊んでいたくせに放っておかれたというねじ曲がった怒りが心の中で交錯し、ムカムカと腹がたってきた。

そして、ここで思いっきりパーン!と尻を平手打ちすれば、さぞかし母親は驚くだろうし、それを見たまわりの大人たちの笑いが取れるのではないかという考えが頭をもたげ、その衝動を抑えることができなくなってくる。

心の葛藤は何秒間くらい続いただろう、ついに悪魔のささやきが心を支配し、ジリジリと目の前の尻に近づいて狙いを定め、ありったけの力で尻をひっぱたいた。

空間に響き渡るパーーン!という音と聞いたことのない女の人の悲鳴・・・。

なぜそう思ったのか今となっては分からないが、その尻のでかさとスカートの色だけでそれが母親であると確信し、疑問を挟む余地など全くと言っていいほど生じなかったのだが、その尻の持ち主は明らかに別人だったのである。

その後、上棟式は大混乱におちいり、母親からこっぴどく叱られることになってしまったのは言うまでもない。

自己責任

長崎県でとても残念な警察の不祥事が起こってしまった。

被害届の受理を先延ばしにした理由が北海道への慰安旅行で、それをひた隠しにするどころか事件の検証開始直後に慰安旅行の事実を把握していたにも関わらず、その日のうちに 『問題なし』 と結論づけていたというものだ。

確かにストーカー事件の扱いは難しい。

妙な男に好意を持ち、積極的に自分に近づけたというのであれば多少は自己責任を問われる部分もあるかも知れないが、ある程度の付き合いをしなければ相手のことは分からないのだから仕方がないだろう。

ましてや好意もなく、また知り合いでもないのに一方的に付きまとわれ、身に危険が迫るまで事実を把握できなかった場合などは被害者に何の落ち度もなければ責任を問われることもない。

長崎ストーカー殺人事件はインターネットサイトでの出会いが発端となっていることも被害者にとって不利に働いた可能性も否定できないものと思われる。

出会い系サイトで犯罪に巻き込まれるケースが後を絶たないのは周知の事実であり、それにも関わらずそんなサイトを閲覧したり、そんな場所で知り合ったからといって実際に会ったりするのは認識の甘さゆえのことだという意識が働くこともあるだろう。

確かに自分のように保守的な臆病者からすると、たかがネットで何度かやり取りした程度の人と実際に会うなど信じられないことであるし、余程の度胸があるか何も考えていないか思慮が浅い愚かなことだとは思う。

しかし、実際に起ってしまったことをやり直せはしないし、これを教訓に二度と軽々しい行為は行わないと深く反省もするだろうから身に及んだ危険を回避してやるべきだったことは間違いない。

自己責任、自業自得と思われることは多くある。

何年か前に殺人事件の被害者になったのは 16歳の女子高生で、犯人を憎んだし将来のある子どもが死に至ってしまったことを悲しむ気持ちもあったが、事件の経緯が明らかになってくると夜中の 2時に外出して男性と歩いている姿が防犯カメラに写っていた。

そうなると少し事情が違い、そんな時間にフラフラと遊んでいることが大きな問題だと思うようになってしまうが、それでもやはり、人を殺めた犯人が悪いのだから罪を裁かれるべきだし捜査当局は全力で捜査すべきだ。

理論的に有り得ないような配当金につられて訳の分からない案件に投資し、詐欺行為だと分かると急に被害者然として巧妙な手口にだまされた哀れな人間を演じ始める人たち。

誰がどう考えても信じ難く、明らかに嘘だとわかるような話に乗せられて金を出すということは、余程お金に余裕があるか欲の皮が突っ張っているのだと思ってしまう。

しかし、それでもやはり人をだます犯人が悪いのだから、捜査は行われるべきだし犯人は罰せされるべきである。

話を元に戻して長崎ストーカー殺人事件では、マスコミは被害届の受理を先延ばしにした警察を総攻撃して習志野警察署長が事実上の更迭となったが、その論調をまともに受けてはいけないような気がする。

