マサルノコト scene 10

今日で 1月も最後の土曜日であり、来週には 2月も始まるが、やっぱり今年もマサルからの年賀状は届かなかった。 自分から出した年賀状に 「今年年賀状が来なかったら来年から出してやらん」 と最後通告しておいたので、今年の年末にマサル宛の年賀状を投函するのを本気でやめてやろうかと考えたりしている。

元来マサルはマメな奴で、前回の雑感にも書いたように変な荷物を送りつけてきたり、scene 3 で書いたように人を楽しませることだけを目的に、留守番電話のメッセージをコマメに変えたりするのであるが、こと年賀状に関してだけはマメさを発揮することができず、一昨年まで年賀状が届いていたときも、正月が明けて数日してから届くような有様だった。

昨年からは、ついに年賀状を出すのを放棄し始め、今年で二年目になる。 誰からも送られてこなくなる可能性が高いのを自覚しつつも、どうしても出す気になれないそうなのである。 確かに付き合いが途絶えており、年賀状のやり取りくらいしか生存確認できない人に対しては、何を書いてよいのか迷ったりして面倒なものではあるが、その生存すら確認できなくなるのはいかがなものか。

それでも 1月 1日の夜に 「あけおめ」 の電話がきたのでマサルの生存は確認できている。 話す内容と言えば、いかに自分たちが歳をとり、血圧が高いだのコレステロール値が高いだのという変な自慢話ばかりである。 その他にも近況などを話し、相変わらず涙が出るくらい大笑いしている。

相当に付き合いが長くなったマサルだが、実は 1歳年上だったりする。 別にマサルが落第したりした訳ではなく、小学生の頃に大病を患い、長期入院を余儀なくされて進級できなかった訳なのである。 その存在は中学一年生の頃から知っていたが、友人関係になったのは二年生からだ。 同級生にしては凄く大人びていたのでマサルノコトを 『オッサン』 と呼んでいた。

大病を患ったなどとは思えぬくらいにコロコロしており、背も大きかったが、かもし出す雰囲気がオッサンくさかった。 おまけに家系なのか、薬の影響なのか、当時からかなりの量の白髪があったので余計にオッサンくさい。 教室の前にあった教師の机に 12色のマジックがあったので、マサルの白髪の一本一本を様々な色に塗ってクリスマスツリーのようにしてやったこともある。

自分は不良をしている真っ最中で、やんちゃなことばかりしていたのだが、マサルは妙に落ち着き払っていて、そこがまたオッサンくさい。 自分が悪いことをしようものなら、「お前な~」 と言って説教をされたり、叱られたりもした。 結果的に大きく道を誤ることもなく、一般社会に出ることができたのはマサルのおかげである部分も大きい。

常に自分より上にいてくれたので、オッサンと呼ぶに相応しい奴なのだが、どういう訳だか現在は呼び名が逆転し、自分はマサルのことを 「お前」 と呼ぶが、マサルは自分のことを 「オッサン」 と呼ぶようになってしまった。 それがいつの頃からだったか、はっきりとは記憶していない。

もしかすると、マサルが自分に対して妙な行動をとり始めた時期と一致するかもしれない。 普段は真面目な社会人であるのだが、どうやらストレスの発散場所をこちらに向けているような気がする。 人を笑わせたり楽しませたりするのが好きな奴なので、行動に拍車がかかっていたのだろう。 呼び名が変わったのと同時に立場も逆転し、マサルの奇行に対して 「お前な~」 と言っている自分がそこにいた。

最近は変な荷物が送られてくることもなく、妙な留守電のメッセージを聞かされることもなくなり、電話で話していると、お互いがお互いに対して 「お前な~」 と、ツッコミとも説教とも言える会話を続けたりしながら、年に数度の長電話で夜はドップリとふけて行くのであった。

常套手段

ここのところ、マスコミでは卒業文集を持ち出すのが常套手段となっているようだ。 何らかの事件が発生した場合、必ずと言って良いほど小学校の卒業文集を持ち出し、『幼き日の夢』 だったり当時の想いが綴られた文章を紹介する。

被害者がまだ高校生だったりした場合、「そんな夢が打ち砕かれ・・・」 と続ければ確かに悲壮感なども伝わって、加害者への憎しみが増幅されたり事故の恐ろしさを実感できたりするが、30歳にも 40歳にもなった加害者の卒業文集を見せられて、「こんな純粋な子供だったのに犯人はなぜ・・・」 などと問われても、半ば呆れながら 「知るか!」 と思わざるを得ない。

小学校時代に抱いていた夢を大人になって実現できていない人が大多数を占め、中学、高校と多感な時期を過ごして人生の荒波にもまれ、大きな挫折も成功の喜びも知った大人が小学生の頃と同じ想いで生きているはずがないだろう。 むしろ、いい歳をして幼少期と同じ思想や思考であったならば、そちらの方が問題である。

