先祖返り

企画から生産、販売までを一体化して手がける業態を SPA と呼ぶ。 SPAは Speciality store retailer of Private label Apparel の略で、Apparel(アパレル)というからには衣料品関連のことであり、80年代に米国のカジュアル衣料ショップ 『GAP(ギャップ)』 が提唱して消費者の支持を集め、日本では 90年代の半ばから 『ユニクロ』 や 『無印良品』 がその手法を取り入れている。

ただし、現在ではアパレル業界に限らず、素材調達、企画、開発、製造、物流、販売、在庫管理、店舗企画などすべての工程を 1つの流れとするビジネスモデルのことと定義されおり、つまりは自分で作ったものを自分で売っていれば何でも SPA というビジネスモデルでくくられる。

最近では大手スーパーに限らず、コンビニ各社まで PB(プライベート・ブランド)を取り揃えるようになったが、あれも SPAの変形、亜種と言えるかも知れない。 製造工場こそ委託しているかも知れないが、自社で企画したものを自社の物流網に乗せて店頭に並べ、自ら在庫管理して販売するのだからビジネスモデル的には SPAと同じである。

それはさておき、この SPAというビジネスモデル、何がメリットなのかと言えば販売する際に顧客の要望などを的確にキャッチできたり売れ行きを早期に判断できるため、情報ネットワークを通じて製造段階にフィードバックすることができ、製造サイドではその情報を基に生産調整をして在庫を減らしたり、人気商品の増産をすることが可能になる。

さらには顧客の意見を反映した商品を開発し、すぐに生産を開始したりもできるので世の中のニーズを的確に捉えることもできるという、誠に企業にとって都合の良い仕組みでるのと同時に、在庫軽減、大量生産を両立させることによるコスト削減効果で単価を低く抑えることができるので安く販売することが可能となり、結果的に顧客の利益にもなる。

ここまで優れたビジネスモデルであれば無敵のようにも思えるが、果たしてそうなのだろうか? 自分で作ったものを自分で売る。 自分で採った野菜を自分で売る。 自分で獲った魚や動物の肉を自分で売る。 これらはすべて経験済みのことであり、その昔はどんな業種の人もそうやって商売をしていた。

それが効率を求めた結果、作る人(生産)、それを運ぶ人(流通)、それの在庫を調整する人(卸売り)、それを売る人(販売)に別れ、それぞれが専門特化したのであり、それを否定してすべてを自社でまかなうということは商売、ビジネスモデルの先祖返りに他ならないのではないだろうか。 昔の何が悪くて業務が細分化されたのか、そして今、それの何が悪くて元に戻ろうとしているのか。

このまま進めばそれぞれの業種が SPA化し、自分の作ったものを自分の店舗で売るようにってスーパーや百貨店などに売ってもらう必要がなくなり、昔ながらの商店街みたいのが復活したりするのだろうか。 そこには人情味あふれる店主と顧客の会話があり、顧客はパック詰めされたものより自分の必要なものを必要な分だけ買う、量り売りも復活するかもしれない。

それが続くと、また一箇所で全てのものが買えたら便利だということになってスーパーや百貨店が出現し・・・・・。 そうやって時代は繰り返されるのかもしれない。

マサルノコト scene 22

世の中は受験シーズン真っ盛りで合格祈願グッズやら食べ物で店は溢れかえっているが、当時のマサルや自分にも当然のことながら受験はやってきた訳であり、それはマサルとの付き合いが一番濃密で楽しかった中学校生活にも、そろそろ終わりに近づいてきたことを意味していた。

中学校二年のときの担任とマサルのおかげですっかり更生して学力も向上し、テスト結果も上位に名を連ねるようになり、地元では成績優秀な生徒が集まる進学校への入学も不可能ではないことを教師から告げられていたが、自分は高校へ進学する気などさらさらなかった。

ずっと絵を描くのが好きで絵の勉強をし、絵で生計を立てるのが目標であったのだが、絵を専門に教えてくれる高校など皆無であり、美術系の大学に進むためにも高校には行かなければならないなどという親の説得にはリアリティーを感じることができず、単に世間体を気にして 「高校だけは行ってくれ」 と言われているような気がしたので反抗心すら抱いていた。

それでも担任の教師やら親やら、挙げ句の果てには叔母までもが進学せよと迫るので、仕方なく地元の工業高校の建築科を、単に電気課とか機械科よりも設計図を描く分だけ少しは絵に近いかもしれないという理由だけで受験することにした。

