2001年 9月
小ネタ集 小ネタ集
世の中なんだか騒がしい。真剣に考えなければいけないことも多いが、あいも変わらずつまらないことを気にしたり、考えているのである。そこで今回は細々としたことを一まとめにしてみることにした。
○ 変化
いきなりだが GLAY(グレイ)が嫌いだ。彼らの曲はどれを聴いても同じに聞こえるからである。FM放送などで GLAYの特集をしていると、ずっと同じ曲が流れているように感じてしまう。メドレーを作る時は苦労しなくてすむに違いない。どの曲のどの部分からでも他の曲に繋がりそうである。
ところが、今回の新曲「ひとひらの自由」は今までのパターンを打ち破り、芸風を変えている。従来の GLAY臭さがないのである。初めて聞いたとき「ほぉ」と感心してしまったのだが、だからといって急に GLAYファンに転身したわけではない。
好き嫌いは別にして、新しいことに挑む姿勢には感心しいたのであるが、どこかのサイトで GLAYファンの感想が分かれて物議を醸しているらしい。肯定派は新しい曲調に挑戦したことを評価している。否定派は「こんなの GLAYらしくない」「今までの曲調が好き」ということらしい。
これはどのような心理なのだろう。その人(グループ)が好きだから、その人がすることを盲目的に肯定するというのは良くないが、変化を恐れるのもどうかと思う。日本人には安定志向型が多いのだろうか。社会の仕組みが変革しようとしている時、その変化に日本人はついていけるのだろうか・・・。などなどと考えてしまうオッサンなのであった。
○ ひらがな
最近は日本語変換も賢くなり、こうやって文書を作成するのも効率的になってきた。以前はひどいもので、「ワープロソフト」を「ワープロ祖父と」などと変換する始末だった。「ローマ字入力」でも「カナ入力」でも、はじめは「ひらがな」を表示し必要な部分を漢字に変換するわけだが、以前から不思議に思っていることがある。
それは「地面」や「地震」などの「地」である。「地」は「大地(だいち)」「地球(ちきゅう)」の「地(ち)」であるわけだから、地面は”ぢめん”、地震は”ぢしん”となるのでは?と思うのだ。実際には”じめん”と”じしん”が正解で、辞書を含めてそのようになっている。
おなじ「ち」であっても、それが「血」となると「ぢ」が正しくなる。「鼻血」は”はなぢ”であって”はなじ”ではない。「身近」も”みぢか”である。ひらがなで「ち」と書くものに濁点が付くと「ぢ」になるはずなのに、何ゆえ「地面」「地震」の「地」は「ぢ」ではなく「じ」なのか不思議でしかたない。
○ 若い芸能人
老化が進んでいるのか、最近の芸能人を見ても誰が誰なのか判別できなくなってきた。個人で活躍している芸能人なら分かるが、団体になるとさっぱり分からない。
離散集合を繰り返し、増殖している「モーニング娘。」などは、もう誰が誰なのか分からない。以前からのメンバーなら、かろうじて判別できるのだが、ある時期以降に加入したメンバーは顔と名前が一致しない。
ジャニーズ系もお手上げである。ジャニーズ事務所所属のタレントの写真をバーッとぶちまけ、グループごとに集めよなどと言われたら、SMAP、KinKiKids、TOKIOくらいが限界で、その他はまったく自信がない。
バンド系も同様で、メンバーを集められるのはサザンオールスターズくらいのものである。それ以外のバンドはボーカルと個性のあるメンバー程度は仕分できると思うが、地味な存在も含めてメンバーを完成させることなど不可能だと思われる。
若い世代の人たちは、苦もなく判別できるのであろう。こうやって少しずつ「オッサン化」していくのを自覚して悲しんでる。
・・・と、相変わらずくだらないことをぼーっと考えている 2001年の秋なのである。
2001 / 09 / 30 (日) ¦ 固定リンク
夏の想い出 夏の想い出
暑さ寒さも彼岸までというが、本当に、それも急激に涼しくなった。以前から思っていたのだが、大阪には”過ごしやすい”季節というものがない。昨日まで「暑いな〜」と思っていたのに今日はもう涼しかったり、「寒いな〜」と思っていたら次の日はすでに暑くなっているような気がするのだ。