たしかに怠慢だと言われても仕方がない事実ではあるが、受理を一週間延ばしたことが引き金となって事件が起こった訳ではないと思うからだ。

間違いなく昨年の12月6日に受理を見送っているが、3日後の9日には当時ストーカーの犯人だった容疑者に警告を発し、実家に連れ戻すということはしている。

その後、14日に届けを受理したタイミングと容疑者が実家から姿を消したタイミングが重なってしまい、その2日後の 16日に殺人事件が発生したので問題がこじれてしまった。

仮に 6日に被害届を受理していたとしても、それがストーカー行為に対する被害届であれば、警察にできることは 9日に行った警告と同様のことでしかなかっただろう。

実際に危害を加えられたりしていなければ現状の法律では逮捕したり身柄を拘束したりすることはできないのではないか。

被害届を受理しても受理していなくても、やれることは同じで少なくても9日に警察はやれる範囲のことはしている。

つまり、6日に受理していたら今回の犯行を防ぐことができたのか疑問であるし、それが引き金となって犯行が行われた訳ではないように思う。

警察の落ち度を全面否定する気はないが、いかにも警察の責任で事件が起こったかのような報道をそのまま鵜呑みにするのは避けるべきではないだろうか。

マスコミの報道をどう解釈するかも自己責任ということである。

プチ整形

男性 3人を練炭自殺に見せかけて殺害したなどとして殺人の罪などに問われている木嶋佳苗被告の裁判に注目が集まっているが、それと同時にあの容姿でなぜ次々と男性を手玉に取れるのかということが週刊誌やネットで話題になっている。

かなり以前の雑感に書いたように自分は女性の容姿にまったくと言っていいほどこだわらないが、それでも木嶋被告が十人並み以上であるとは思っておらず、彼女の何を持ってして食虫植物に虫が集まるようにフラフラと男性が吸い寄せられるのか理解することができない。

きっと話術なり何なりが巧みであり、男性をとりこにする魅力があって自分の武器を理解し、それを最大限に活かすすべを心得ているのだろう。

新聞広告の見出ししか目にしていないが、女性週刊誌もその点を取り上げて記事にしているのではないかと想像する。

少し前まで女性週刊誌、ファッション誌ではプチ整形に関することが多く取り上げられ、無料で美容整形クリニックの宣伝をしてプチ整形の一大キャンペーンを繰り広げているかのようだった。

韓国で施術してもらうのが低価格であり、技術的にも申し分ないなどと人気が高まって団体で訪韓するツアーまで企画される勢いで、単なる団体整形手術旅行を美容ツアー・メディカルツーリングなどとちょっとオシャレな言い回しに変えて参加者を募る。

企画した業者の採算が合うのだから相当数の人が参加し、韓国で施術して出国した時とは異なる顔になり、以前の顔面写真が貼られているパスポートを提示して帰国しているのだろう。

いくらプチ整形でメスは使わないといっても顔や体に手を入れることには変わりはなく、コストだけを重要視して海外で施術してもらうと顔が大きく腫れあがってしまったり、ひどい痛みをともなったりした場合の事後処理に困難をきたすことになるので、施術面や保証面などを入念にチェックしてから参加すべきで、すべてツアーを企画する業者任せにしては危険だと思うのだが。

韓国は美容整形に関して実にオープンであり、多くの人が施術を受けているという。

確証などないが、最近になって極端に露出の増えた韓流スターの顔がどれをとっても同じように見え、誰が誰なのか区別がつかないのは医療技術によるものなのかも知れない。

マスコミの一大キャンペーンによって日本でも美容整形、プチ整形は珍しいことではなくなり、就職の際に面接官に対して好印象を与えるという理由だけで施術を受ける人もいる。

それが新卒だけでなく、オッサンの転職でも同様だというのだから驚きだ。

くたびれたふけ顔で面接にのっそり現れるより、少し若々しくなってさっそうと登場するほうが印象も受けも良いかも知れないが、そんなことのために整形するなど時代も変わったものである。

昔は整形手術をしたいなどと言おうものなら 「親からもらった体に傷をつけるなんて」 と非難され、人にはそれぞれ持って生まれた身体的特徴があり、個人はその外見と内面がバランスしているのだから見てくれだけ変えても仕方がなく、もっと内面をみがくべきだと説得されたものだ。