自分としてはそれだけで 「どうだ!」 的な思いだったにも関わらず、一応は滑り止めも兼ねて少し離れた町にある、ちょっとランクの低い私立高校も受験しておくべきだなどと周りが勝手に騒ぎ出し、一校を受験するだけで十分だと思っていた自分は面倒だからと強硬に反対したのだが、あーもこーもなく周りの大人たちに押し切られるかたちで受験する羽目になってしまった。

次の日、マサルにブツブツと文句を言うと 「俺もそこ受けるぞ」 と教えられ、まあ、それならそれで修学旅行気分になって楽しく受験するのも悪くないかもしれないと思い直していたのだが、入試日の前日になって高熱を発し、マサルや他のみんなと一緒に前日に現地入りすることができなかった。

母親はオロオロし、心配するやら 「そんなに受験が嫌なのか!」 と怒り出すやら、熱で頭がボ~っとするやら体調が悪いのでイライラするやらで、家に居ても落ち着かなかったり大喧嘩に発展することは必至であるため、熱があるのにも関わらず父親に頼んで入試会場のある町まで送ってもらい、みんなと同様に前日から現地入りして一泊することにした。

不思議なもので宿泊先に到着すると体調が悪いのも忘れて腹一杯に飯を喰らい、受験前日だというのにマクラ投げをしたり布団の上で暴れたりと、修学旅行と変わらぬ夜を過ごし、おまけに夜更かしまでしたものだから発熱との相乗効果でフラフラになりながら試験会場に向かった記憶がある。

しかし、記憶しているのはそこまでであり、実際に受験する高校に着いた記憶も校内に入った記憶も試験を受けた記憶も、はたまたどんな問題がでたのかなどという記憶もすっかり抜け落ちており、それが終わった記憶も学校を出た記憶も何もなく、次に記憶が繋がるのは国鉄(現JR)の駅にみんなで集まり、帰るシーンになってからである。

とにかく発熱で疲れ、前日の大騒ぎで疲れ切っており、フラフラの状態だったので記憶力も低下していたのだと思われるが、もしかしたら試験会場では入試問題を解かずに寝ていたのかもしれないと不安になるほど見事に記憶が飛んでしまっていて、だからといって何もする気にならないほどの疲労感でマサルと何か会話したのかすら覚えていなかった。

電車に乗り込むと車内は溢れんばかりの人で座れる席などまったくなく、立ったまま 1時間以上の移動をしなければいけない状態だったが、とにかく疲れていた自分はマサルを誘ってグリーン車に行き、「車掌さんが来たら席を立つか追加料金を払えばいい」 と相談して空いている席に並んで座り、シートを少し倒したとたんに再び記憶を失った。

それはマサルも同様で二人そろって一瞬にして眠りに落ち、そのまま爆睡してしまったらしく、次に記憶がよみがえったのは電車が自分の住む町に到着したところなのだが、果たして車掌さんは来なかったのか、実際は来たのに気持ち良さそうに眠っている二人の中学生を起こさなかったのか、入試の帰りだと分かっていて、あえて無視してくれたのか。

結局、一応は志望した工業高校に合格したので滑り止めだった私立高校のことなどどうでも良いのだが、自分はまともに試験を受けたのか、果たして合格していたのか、当時は何の興味もなかったので合否を調べもしなかった自分も悪いが、その点についてはいまだに謎に包まれたままなのであった。

泡沫の夢

お買い物日記』 担当者は今でも定期的に入院しているが、それは抗がん剤治療を受けるための入院であって決して体の具合が悪くて入退院を繰り返している状況ではなく、副作用には苦しめられるものの、退院する頃には普段と変わらぬ元気な状態になっている。

それでも前日までは食欲もなく、あまりたくさんの量を食べていないので、退院当日の昼食は胃の慣らし運転の意味も含めてうどんを食べるのが定番化しており、そのうどんも天ぷらや油揚げ、肉などがトッピングされていない 『すうどん』、いわゆる 『かけうどん』 が望ましいことから、本格的なうどん屋さんに入る必要もないので駅地下にある 『なか卯』 を利用している。

吉野家に松屋、そしてなか卯といえば少し前まで男のオアシスであり、小遣いを減らされたサラリーマン、あまり金を持たない学生の心のよりどころ、スタミナの供給源であって店内に女性の姿を見ることなど皆無と言っても過言ではなかったのだが、退院のたびに立ち寄るなか卯では若いカップル、女性だけのグループ、中には若い女性が一人で牛丼をかき込んだりする姿が見受けられ、そこに大きな時代の変化を感じてしまう。