子供の頃から精神に異常が認められ、それが文章に表れている場合や、幼い頃からイジメの被害を受け、鬱積したものが一気に爆発して罪を犯してしまった場合など、明らかに関連があるのであれば卒業文集を持ち出す意味もあろうかと思うが、今の使われ方は何か間違っているような気がする。

文集だけでは飽き足らず、小学校や中学校の同級生やら恩師やらにインタビューしているのも良く見るが、それとて決定的な意味を持つものではない。 その時代を犯人がどのように過ごしたかなど何の関連もないことであって、重要なのは犯行の動機であったり、道を誤るきっかけとなった時期の交友関係だったりするのではなかろうか。

ワイドショー系の報道番組を見ていて、最近になってよく使われる言葉は 「ちょうど」 だ。 どの局、どの番組のレポーターとも、流行語のように 「ちょうど」 という言葉を連発している。 それが正しい使い方なら文句はないが、日本語として間違っているので気になって仕方がない。

事件や事故があった現場で 「ちょうど、このあたりで犯人は・・・」 などと言うが、『ちょうど』 であれば、後に続くのは 『ここ』 であり、『このあたり』 などと、ぼんやりした範囲を指して 『ちょうど』 と言わないでほしい。 ちょうど【丁度】とは、ある基準に過不足なく一致することを表す語であり、きっかり。ちょっきり。ぴったり。などと同義語であると、誰か教えてやってくれないだろうか。

そう思いながら見ると、「ちょうど、あちらの方角あたりから・・・」 とか、「ちょうど 4時 3分ごろ」 など、気になるレポートの多いこと多いこと。 あちらの方角 ”あたり” であれば、決してちょうどではないし、4時 3分はちょうどではない。 4時であればちょうどだろうし、百歩譲って 4時 3分 0秒であれば納得できる。 しかし、どちらにしても最後に ”ごろ” が付くのであれば、ちょうどではない。

我家では、卒業文集が持ち出されるたび、そしてレポーターが 「ちょうど」 と言うたびにテレビに向ってツッコミを入れるのが常套手段となっている。

身の程

オリックスが熱い。 シーズン中は何をやっているのか分からないが、ここ数年は毎年のようにオフシーズンになると話題を提供してくれる球団だ。 1月 1日付けで球団新社長に就任した雑賀氏は 「野球は素人ですが」 とか 「オリックスの選手は清原ぐらいしか分からない」 とか言っているし、しまいには 「ここ数年オリックスの野球に関心をなくしていました」 などと言い出す始末だ。

昨年 12月 7日には谷選手を巨人へトレードすることが発表されたし、今月 7日には前川投手が無免許ひき逃げで逮捕されたりと話題に事欠かないが、現在もっとも熱いのが中村紀洋氏に関する件だろう。 10日に開かれた会見で 「向こうがオリックスでプレーできないと言って来て、こちらはやむなく了解したのに、いったい彼は何を目指しているのか」 と怒気すら含んだ口調で話したという。

弁護士などを使って代理人交渉するのは契約上、言った言わないを避けるためのはずなのに、今回はそれが逆転してしまったようだ。 任せるなら最後まで任せたら良いのに、中村氏自身が記者会見で訳の分からないことを言い出したら話がこじれるのは当たり前だろう。

しかし、自分はどちらかと言えば球団側を支持する。 『男を上げた』 という言葉があるが、ここ数年の中村氏は 『男を下げる』 ことばかりやっており、自分が球団職員だったとしても呆れて交渉など続ける気にならないと思う。

かなり以前の雑感に書いた、『ファンに 1回手を振ればいくら (金) と要求する選手』 というのは中村氏のことで、急速な人件費高騰とファン離れを引き起こし、球団運営を断念せざるを得ない状況に追い込んだ張本人でもある。 2002年には FA 権を行使してメジャーに行くだの巨人に行くだの、やれ阪神に行くだのと大騒ぎしたあげく、土壇場になって近鉄に残留した。

その時から 「なんじゃ?コイツは」 と良い印象を持っていなかった彼は、2005年の 1月にポスティングシステムでドジャースへの入団を決めた。 ドジャーズは前述した 2002年の FA 権行使の際に交渉を進めていてドタキャンされた経緯があったからか、マイナー契約で年俸も近鉄時代の 10分の1 程度という屈辱的な内容での契約となったのは当り前だ。

メジャーで通用するはずがないと思っていたら、オープン戦でこそ少し活躍したものの開幕ではマイナー行きを通告され、 「納得できない」 「オファーがあれば日本も含めて考えたい」 と、過去にドジャーズを裏切った自分を棚に上げて吠えまくること吠えまくること。 彼には期待に応えるとか屈辱的内容とは言え行き場のない自分を救ってくれた恩に報いるなどという気持はないらしい。

