常套手段

ここのところ、マスコミでは卒業文集を持ち出すのが常套手段となっているようだ。 何らかの事件が発生した場合、必ずと言って良いほど小学校の卒業文集を持ち出し、『幼き日の夢』 だったり当時の想いが綴られた文章を紹介する。

被害者がまだ高校生だったりした場合、「そんな夢が打ち砕かれ・・・」 と続ければ確かに悲壮感なども伝わって、加害者への憎しみが増幅されたり事故の恐ろしさを実感できたりするが、30歳にも 40歳にもなった加害者の卒業文集を見せられて、「こんな純粋な子供だったのに犯人はなぜ・・・」 などと問われても、半ば呆れながら 「知るか!」 と思わざるを得ない。

小学校時代に抱いていた夢を大人になって実現できていない人が大多数を占め、中学、高校と多感な時期を過ごして人生の荒波にもまれ、大きな挫折も成功の喜びも知った大人が小学生の頃と同じ想いで生きているはずがないだろう。 むしろ、いい歳をして幼少期と同じ思想や思考であったならば、そちらの方が問題である。

子供の頃から精神に異常が認められ、それが文章に表れている場合や、幼い頃からイジメの被害を受け、鬱積したものが一気に爆発して罪を犯してしまった場合など、明らかに関連があるのであれば卒業文集を持ち出す意味もあろうかと思うが、今の使われ方は何か間違っているような気がする。

文集だけでは飽き足らず、小学校や中学校の同級生やら恩師やらにインタビューしているのも良く見るが、それとて決定的な意味を持つものではない。 その時代を犯人がどのように過ごしたかなど何の関連もないことであって、重要なのは犯行の動機であったり、道を誤るきっかけとなった時期の交友関係だったりするのではなかろうか。

ワイドショー系の報道番組を見ていて、最近になってよく使われる言葉は 「ちょうど」 だ。 どの局、どの番組のレポーターとも、流行語のように 「ちょうど」 という言葉を連発している。 それが正しい使い方なら文句はないが、日本語として間違っているので気になって仕方がない。

事件や事故があった現場で 「ちょうど、このあたりで犯人は・・・」 などと言うが、『ちょうど』 であれば、後に続くのは 『ここ』 であり、『このあたり』 などと、ぼんやりした範囲を指して 『ちょうど』 と言わないでほしい。 ちょうど【丁度】とは、ある基準に過不足なく一致することを表す語であり、きっかり。ちょっきり。ぴったり。などと同義語であると、誰か教えてやってくれないだろうか。

そう思いながら見ると、「ちょうど、あちらの方角あたりから・・・」 とか、「ちょうど 4時 3分ごろ」 など、気になるレポートの多いこと多いこと。 あちらの方角 ”あたり” であれば、決してちょうどではないし、4時 3分はちょうどではない。 4時であればちょうどだろうし、百歩譲って 4時 3分 0秒であれば納得できる。 しかし、どちらにしても最後に ”ごろ” が付くのであれば、ちょうどではない。

我家では、卒業文集が持ち出されるたび、そしてレポーターが 「ちょうど」 と言うたびにテレビに向ってツッコミを入れるのが常套手段となっている。