記録的な猛暑も過ぎ去り、これからは一雨ごとに秋が深まっていくのであろう。タイトルは「夏の想い出」としたが、とことん出不精な我が身に一夏の想い出などできるはずがない。ましてや今年の夏などは”暑かった”という記憶しか残っていない。
今は「このザマ」であるが、若い頃はそれなりに夏を楽しんでいた。色々な時代のそれなりの「夏の想い出」が一緒くたになって記憶として残っている。どの記憶がどの時代のことなのか忘れてしまったが・・・。
海に遊びに行くときは渋滞に巻き込まれるのがイヤだったので、前日の夜 10時くらいに出発する。夜中に到着し、適当に腹ごしらえをして酒を飲みまくるのだが、その酒の量が半端ではない。出発してすぐにコンビニで氷を 5袋くらい購入し、クーラーボックス(魚釣りなどで使う保冷用の入れ物)に袋から出したすべての氷を入れておく。
暑い季節は”現場”に到着すると、その氷が半分以上溶けているので、その中に直接ウイスキーをボトル 3本程度ドボドボと入れ、巨大な水割りを造るのである。あとはコンビニで用意した紙コップをその中に突っ込み、すくって飲むと何度も水割りを造らなくてすむという、誠に効率的であり合理的かつ、ワイルドな方法だった。
酒が進むと訳の分からないことになってくる。遠く離れた給水所まで「佐川急便やります!」と宣言し、下着(ブリーフ)を後ろでつまみ”ふんどし”のようにして走って水を汲んでくる奴あり、ペースを考えずに飲みまくり、砂浜に穴を掘ってその中に頭を突っ込んで吐いている奴あり。
ある時など酔って暴れている間に車の鍵を落とした奴もいる。「この広い砂浜で車の鍵を探すなんて、砂浜で鍵を探すようなものだよな〜」などと支離滅裂なことを言いながら 1時間ほど探したが、結局は見つからなかった。
前日の夜にそれだけ酒を飲み、大騒ぎするものだから翌日は午後まで浜辺で寝ている。目が覚めた時、周りは海水浴客だらけで、ボロボロになっている我々を怪訝そうな顔で見ているのであるが、そんなことは気にせず、のそのそと起きて遊び始める。
最初は普通に泳いでいるのだが、そのうちに飽きてしまい、面白いことはないかと考えた。その時に思いついた遊びが「人間ロケット」で、3人が胸くらいの深さの場所に行く。2人が向かい合い、両手で輪を作る。輪を作るといっても頭上ではなく下に向って各々が手を組んで輪を作り、その手にもう 1人が足を乗せる。1人の手に片足、もう 1人の手にもう片足をのせるのである。
水中なのであまり重さを感じない。準備が整ったら”発射台”となった 2人が腰をかがめ”ロケット”となった 1人も腰を落とす。3、2、1、0 のカウントダウンとともに、”発射台”の 2人は思いっきり”ロケット”を持ち上げ、”ロケット”は思いっきりジャンプする。すると、地面では想像もできないほど高く飛び上がることができるのである。
やっている方は楽しいのだが、海岸から見ていた人たちは相当に驚いたらしい。なにせ何もないはずの水面から、いきなり人間が飛び出してくるのである。みんなが指をさしてこちらを見ているので、調子に乗って空中で回転したり、バック転したりして拍手喝采を浴びたこともある。
ある時は浜辺で鉄板焼きをしようということになり、ジャンケンでそれぞれ調達する係を決めた。ある者は”肉”の調達、ある者は”野菜”、ある者は”炭(すみ)”と分担を決め、それぞれが”材料”を調達して海に出かけた。現場に到着し、いざ食事となったのだが”鉄板”の調達係が肝心の”鉄板”を忘れてきたのである。
「鉄板がなくて鉄板焼きができるはずがなかろう」と本人を罵り、「責任をとれ」と言って”鉄板係”の車を解体し、ボンネットを外して火の上にのせた。”鉄板係”は「あ〜っ!」と叫んでいたが、なにせ大量の酒が入っているので「どうでもいいや」と言いながら鉄板焼きならぬボンネット焼きを美味しそうに食べていた。
食べ終わると”ボンネット”を海水でジャブジャブと洗い、車に装着しておいた。後日、新車を買うことになり、下取りのためその車を査定してもらったところ、査定の最中に「ここ、どうしました?」と担当者がさわったとたんにボコッと穴があき、肘まで入ったとのことであった。
今でもたまに無茶をしていた頃を思い出し、後先を考えずに暴れたり、騒いだりしてみたいと思うのだが、翌日のことや仕事のことを考えると、恐ろしくて実行できないオッサンがここにいたりするのである。