1980年代の後半、日本全土がバブル経済に酔いしれ、その余波は金など持っているはずのない学生や若者の懐までを潤し、高級ブランドの洋服で身を固め、高級ブランドのバッグを持ち、高級車を乗り回して高級レストランで食事をするのが当たり前にすらなり、安さが売り物の外食チェーン店など女性から見向きもされていなかった。

女王様のように着飾った女性たちはアッシー君(死語)に高級レストランまで送らせ、メッシー君(死語)と食事を共にし、タクシーで夜の街に繰り出して狂喜乱舞し、鼻の下を伸ばした不動産屋のオッサンに高級アクセサリーや金を貰い、再びアッシー君に迎えに来させて分不相応な高家賃マンションに帰るという生活を当時は続けていたはずである。

最近の若者は堅実で贅沢をせず、それ相応の楽しみ方を知っているので無駄な出費もせず、自分専用の自家用車など望みもせず、むしろ必要性すら感じず、高級な場所で食事をする必要性も必然性も感じないから、味さえ良ければ低価格な外食チェーンであろうと人目を気にすることなく入店するのだろう。

そもそも人の目とは、その時代や経済状況によって容易に変質し、移ろいやすいものであるから、バブル期における見栄やプライド最優先の価値観とは明らかに異なっており、そういう店で食事をしている人を見て 「フフン」 と鼻で笑う人も今となってはいないのであろう。

そう、20年前のあの時、日本は狂っていたのであり、その後に大きな代償を払い、10年間以上も苦しむなどとは誰も気づかず、バブル(泡)が壊れやすいことも忘れて泡沫(うたかた)の夢に酔いしれていただけで、今が正常な世の中なのだろう。

本音

官僚が 『年越し派遣村』 に関して 「本当にまじめに働こうとしている人たちが集まってきているのか」 と発言したことが問題となり、マスコミがギャーギャー騒いだ結果、謝罪するに至るという誠に日本的な結末になったのは実に浪花節的である。

しかし、官僚の言ったことには一理あり、少し言い方を間違えただけで 「まじめに働こうとしている人たち “だけ” が」 とすれば何の問題もなく、むしろ派遣村で起こっていた問題点を的確に世に知らしめる結果となって賞賛に値する内容だったのではないかとさえ思える。

集まった 500人とも 600人とも言われる人の全てが派遣切りの憂き目を見て不幸な環境におかれていたとは思えず、寝床と食料にありつけるという理由から、もともと働く気がないホームレスだって相当数が紛れ込んでいたと思われる。

1995年に発生した阪神・淡路大震災の時だってそうだったが、神戸に行けば少なくとも屋根のある避難場所で寝泊りでき、三食昼寝つきで一週間に一度くらいは入浴もできることが分かると、被災者でもないのに大勢の人が神戸に向かい、大阪のホームレスの数が激減した事実がある。

派遣切りに遭ったのは事実だろうが、何らかの事情で派遣契約しかできなかった人ばかりではなく、自由に転職でき、自由に働く期間を決められることを望んで派遣登録していた人も大勢いるはずであり、それを楽しんだり謳歌していたくせに、いざこのような事態になると態度を変え、派遣村に紛れ込んで 「けしからん」 とか 「自分は弱者だ」 と騒いでいる人もいるはずだ。

官僚が言った 「学生運動的な戦略のようなものが垣間見える」 との発言も、ある程度は的を得ていると納得できるシーン、それは、協力を要請されて厚労省が施設を緊急避難所として開放する決断を下した結果に対して 「感謝します」 ではなく 「評価する」 と言い放つ姿がテレビに映し出されていた件であり、何様のつもりかと胸ぐらをつかんで問いただしたくなってしまう。

その物言いは完全に学生運動的、政治活動家的なものであり、本人が否定したとて他人にそういう印象を持たれてもなんら不思議ではない発言、態度の人が主たる役割を果たして組織化され、派遣村が形成されていたとすれば 『学生運動的な戦略』 と見なされ、または警戒されるのは当然だ。

実際に派遣村でリーダー的な役割を果たしていた人の中には政治活動家も多くおり、貧困層に政治思想を植え付ける活動を行っていたという指摘も様々な方面で広く語られていた訳であるから、マスコミがその情報をキャッチできていないはずはなく、万が一キャッチできていない程度の情報収集能力であるとするならば 「報道なんかやめてしまえ」 と言いたい。

