先々週の雑感でも触れたが、最近はどんどんカタカナに弱くなってきている。自分より上の年代の人にとっては昔からだったのかもしれないが、最近は特に多くのカタカナが使用されているように思えてならない。ただでさえ物覚えが悪くなっているのに新しいカタカナがどんどん増えるので、ともすると会話について行けない事態にもなりかねない。
スポーツの中継もそうである。野球、サッカー、ゴルフやテニスなどは元々が外国の競技なのでカタカナなしでは中継も困難だと思われるが、駅伝や柔道など日本生まれの競技でさえ 「前半のスプリットタイムが・・・」 とか 「技をかけるタイミングが・・・」 などとカタカナが溢れている。
仕事がコンピュータ業界であるため、普段の会話もカタカナ抜きでは成り立たない。好むと好まざるとに関わらず、耳に入ってくるし、使わざるを得ないのが現状である。しかし、最近は 「何もそこまで・・・」 と言いたくなるほど、まるで義務でもあるかのように無理にでもカタカナを使っているような気がする。
単に 「新発売」 と言えば良いものを 「now on sale(ナウ・オン・セール)」 だの 「in stores now(イン・ストアーズ・ナウ)」 などと格好つけているが、それが洋画の DVD とかならまだしも、コテコテの邦画だったりすると、「なぜ日本語で言えない」 と問い詰めたくなってしまう。最近になってよく使われるカタカナは意味は解っていてもアホらしくて使う気にならないことも多い。
コラボ(コラボレーション) : collaboration(共同、協力、合作、共同制作)
テレビ CM のコラボ企画だのアーティスト同士のコラボレーションだのといった具合に使用される。缶コーヒーの BOSS と富士カラーが共同でテレビ CM を製作したり、あるブランドと商品のメーカが手を組み、商品の懸賞でブランド品が当ったりする企画などや、別々のグループに所属するアーティストが組んで CD を発売したりすることだが、素直に共同企画、合作と言えば良いと思う。
ユニット : unit(集団、一団、構成単位)
『モーニング娘。』 の一部が 『ミニモニ。』 や 『プッチモニ』、『タンボボ』 などとして活動するときなどにユニットと表現される。最近では企業でも小さな集団を 『課』 とか 『係』 と呼ばずに BU(Business Unit(ビジネス・ユニット))と呼ぶところが多くなってきた。
アーティスト : artist(芸術家、美術家、芸能人、達人、名人)
これは以前からよく聞く言葉だが、最近は使い分けされているようで、歌手であっても作詞、作曲を自分で手がける人をアーティストと言い、他人の曲を歌う人はアーティストに分類されないらしい。さらにカタカナの発音もアーティストではなく、アーチストと言うことが多くなってきた。
フィーチャー : feature(目だつ点、特徴、特質、要点、特集する)
単に 「(〜バンド名〜)特集でした」 と言えば良いものを 「(〜バンド名〜)をフィーチャーしてお送りしました」 などと、まどろこしく表現する場合に用いられる。
ポジティブ : positive(上向きな、有望な、積極的、肯定的、建設的)
「前向きな考え方ですね〜」 = 「ポジティブ・シンキングですね〜」。
ネガティブ : negative(否定的な、消極的な、特色のない、ぱっとしない)
上記 ポジティブの逆。
セレブ : celeb(名士、有名人)
名士や有名人ではなくても、ちょっと金持ちそうに見えたり、優雅っぽく暮らしている人を指すらしい。
ハイソ(ハイソサイエティー) : high society(上流社会の人々、社交界)
上記 セレブ と大差なく使用される。
カリスマ : charisma(人を引きつける強い魅力、特殊な統率力、教祖的指導力)
最近は聞かなくなったが、以前はよくカリスマ美容師などと表現されていた。しかし、使い方を間違っているようで、別に統率力や指導力があるのではなく、単なる人気者だったように思う。