2001 / 09 / 23 (日) ¦ 固定リンク
正義とは 正義とは
アメリカで大変な事件が起こってしまった。雑感で扱うにはヘビーな話題だが、今週はこの話題を避けて通ることはできないし、いろいろと考えさせられることも多かった。
結論を先に述べると、背景に何があろうとも”テロ行為”は許されるものではない。犯した罪そのものは厳格に裁かれるべきである。ただし、その”裁き”の手段が報復攻撃となると少し疑問を感じてしまう。
今日現在のところ、アフガニスタンに潜伏しているオサマ・ビンラディン氏が今回の事件に関与したのではないかと報じられている。仮にそれが正しいとすれば、ビンラディン氏がなぜ今回のテロを起こした(指揮した)のか。
事実関係もはっきりしていないし、専門家でもないので詳しいことは分からないが、背景には宗教、経済、覇権争いなどの利害関係が潜んでいるものと思われる。ブッシュ大統領は「正義と悪の戦いであり、正義は必ず勝つ」と述べているが、そもそも”正義”とは何であろうか。
テロ行為に荷担する気も弁護する気もないが、イスラム原理主義者側にとっては自分達こそ”正義”であり、アメリカは”悪”ということになる。そもそもアメリカ政府がイスラエルによるパレスチナ人に対する弾圧を支持・容認していることは本当に”正義”なのか?
かつてのイラン、イラク戦争では「侵略行為許すまじ」という”正義”を盾にアメリカ(正確には多国籍軍)が戦争に介入し、湾岸戦争へと発展した。「侵略行為を許さないはずのアメリカがイスラエルを支持するとは何事ぞ!」とパレスチナ人とイスラム世界全体が反米感情を強めてテロにつながったというのが、あらすじだと解釈している。
弾圧されているパレスチナにとってはイスラエルを支持し、経済的にも援助している(と言われている)アメリカこそ”悪”であり、自分達は”正義”なのである。一歩引いて見ると、その論理が正しいのかをある程度冷静に考えることができるが、当事者に冷静さを求めるのは困難なことだ。かつての日本がそうであったように・・・。
真珠湾攻撃に端を発する第二次世界大戦では、奇襲攻撃を仕掛けてきた日本を”悪”とみなし、アメリカ国民の士気を高めて国民が一丸となって戦争に参加した。しかし、日本側からみると、アメリカが日本に対して仏領インドシナからの全面撤退など、当時の日本政府がのめない条件を最後通牒として突きつけたことを受けた、日本側のリアクションとして起きている。
日本にとっては無理難題をふっかけて、それを受け入れないなら攻撃すると言ってきたアメリカこそが”悪”であり、日本は”正義”だったわけである。
そもそも、アメリカは「奇襲」といっているが、真珠湾攻撃にしても今回のテロ行為にしても、事前に察知していた”フシ”がある。奇襲攻撃をあえて受け「卑怯者」の烙印を相手に与えて自国を正当化するのが”いつもの作戦”のような気がする。
ただし、真珠湾攻撃も今回のテロ行為もオーバーキル(やりすぎ)だった事はいなめない。さらに、どういう場合においても人の命を奪うことは良くないことである。
もう一度くり返すが背景がどうであれ、テロ行為はやはり許されるものではない。首謀者(組織)は裁きを受けるべきであろう。しかし、面子(メンツ)や利害関係だけで戦争を始めるべきではない。「正義のための戦い」「聖戦」などとキレイ事を言っても、利己的な感情論で行う戦争などに”正義”が存在するはずがない。
それでも、今回の件に対する”報復攻撃”は必ずあるであろうし、それを避けることはできないのであろう。
事故現場では多くの犠牲者が出ている。危険をかえりみずに救助にあたっていた警察官、消防士がビルの倒壊に巻き込まれて死亡したり、行方不明になっている。倒壊した国際貿易センタービルにあった富士銀行で行方不明になっているのは経営陣クラスの役員が多い。まず、現地採用した職員を避難させ、次に若手社員を避難させたという。
危機が迫ったときに、現場の責任者として「我先に」などという利己的な感情を捨てて職員の安全を優先した結果だと思う。命をかけてまで人を救出する人々、命をかけてまで人を先に避難させる人々がいると思えば、感情論だけで行動する人々もいる。