ところが今は気に入らないなら変えてしまえば良いという考えが大勢を占めているのか、いとも軽々しく整形してしまう。

親も親で我が子が顔や体に手を入れようとするのを止めないどころか、ついでに自分もシワの目立ち始めた顔を何とかしようと親子そろって病院を訪れることもあるらしい。

近年、過去には理解できなかった犯罪がおこるたびにゲームの影響が指摘され、人生に行き詰まったからといってリセットできたりやり直せたりできる訳ではないと偉そうに言うやつがいるし、それに深くうなずく大人もいるが、何の罪悪感もなく気に入らない箇所に手を入れて修正してしまえば良いという短絡的な考えは果たして正しいことなのか。

脱毛とか整形には中毒性があるらしく、度が過ぎると全身の毛が不必要だと感じるようになったり、顔のパーツが 1ミリ単位で気になり、整形を繰り返すようになったりすることもあると聞く。

近い将来、整形のやりすぎで顔面が無残に崩壊してしまい、もう手術不能になる人が激増しないことを心から祈るばかりである。

その後

日本のマスコミは騒ぐだけ騒いで危機感をあおるが、その後に関しては何も知らせてくれない。

最近では岡山県倉敷市で起きた製油所の海底トンネル事故だが、連日連夜、あれだけ大騒ぎしていたにもかかわらず、徐々にトーンダウンしたかと思うとさっぱり音沙汰が無くなり、6日前の 3月 4日に最後の不明者となっていた人の遺体が収容されたことなど扱いが小さすぎて知らない人のほうが多いのではないだろうか。

島根で2009年に発生した女子大生のバラバラ殺人事件も大騒ぎになったが、今では覚えている人も少ないだろう。

マスコミの責任ばかりでなく、日本人は熱しやすく冷めやすい上に飽きっぽく忘れやすいという国民性を代々受け継ぎ、DNAに深く刻み込まれているので致し方ないという側面はあるにせよ、だからこそマスコミが事件や事故を風化させないように努めるべきではないだろうか。

悲惨な事件や事故だけではなく、生活レベルの話題に関しても報道が尻切れトンボ状態で、その後がどうなっているのか分からないことが多い。

テレビが昨年7月24日にデジタル放送への完全移行となったが、その直前には完全デジタル化によってとんでもない数の地デジ難民が発生すると大騒ぎし、地デジ化を延期すべきだと声高に叫ぶ団体やマスコミがいたが、いったい現状はどうなっているのだろうか。

本当に地デジ難民が大量発生しているのであれば、彼らは今、どれほど不便な思いをしているのか、電波が届くようになる目処はあるのか、対策は講じられているのか、何も情報が伝わってこない。

経済的な理由で地デジ化を進められない人のことを考慮し、支援するための制度が作られWebページを公開しているが、チューナーを無償給付したところで屋根の上のアンテナが地デジ用になっていなければ意味がないだろう。

むしろアンテナを購入して取付工事してもらうほうが数千円のチューナーより高額になるのは当然のことであると総務省の役人は気づかないのだろうか。

また、経済的に困窮している人がパソコンやスマホを持っているとは思えないのでWebで告知しても意味を成さないものと思われる。

新聞の定期購読をしていない場合も多いと思うので広告やチラシも効果は薄いのではないか。

そうなると国が責任をもって生活保護などを受けている人に告知するなど何らかの対策をしなければ、地デジ難民の正確な数すら把握できないような気がする。

2008年4月に東京都杉並区が打ち出したレジ袋税(環境目的税)を発端として一気にレジ袋有料化が進み、今では全国のスーパーが有料化しているし、マイバッグを利用するとポイント優遇などの特典が得られる仕組みを導入している店や企業もある。

それによってどの程度のゴミ削減になったのか、どの程度の石油が節約されたのか、どの程度のCO2削減になったのか、スーパーはどの程度の経費削減になったのか、マイバッグの販売でどの程度の経済効果があったのかなどを誰もレポートしてくれない。