そんな事実すら勘案せずに (派遣村の住人 = 弱者) > ((派遣切り企業 + 政治)= 悪者) という図式を一方的に組み立て、弱者保護、間違った正義感丸出しに騒ぎ立てて世論をミスリードしているのは罪ではないのかとすら思えてくる。

人材派遣に関する規制緩和の行き過ぎ、小泉政権時代の負の遺産などとアホみたいに吠えているが、そうしなければ日本企業はグローバル市場で戦えなかったのは事実であり、もし製造業への派遣を規制しようものなら、過去のアメリカのように製造業が海外にシフトして日本国内から産業が消え失せ、結果的に大きく雇用を失う結果となるのは自明の理であろう。

問題視された官僚の発言は本音だったと思われるが、それが本当に問題だったのかどうか、マスコミは派遣村に集まった多くの人に取材して、なんちゃって弱者がいなかったのか、妙な思想家はいなかったのかを調べてから報道すべきだっただろう。

北の味覚

一昨年末までの出来事がまるで嘘であるかのように、昨年末にゆっくりと正月を迎える準備をすることができたのは、北海道に帰ってきて最初の年末年始であることから要領をつかむことができずに状況を静観していたことと、北海道で暮らしていた以前の記憶がさっぱりよみがえってこないことに加えて、『お買い物日記』 担当者の体調を考えて無理をしなかったことが要因だ。

いつもの年末、いくら大売出しがあろうとスーパーには普段より高い食材が並び、「どこが年末セールなんだ!」 と文句の一つも言いたくなるような価格設定に腹立たしさすら覚えたものであり、そういう事態を想定済みな 『お買い物日記』 担当者は事前に購入したカマボコなどを冷凍保存できないものかと試行錯誤したりしていたものである。

昨年末、北海道の場合は年末に近づくに従って食材の価格が高くなるのか、ハッキリした記憶がないまま 「今年は勉強」 と割り切り、事前の買いだめや準備をしないまま年末セールを迎えたのだが、その価格は一部の製品を除いて普段よりむしろ安くなっており、あの大阪での出来事はいったい何だったのかと大きなクエスチョンマークが頭上でボヨンボヨン揺れることとなった。

誰もが必要とし、消費期限の短いカマボコなどは年末ギリギリに買い求めるしか方法はなく、だとすればスポット的にその期間だけ価格を上げても消費者は諦めて泣く泣く購入せざるを得ない状況に追い込まれ、店側の思う壺であることは分かっていても 「まあ、せっかくの正月だから少々高くても」 という理由にも後押しされて財布の紐を緩めてしまう。

商売としてはそれが王道、定石なのであろうし、店側もそれで普段より大きな利益を得て楽しい正月を迎えることができるのであろうから、ある意味において仕方のないことだとも思えるが、北海道の場合は全く逆で、普段よりも安い価格で提供されることに多少の驚きを感じつつも、年末になって必死にやりくりする必要がないのは何とありがたいことかと感謝すらしてしまう。

きっと関西は商売優先、北海道は商売よりも 「みんなで正月を楽しみましょう」 的雰囲気が優先されるものと思われ、その点においては故郷である北海道の方が自分たちに合っていると、しみじみと感慨にふけったりした年末だった。

売られているものは肉、魚、野菜とも圧倒的に地元のものが多く、地元のものがなくても北海道産、それがなくても国産、それがなくてやっと輸入物という割合で、さすがに自給率 200%の土地柄だと感心してしまうのと同時に、全国的にブランドとなっている北海道の食材を新鮮なうちに、さらには安価で手に入れられることに対して感謝すらしたい気分である。

化学の味が嫌いなのでお節料理もなるべく手作りにしている我が家だが、作るのが超面倒だったりするものは既製品に頼っており、今回久々に地場産業の既製品を食べてみたところ、その味付けはやはり体に合っているらしく、もちろん関西風の味付けや京風の味付けも美味しかったのは事実としても、体に染み渡り、遠い記憶を呼び覚まされるような懐かしい味わいは最高だ。

空気や水、食材や味が体に合うか合わないかは最低限なことでもあるが、日々積み重なっていくものであるから最高水準の条件であったりするので、今のところはきっかけが何であったにせよ、北海道に帰ってきて本当に良かったと 『お買い物日記』 担当者と二人、心から喜んでいるところである。