今回の事件は、本当の意味での”正義”とはなんぞや?と真剣に考えさせられた事件だった。代償を求めず、利己主義的な感情をすてて行動した多くの行方不明者が生存している確率はきわめて少ないと思われるが、奇跡を願わずにはいられない。
今こそ宗教の壁をこえて祈るべき時なのかもしれない。
2001 / 09 / 15 (土) ¦ 固定リンク
謝辞 謝辞
挨拶が遅れてしまったが、9/1をもって当ホームページ公開から丸1年になった。ご覧頂いている方々に対して、ただただ感謝するしだいである。
まだ1年という気もするし、もう1年もたったのかという気もしている。長いようで短く、短いようで長い不思議な感覚で公開1周年を迎えた。
表には出していないが内部でカウンターが作動しており、アクセス数を知ることができるようになっている。公開当初は1日の最低アクセス数が 2件などという情けない状況だった。友人関係にはホームページを公開したことを知らせたのだが、千里丘どころか大阪府民でもないため、初日に見てくれた程度なのである。
YAHOO! を代表とする検索サイトでも検索の対象となるまでには1か月程度の時間を要するため、ホームページの存在を誰にも気付いてもらえない。とくに宣伝活動をしたわけでもないのでアクセス数が少なくて当然なわけであるが、少々気が萎えてしまったのも事実だった。
それでも気を取り直し、「たとえ1人でも見てくれる限り、毎日更新しよう」と”お買物日記”担当者と慰めあっていた。「千里丘住民、主婦に役立つこととはなんぞや?」という課題に取り組みつつも、「個人で運営しているのだから何でもあり」と開き直って公共性を無視した”雑感”や”お買物日記”などを細々と続けていたわけである。
そんな状態で始めたため、1か月単位でもアクセス数が 300件、1日当りでは 10件程度だったのだが、最近では1か月で 2000件近い数字を記録するようになった。もちろん、日に何度もアクセスする人や毎日のようにアクセスする人もいると予想されるため、2000人が見ている訳ではないが、運営する側にとってこんなに心強いことはない。
「たとえ1人でも・・・」と決意はしていたが、やはり多くの人に見ていただくほうが”やりがい”があるのは当然のことである。相変わらず宣伝活動などを怠っているのだが、口コミで広がっているのが実感できるし、「知り合いに教えてもらった」などとメールを頂くこともある。見てもらうだけでもありがたいのに、紹介までして頂くとは・・・。お礼の言葉も思いつかないくらいに心からありがたいと思っている。
当ホームページは地域に密着した情報と毎日の買得情報を特徴とし、1円でも安く買い物をしたい”倹約主婦”を応援するつもりで、新聞の折り込みチラシを基に販売価格の一覧を作成したりしているのだが、この”新聞の折り込みチラシ”というのが”クセモノ”なのである。
情報を入力してホームページを更新するためには、新聞が配達されるのと同時に作業を始めなければ”朝”に間に合わない。必然的に更新担当者は早朝(5:30)の起床を余儀なくされ、脳が半分眠った状態でポコポコとキーボードを打っている。
昔の”日本の朝”といえば、主婦(母親)が朝食を作るため「トントン」という包丁がまな板に当る音が定番だったが、我家ではポコポコ、カチャカチャというキーボードの音が毎朝の定番となっている。
話を元に戻すと、当ホームページは”近所”の”主婦”に支えられて継続しているのであるが、この雑感では女性(とくにオバチャン)に対する批判に近いことを書くこともあるので、正体がバレると半殺しの目に合うのではないかと怯えたりしている。
あまりにも近所の情報に特化しているため、いつかきっと正体がバレると思っているが、万が一目撃するようなことがあっても、決して石など投げつけないで頂きたいと切に願っている。
このホームページは、不慮の事故に見まわれるか、何らかの事情によってこの町を出るまで続けていきたいと考えている。初心を忘れず、たとえ1人でも見てくれる人がいる限りは更新作業を継続するつもりでいる。個人の運営であるがため法事などで休むことがあっても、それはそれで温かい目で見守っていていただければと思う。
