マサルノコト scene 13

過去に繰り返し書いているように、マサルは真面目を絵に描いたような男であり、真面目の前に ”クソ” がつくほどですらあった。 どちらかと言えば優等生組みの仲間で、マサルのほかに 『セイジ』 と 『ノブアキ』 という友人もいた。 マサルは生徒会の風紀委員長、セイジは生徒会副会長、ノブアキに関しては忘れてしまったが、何らかの役員をしていたはずだ。

当時は不良をしていた自分が優等生組みとも仲良くしていたのは、良く言えば一匹狼で特定の不良グループに所属せず、悪く言えば中途半端で優柔不断であるゆえに、一本芯の通ったバリバリの不良にもなれないねじ曲がった性格だったことに起因するが、マサルを介してセイジやノブアキとも親交を深めていた部分が大きい。

自分と比べると三人とも真面目な優等生ではあったが、そこはヤンチャ盛りの中学生、現代では信じられないほど厳しい内容の校則が生徒手帳に細かく記載されていたものの、それを一から十まで厳守している訳でもなく、教室や廊下を走り回ってみたり、相撲やプロレスの真似をして暴れたりして持て余すエネルギーを発散させていたものである。

中学二年当時の教室は校舎の一番端にあり、最もトイレが遠い場所でもあった。 そのトイレに行って用をたし、帰路はコースを変えて体育館を経由して教室に戻るまでの時間を競ったりもしていたが、風紀委員長という立場から廊下を走る訳にいかないマサルが時間の計測係りを務めていた。

教室の前の廊下に自分とセイジ、ノブアキの三人が並び、クラウチング・スタートの姿勢をとってマサルのゴーサインを待つ。 張り詰めた緊張感の中、マサルの掛け声と共に一斉に体が動く。 その体が伸びきった瞬間、ゴイィ~ンという奇妙な音と共にノブアキが廊下に倒れこんだ。 何事かと思ったら、少し高い位置に備え付けてあった消化器に頭を強打し、その場でのびてしまったのである。

それは幸いにも大怪我には至らず、ノブアキの頭に大きなタンコブができる程度で事は済んだのだが、ある日のこと、廊下でセイジとノブアキが相撲の真似をして遊んでいた際に事件は起こった。 自分は行司を務め、マサルは風紀委員長という立場から取り組みには参加できず、廊下にドッカリとあぐらをかいて審判役を務めていた。

「はっけよ~い、のこった!」 の合図で二人は綺麗な立会い。 両者技の応酬で一進一退の攻防が続く。 セイジがバランスを崩したところでノブアキが一気に攻めに出て上手投げをうった。 それを必至にこらえるセイジだったが、力尽きて後ろに倒れこむ。 その際、太く四角い柱に腰を強打してしまい、打ち所が悪かったのか 「あ゛~!」 という声にならない声とともに苦しみだした。

怪我の名前は忘れてしまったが、それはことのほか重症となってしまい、救急車で運ばれたセイジは入院生活を余儀なくされた。 ことの重大さに最初は青くなっていたノブアキとマサル、そして自分だったが、毎日のようにセイジが入院している病院に見舞いに行き、ゲラゲラと大声で笑っては看護婦さんに 「うるさーい!!」 と叱られたりしていた。

そんな交友関係は卒業するまで続くものだと思っていた。 いや、正確には先のことなど考えたこともなく、時はいつまでも続くような、この瞬間が過去になっていることなど気付かずに生活していた。 時が経過していることなど意識せずに毎日を過ごしていた中、突然、親の仕事の都合でセイジに転校の話が持ち上がった。 ・・・次週へ続く

本義

どうも最近は 『叱る』 と 『怒る』 を混同している人が多いような気がする。 『叱る』 とは 『たしなめる』 とか 『とがめる』 の最上級形であり、相手のことを思えばこそ、言動について良くない点をつい強い口調で指摘したり、大声になってしまったりするのであって、そこには正しい方向に導こうとする善意だったり親心が含まれるものである。

翻って 『怒る』 とは、自分が不満であったり不快なことがあって我慢できず、腹を立てて相手に文句を言ったり大声で怒鳴ったりすることであり、そこには相手に対する不満とか不快感しか存在せず、立場や将来を思いやる感情など皆無である。

よく 「上司に怒られた」 というビジネスマンがいるが、上司は部下に対して社会人としての正しい行いを強い口調で言い聞かせているのであり、間違った言動を、つい強い口調で指摘しているのだから、「叱られた」 というのが正しい表現である。