ケータリング : catering(仕出し、配膳)
最近になって良く聞くようになった。ケータリングの弁当などと言われるが、日本語の意味である仕出しと、お弁当屋さんやピザ屋さんの宅配とどう違うのかさっぱり解らない。
いろいろと例を挙げているうちに長文になってしまったが、これらのカタカナは半分バカにして使うことはあっても、実生活では使いたくもない。使っている人の感覚で本来もっている意味とは違う場面で使われることもあるため、ヘタに使うとバカにされてしまうのではないかという多少の恐怖心もあるのは事実だが。
そういえば昔、知り合いが別の知り合いの彼女を評して 「エスニック(ethnic(民族的な、異国の))な顔立ち」 と言ったことがある。エスニック料理というのは聞いたことがあるが、エスニックな顔立ちとは聞いた事がない。どうやら 「エキゾチック(exotic(異国風の、魅惑的な))な顔立ち」 と言いたかったらしい。やはり安易にカタカナは使うものではない。
桜の季節も終わり、暖かい日が続いている。先々週の土曜日に極近場に桜を見に行ったが、木々がまさしく桜色に染まり、花が場所を争うように咲き誇っていた。風に吹かれて花びらが舞い、なんとも風情豊かな情景だった。「桜は真下から見るのが一番美しい」 と聞いたので木の下にもぐりこんで見上げて見たところ、抜けるような青空と淡いピンクのコントラストがまことに見事であった。
桜が日本人に愛されるのは、その美しさに加えて 「散る」 潔さがあるからかもしれない。『同期の桜』 という軍歌があるが、「咲いた花なら 散るのは覚悟 見事散りましょ 国の為♪」 などと、自分も含めて現代の若者にはとうてい受け入れられないような歌詞である。しかし、戦争当時は散ることの潔さを誇りに若者達が戦場へ旅立ち、帰らぬ人となった。
花の終わりの表現も色々あり、椿(つばき)は 「落ちる」、梅は 「こぼれる」 そして桜は 「散る」 のだそうだ。それ自体も風情のある日本語だが、落ちたり、こぼれたりするのではなく離れ離れを意味する ”散る” という言葉を人生の終わりに選ぶ日本人も風情のある民族だと感心してしまう。
とかく日本人は 『散りぎわ』 に美学を求めることが多い。スポーツ選手、芸能人などの引退も本人の想いとは無関係に 「散りぎわが見事」 だの 「あざやかな引きぎわ」 だのと周りが勝手に評価する。確かに 「まだいたの?」 と聞きたくなるような芸能人もいるし、妖怪のような政治家が居座っているため若返ることができない政界などを見ると 「散りぎわを考えた方が・・・」 などと思ってしまうのも事実ではある。
したがってホンダの創業者である本田宗一郎氏、ソニーの創業者である盛田昭夫氏が 「老害(ろうがい)になる前に」 と経営から身を引いたことが高く評価されたり、最近では相撲の横綱 貴乃花の引退が 「きれいな散り方」 と評価されたりしている。バブル期に過剰な投資をして会社を借金まみれにした爺さんが銀行から債権放棄をしてもらってまでふんぞり返っているのとは訳が違うということなのだろう。
何かと美しく風情のある情景や言葉の多い日本だが、肝心の日本人はどんどん風情や情緒を失ってしまっているような気がしてならない。日本人(個人)はいつから利己的で傲慢になってしまったのだろう。昔はもっと奥ゆかしく謙虚であったはずである。
家族の話をする時でも妻のことは 「うちの愚妻が」 「できの悪い女房で」 などと、夫のことは 「うちのやどろくが」 「甲斐性なし」 と、息子は 「できそこない」 「バカ息子」、娘は 「じゃじゃ馬が」 などと、本心とは別に謙遜の意味と愛情を込めて呼んでいたはずである。ところが最近では、特に自分の子供のことは自慢こそすれ悪く言う親には御目にかかったことがない。
ドイツに駐在していた人が現地の人に奥さんを 「うちの愚妻です」 と紹介したところ周りが凍り付いてしまったという話を聞いたことがある。それはドイツに身内のことを悪く言うという文化がないためであるが、日本はドイツと違う。先にも述べたとおり、たとえ悪く言ってもそこには謙遜と愛情が込められているのである。たしかに面倒なこともあるが、そういう奥深いところが日本語や日本人の良いところだと思う。