ここまで支えていただいた方、口コミで広げていただいている方、掲示板に積極的に参加して頂いている方々に、重ねてお礼を申し上げつつ、今後も当ホームページをご覧いただくことを願いながら次の1年を無事に迎えたいと考えている。
2001 / 09 / 09 (日) ¦ 固定リンク
視力 視力
今日は最高気温(室温)も30度と、少し涼しくなってきたようだ。今年は残暑が厳しいと伝えられていたので覚悟していたのだが、意外に早く秋が深まりそうだと気象庁が予報を訂正している。
暑さが苦手な自分にとって涼しくなるのは嬉しいことだが、去り行く夏を惜しんでいる人もいるのだろう。季節が秋に移り変わるとなんとなく寂しい気分になってくるのもまた事実である。しかし、これからは食欲の秋、読書の秋なのである。夏の間は食欲がなかったので、これからは欲にまかせて腹を満たし、コロコロに太って冬の寒さに備えようと思っている。
もうひとつの読書に関しては、季節が秋だから「本を読もう」とかは思っていない。本を読むのが嫌いではないので、季節に関係なく年中同じペースで読んでいる。
通勤電車の中、電車を待つホーム、寝る前の布団の中が主な読書の時間となっている。そこで不思議に思うのは、すでに”おっさん”になっているのに視力だけはそれほど悪くなっていないことである。当然のことながら体力などなどは衰えているのだが、いまだに遠くのものも近くのものも苦労せずに見ることができる。
コンピューター業界に入って20年近くになるので、毎日8時間以上はパソコンの画面を見つづけている。さらに、始まりがゲーム業界だったこともあり、自宅でも TVゲームに興じていた。大作ゲームなどは眠くならないように、わざわざカフェインを主成分とした薬まで飲んで徹夜して遊んでいたのである。
目に良くないと言われることばかりしているのに数年前まで視力 2.0を誇っていたので、目が良くない人の気持ちや、その感覚が理解できない。「遠くや近くのものが見えない」の「見えない」とは、どう見えないのか。暗くて見えないときと同じような状態なのか、霧の中でぼやけて見える状態なのか、さっぱり分からないでいる。
メガネやコンタクトをしている友人に「見えないとはどういうことか」と質問攻めにして嫌がられたこともある。うるさがられようが、嫌な顔をされようが、理解できないので彼らには遠くのものがどのように見えているのか知りたくてしかたなかった。
若い頃はメガネにあこがれて、視力 2.0のくせに「だてメガネ」をかけていたこともある。メガネをしている方が理知的に思えたからである。しかし、メガネは思いのほか邪魔なものだった。
第一に慣れないせいなのか鼻や耳が痛い。そのうちに気にならなくなると思っていたのだが、だんだんと頭まで痛くなってくるような気がした。第二にメガネが飛んでしまうのではないかと思い、頭をプルプルしたり激しい運動をすることができない。自分にメガネは向かない!と判断し、3か月程度で「だてメガネ」をやめてしまった。
そう考えると、目の良くない人はメガネ、コンタクトを使用していることに毎日わずらわしい思いを強いられているのであろう。とくにコンタクトは眼球への出し入れ、洗浄などを含む手入れなど大変だと思う。
特に根性なしの自分は、眼球に異物を挿入するなど恐ろしいことである。コンタクトを入れるためとはいえ、自分の指がどんどん眼球に近づいてくることを想像しただけで、目がシバシバしてしまうため、手入れのわずらわしさよりも先に使用すること自体が不可能なものと思われる。
ものぐさな自分には毎日の手入れもできそうにないのでコンタクトは向かない。体(顔)に馴染まないのでメガネもパスしたい気分である。そうなると、今の視力を維持するしかないのであるが、あいも変わらず毎日パソコンの画面を見続け、以前より時間は少なくなったとはいえ TVゲームもやり続けている。
過去には憧れたりもしたが、今となってはコンタクトもメガネもしたくはない。しかし、視力が落ちない人は老眼になるのが早いと言われているので、ある日突然のように読書に支障をきたすのかもしれない。
いつまでも視力を維持できるとは思っていないが、一日でも長くコンタクトやメガネの世話にならずにいられるよう、今は切に願ったりしているのである。
2001 / 09 / 02 (日) ¦ 固定リンク