上司の言葉に 『叱る』 という本義がなく、単に会社に対する自分の立場が不利になるとか、部下の話し方、行動が気に入らないというだけで相手を思いやる気持もなく、感情に任せてグチグチ言ったり怒鳴ったりしているのであれば、そういう時にこそ 「怒られた」 と使うべきなのだが、最近はそんな馬鹿な上司も多いので、「怒られた」 と表現するのが正しかったりするのかもしれない。

「お母さんに怒られた」 という子供がいるが、親は子に対して社会人としての正しい行いを強い口調で言い聞かせているのであり、間違った言動を、ついつい強い口調で指摘しているのだから、「叱られた」 というのが正しい表現である。

親の言葉に 『叱る』 という本義がなく、単に世間体を気にして自分が恥ずかしい思いをするからとか、自分がイライラしているからとか、洗濯をするのが面倒だから服を汚すなとか、夫が気に入らないから八つ当たりしているだけで、子を思いやる気持もなく、感情に任せてグチグチ言ったり怒鳴ったりしているのであれば、そういう時にこそ 「怒られた」 と使うべきなのだが、最近はそんな馬鹿な親も多いので、「怒られた」 と表現するのが正しかったりするのかもしれない。

『叱る』 と 『怒る』 を混同しているのは、それを受ける部下や子ではなく、それをする側の上司や親なのかもしれない。 部下や子はそれを敏感に感じ取り、これは自分のためを思っているのではなく、単に感情論でしかないと察しているのかも知れない。 そして、そういう事例が多いのであれば、優秀なビジネスマンも立派な子も育ち難くなっているのかもしれない。

先週の雑感の続きになるが、「育つのを邪魔しない」 程度に、人間として、社会人として間違った言動には躾 (しつけ) という本義を忘れずに厳しく叱って、正しい方向に導く毅然とした態度が上司や親に求められているのではないだろうか。

本末転倒

ニート (NEET(若年無業者)) という言葉が 2004年に日本に上陸してから早や 3年、バブル崩壊の後遺症から抜け出したと言われる現在も、その数は 20万人程度しか減少しておらず、相変わらず社会問題として取り上げられることが多い。

最新の調査で若者がニート化する大きな要因として、親が 「自分の好きな道を進めば良い」 とか 「自分のことは自分で決めろ」 などと言い放ち、子供の将来に対して真剣に取組まないことが挙げられているが、それを見て 「何を甘ったれたことを言っているのか!」 と腹立たしくすら思った一方で、確かに子供の教育に対して自己矛盾を抱えている親が多いことに思いが巡る。

子が生まれ、幼い間は何をしても我が子は天才ではないかと喜ぶ親。 絵を描いていても親バカ丸出しで上手だと誉め、音楽に合わせて踊っていても、歌っていても、それは才能であると信じて目を細める。 子供は親に誉められるのが一番嬉しい訳であるから、ますます喜んで上達しようとする。

ところが、そんな微笑ましい光景も幼少期の終わりと共に姿を消していく。 早くは幼稚園の頃から、遅くても小学校の中学年にさしかかると絵を描いていても、歌っても踊っても、ましてや外を駆け回っていようものなら、「そんなことしていないで勉強しなさい」 と言われてしまう。

犯罪以外は何をしても悪いということはなく、むしろ人生に何らかの影響を与え、将来的にその才能が開花する可能性があるというのに、その芽は親の手によってことごとく摘み取られてしまう。 「あれをしてはいけない」 「これをしてはいけない」 と、子供を八方塞 (ふさがり) の状態に追い込んでおきながら、いざ人生を決める大学への進学とか就職の際になって 「何をしたいか自分で決めろ」 とは・・・。

才能とか可能性という翼をもがれ、「さあ、飛び立ちなさい」 と言われる子の気持はどうなのだろう。 泳ぎ方を教えられないまま、「大人になったのだから海に潜って自分で餌を探しなさい」 と突き放されたら、ペンギンだって生きて行けないだろうし、他の鳥だって巣立てない。

勉強という意味だけではなく、生き方に関する教育も含め、最近は何かが狂っているとしか思えないが、給食費を払わない親がいたり、ちょっとしたことで学校にクレームを入れるバカ親が子を育てているのだからそれも当然なのか。 中には 『義務教育』 という言葉の意味も分からず、一定水準の教育を受けさせるのは国や教師の義務だと思っているバカもいる。