シーズンも終盤に差し掛かった頃、中村選手は 「誘われているうちが華だし、日本の球団からそういう話があれば考える」 と翌季の日本球界復帰を示唆し、古巣の近鉄と合併したオリックスが、さしたる実績を残せなかった彼に対して 2億円も用意して呼び戻してくれた訳だ。

本来ならここで頑張るのが筋というものだろうが、昨シーズンはろくな成績を収められなかった。 スポーツ選手には波があり、良くないシーズンもあるので、そのこと自体は責めるべきではないだろうが、我が身を救ってくれた球団の期待に応えられなかったのだから 60%の減額もやむなしと諦め、来期に活躍して大幅な年俸アップを勝ち取れば良いのである。

それをガタガタと文句を言うから呆れられる。 おまけに自分で代理人交渉を選択していながら真意が伝わらないとは何事か。 ここまで男を下げると愛想もこそも尽きてしまい、顔を見るのも鬱陶しい。 12日、オリックスの退団が決定したが、今日現在はどこの球団も 「いらない」 と言っているらしい。 彼の野球生命が終わるかもしれない危機的状況ではあるが、同情する気にすらなれない。

やはり人というのは身の程を知って、謙虚に生きなければいけないのである。

年末年始食事情

毎年のように同じことを繰り返しているのだが、今回の年末年始も腹が割れるかと思うくらいに飲んで食べた。 それでも少しは学習機能が働き、作る料理の量を減らしたので、動けなくなるくらい腹に詰め込むようなことはしなかったが、それでも腹十一分目になるまで食べたのは事実だ。

以前の雑感にも書いたが、出されたものは残さず食べるという教育を受けてきた。 「難民の子は食べたくても食べられないんだから残さず食べなさい」 などと良く言われ、心の中では 「難民の子だって腹一杯になったら残すわい」 と毒づいたりしていたが、その教育はしっかりと身についてしまっているようで、どんなに腹がきつくても食べきってしまうのである。

上と同じ雑感にも書いていることだが、我家では御節の大半を手作りにしているので、年末の仕込みは大仕事になってしまう。 29日から下準備を始め、30日には日持ちする料理を作り始める。 今年は 『お買物日記』 担当者が食べきれなかった栗を甘露煮にしてあったので、12月 29日に開封してみたところ何も問題なく、それで栗きんとんを作ることになった。

年末には親類から海産物が送られてくるので、それも御節として食べる。 近所のおじいちゃんが育てた立派な大根も毎年いただくので、なますやら雑煮やらに使わせていただいている。 2-3年前から知り合いの方が自身でついた餅をくださるので、今年は既製品の餅を買うのをやめた。 果物は義兄が送ってくれたオレンジがあるし、知り合いの方からミカンもいただいたので買う必要がない。

こうしてみると、主要食材の多くを頂き物で補っている我家は、正月用の買出しといっても年に一度の卵とか、正月らしいカマボコなど、限定されたものだけになる。 ニンジンだの竹の子だのは普段から使うものなので特別な気合いを入れて購入するものではない。 ありがたいことに、親類や知り合いの方のご好意で成り立っている正月なのである。

そして 31日は朝から気合を入れて調理にとりかかる。 何度も書いているが、過去に厨房でのバイト経験がある自分は、御節料理を作る戦力としてしっかり組み込まれているので、ひたすらに材料を切り刻む。 立ちっ放しでヒザがガクガクしてくるが、作業の手を休める訳にはいかない。 そんな調子で、いつも 19:00 までには全ての料理が出来上がる。

普通の家庭であれば、そこで 「お疲れさん」 となり、ゆっくり紅白でも観ながら 『年越しそば』 を食べて終わるのだろうが、我家には出来上がった料理を目の前にして翌日まで我慢する精神力の持ち主がおらず、大晦日の夜から食べ始めてしまう。 19:00 から食べ始め、すでに腹に隙間がないくらいになっているのに、年を越す前に蕎麦を流し込む。

毎年が同じことの繰り返しなので、四日分の御節料理と三日分の雑煮の準備をしておく。 あとは、ただひたすらに飲んだり食べたりして大晦日の夜と正月三箇日を過ごす。 それも冒頭に書いたように、腹一杯を通り越して腹十六杯まで食べるのでコロコロに太りそうなものだが、炭水化物の摂取量が少ないからか、気にするほど体重は増えないようだ。

年齢とともに品数は同じでも作る量は少なくしているが、今年の大晦日から来年の正月も 「おいしい、おいしい」 と自画自賛モード全開で食べまくる年末年始になるのだろう。