今はレジ袋が有料だと言われて誰も文句は言わないし、マイバッグを持参して買い物をするのが当たり前の時代になった。

一般市民は時代の流れに乗り、少しは環境のことも考えて行動しているのに、結果がどうなったのか誰も責任をもって検証しようとしないのはなぜなのか。

本来であれば環境省あたりが調査して結果報告すべきだと思うが、役人など誰もあてにはしていないので騒ぐだけ騒いだマスコミが責任をもって尻拭いまですべきだろう。

明日で東日本大震災から丸一年が経過する。

まだまだ普通の生活を取り戻せない多くの人がおり、原発事故はまだ収束にすら向かっていないというのに区切りであるこの時期にしか情報が伝わらなくなりつつあるのは良い状況ではない。

被災当事者が取り残され、他の人達だけが普通の生活を取り戻して防災意識や被災者支援の意識が薄まってしまっては意味がないだろう。

くだらない報道や人権侵害スレスレの見ていて腹立たしい取材をする暇があるならば、東北の人たちの現状を、できることなら全ての人が普通の生活を取り戻せるようになるまで伝え続けていただきたいものである。

身土不二

身土不二(しんどふじ)という言葉は、人の命と健康はその土地とともにあるという考え方を表しているらしい。

食事はその土地、その季節の食物を基本にすることを良しとする、いわば地産地消の発想だ。

北海道から離れて大阪に住み、久しぶりに帰ってくるとしみじと地元の味、ふるさと食のありがたさや美味しさを再認識することができる。

海の幸、山の幸を問わず、それらを体が要求していたらしく、懐かしさや美味しさとともに骨の髄まで染み渡るような感覚、しびれにも似たような何とも言えない幸福を感じつつ腹を満たす。

大阪で暮らし、今まで見たこともないような魚介類を食べることができたのはとても良い経験ではあったが、焼いて食べたら良いものか煮て食べたら良いものかすら分からず、戸惑いも大きかったのは事実だ。

そして、それはそれなりに美味しく食べていたのだが、やはり生まれ育った土地で採れた作物や海で捕れた魚介類を口にすると、遺伝子レベルで脳や体が味を覚え、必要としていたのだと思ってしまうほど美味しさを感じる。

それは水や空気にも共通することであり、正直に言うと大阪での生活は何か圧迫されているようなズシリと重い空気を吸い、北海道と比較すると硬質で重い水を飲む毎日で、心身ともに健康だったとは言い難かった。

こちらでの生活を始め、空気も水も、そして食べ物も地元のものを摂取すると、心身ともに浄化され、体の内側から再生されていくような感覚を覚える。

それというのも北海道が自給率 200%の食の宝庫であり、余程の季節の乖離がない限りは道内産の野菜や魚を食べることができるのが幸いしているのは確かだ。

感覚的に、大阪では地元産のものが 10%以下、国内産のものは 30%以下、その他はすべて輸入物だったように思う。

ところが北海道では地元のものが 50%、国内産のものが 30%、残りの 20%が輸入物といった感覚だ。

それだけ食べ物が豊富で、いつも新鮮なものを食べられるのだから、その味が脳や体に染み込んでいるのも当然のことかも知れない。

そして、美味しさだけではなく地元の海で育った魚を食べ、地元の土と水で育った作物を食べると健康状態も良好に保つことができるような気がする。

もちろん、それなりに歳を重ねてしまったので体のあちらこちらにガタがきてしまっているが、少なくとも胃腸や精神面は実に安定しており、おだやかな毎日を過ごせているのは食生活が充実しているからではないだろうか。

仕事でイライラしたり、多少なりともストレスを感じたとしても、美味しい物を食べて美味しい空気を吸っていれば精神的に安定するし、深く思い悩むこともない。

ただ一つの欠点は、あまりにも美味しすぎて、つい食べ過ぎてしまうことだ。

禁煙したことも要因の一つだろうが、北海道に帰ってきてから 10キロも太ってしまった。

それでもふるさと食は、心と体に栄養を与えてくれる実にありがたいものなので、食事の量を減らすこともなく美味しく食べる毎日を過ごしたりしている。

- 参考 -
ふるさと食の効用(その1)
ふるさと食の効用(その2)