確かにその一面もあることはあるが正確には、すべての親は子供に一定水準の教育を受けさせる義務を負っているのであり、そのためには給食費を払わなければならず、人の道から逸れたときは教師から殴られても仕方ないのである。

親ももう少し賢くなり、子供の可能性を信じてはいかがだろうか。

「人を育てる」 などおこがましい。
「育つのを邪魔しない」 というくらいの認識でちょうど良い。

by 岡田武史(元サッカー日本代表監督(岡ちゃん))

格差社会

参院選で自民党が歴史的大敗を帰し、安倍総理の去就に関して党内すら二分する議論が交わされており、その行く末をマスコミ各社、評論家まで様々な意見を述べるにいたり、政治的混乱とアメリカ株の暴落から東証一部銘柄も近年まれに見ぬ下げ幅を記録し、経済的にも混乱期を迎えている日本である。

敗戦の責任論として安倍総理辞任を積極的に促す議員もいるが、代わりに誰を立てたら良いのかという具体論はなく、この混乱期に本命の生太郎 (そうたろう (麻生太郎氏の俗称)) 氏をかつぐのはあまりにももったいなく、ワンポイントで谷垣氏をかつごうにも、根っからの消費税値上げ論者である彼を頭に据えると衆院選にすら大敗するのではないかという不安を払拭できずにいるようだ。

今回の参院選の総括として 『小泉改革の光と影』 と称し、影の部分である格差社会に焦点を当てて敗因とする政治家やマスコミが多く、民主党その他の政党も 『格差社会の是正』 をスローガンに選挙戦に勝ったのも事実であるため、所得格差、地域格差に目が奪われがちになっている。

確かに資本主義、自由競争社会の実現に向けて小泉純一郎・竹中平蔵の両氏がひた走り、その結果として所得格差が生じてしまったのは事実ではあるが、それを悪とするのが正論であるかは、はなはだ疑問が残り、資本主義経済における階級的不平等の克服を目的とした社会主義など成り立たないことは歴史が証明していることからも悪とは決め付けられないと思う。

我家は決して勝ち組みなどでなく、将来に不安がないほど潤沢な金融資産を保有している訳ではないが、世に言われる勝ち組み、成功者を恨んだり憎んだり、ましてや妬んだりする意識はなく、もちろん羨むことはあれど、格差が生じるのは成功者にはそれだけの才能があり、努力を怠らなかったのだと素直に認めざるを得ない部分が大きい。

法を犯してまで手荒く利益を追求した元ライブドアの堀江氏や、村上ファンドの村上氏などは厳罰に処されるべきだと思うし、「金儲けがそんなに悪いことですか?」 という村上氏の問いに関しては、「悪くはない。 ただし、正当な方法であれば」 と答えたい。

地域格差問題では地方都市、農村部、過疎地などに不満が広がり、それが多くの票を失う結果になってしまったと分析する議員も多いが、果たしてそれは小泉改革の影なのだろうかという疑問が頭をもたげ、さらに民主党だったら改善されるのかという巨大なクエスチョンマークが頭上でボヨンボヨンと音を立てて跳ね回る。

確かに地方交付税やら何やらと、税金の通り道や使い方を変えようとして、結果的にそれが痛みを伴なうことになってしまったのは事実ではあるが、それは既得権益、省益を保持しようと改革の内容を違うものに組替えてしまった役人が悪いのであり、責められるは中央官庁の公務員ではないのか。

民主党が票田である組合を意識すれば、この問題を解決する能力があるのかに大きな疑問があり、ましてや人員削減を伴なう小さな政府の実現、民にできることは民に任せる構造改革、規制緩和などの実行力があるとは決して思えず、国内外を問わず多くのエコノミストが指摘する、税金のばら撒き行政による一時的なカンフル剤的手法しかとれないような気がする。

そして、小泉改革が改悪だったのであれば、今でも多くの政治評論家、経済エコノミストから小泉待望論が出るはずがなく、海外メディアや評論家までもが小泉待望論を展開するはずがない。

従って、参院選の敗因は小泉改革の影にあったのではなく、安倍首相とその仲間達が招いた政治不信、本人はおろか自民党の支持率まで下げてしまった言動や思想にあったのではないかと思い、全責任は本人も認めているように首相にある訳だから、ここはタイミングを見計らって辞任すべきなのではないかと思う。

ただし、次の総理候補がいないという厳然たる事実に変わりはないが。