ピカピカのブランド品の服を着せ、髪を染めた子供を連れてすまし顔で歩いている親をよく見るが、子供には高級な服よりもドロだらけになって遊べる服がよく似合う。砂ぼこりを上げながら走り回り、木に登って擦り傷だらけになった手や足が子供の勲章である。おしゃれをさせているのは親の自己満足でしかないような気がする。親が気にするほど人は他人の子供など見もしなければ可愛いとも思っていない。
アホみたいに着飾って元気に飛び回ることもなく、「勉強ができるって先生に誉められましたの」 などと自慢話に花を咲かせるバカ親に育てられて人間性や日本の良いところを失った子供が将来の文化を担っていくのだから風情など薄まって当然なのかもしれない。
少しずつではあるが、確実に暖かくなってきている。暖かいのを通り越して暑くなるのもすぐなのだろう。そうなると当然のことながら汗をかき、バクテリアが繁殖して臭いを発生させることになる。歳が加わるごとに体臭もきつくなってくる。我が身もいわゆる加齢臭(かれいしゅう)、もっと平たく言えば 「オッサン臭い!」 という状態になるのではないかと少々気になりだした。
最近では加齢臭を防ぐモノがいろいろと発売されている。石鹸、シャンプー、下着、靴下、靴の中敷、消臭スプレーなど様々であるが、特に肌着などは売れ行きが好調らしい。それだけ臭いを気にしている人が多い証拠なのなだろう。たしかに夏場の電車内はオッサンの臭いと女性化粧品の匂いが入り混じったとんでもない状況になる。
いまさら女性にモテたいとは思わないが、人に不快感を与えて平気でいられるほど無神経でもない。自分に体臭があり、人に嫌な思いをさせているのであれば対策を講じなければなるまい。人間である以上は体臭があって当然なのだが、それが他人に不快感を与えているかは判断が難しいところである。はっきりと注意してもらえれば自覚できるが、そんなことを口に出せる人がいるものでもない。
身内に確認したかぎりでは、今のところは ”まだ” 臭くないとのことなので少し安心しているが、年齢からいっても今年の夏に臭くならないという保証はない。思い起してみると、父親は足が臭いという人ではなかった。一緒に生活する時間が極めて少なかったため、体臭に関する記憶はない。覚えているのはタバコの臭いだけである。実際にどうだったのかは、すでに鬼籍に入っているため確認することはできない。
遺伝的な要素もあるとすると自分も足は臭くなく、タバコの臭いはすれど、ひどい体臭はないものと思われる。このままでいられたら問題はないが、否が応でも年齢は積み重ねられていくものであるため、いずれは加齢臭対策グッズのお世話になる日が確実に来るのであろうと覚悟している。
誰しも歳はとりたくないものであるが、確実に ”それ” は忍び寄ってくる。最近は固有名詞がなかなか思い出せなくなってしまった。人名はもちろん、グループ名など、特にカタカナ関係があやしい。これなど完全にオッサン化した証拠である。話をしている時に思い出せず、何時間もしてから急に思い出したり、ひどい時には数日たってから何かの拍子に 「ぽん!」 と頭に浮かんだりする。
この調子だと報道関係を賑わせている 『アルカイダ』 だの 『ウサマ・ビン・ラディン』 だの 『バグダッド』 だの 『サダム・フセイン』 などという名詞を来年も覚えていられるか、いささか不安である。きっと、そのうち 「ね〜。昔アメリカが攻撃した ”あそこ” のヒゲの ”あれ” が・・・」 などと完全なる爺さんの会話になってしまうに違いない。まったく情けない限りである。
加齢と言えば、最近とってもショックなことがあった。・・・なんと白い ”まつ毛” が生えてきたのである。白髪が多いのは自覚している。すでにオッサンであるから鼻毛やヒゲに白いものが混じっているのも半分以上はあきらめている。しかし、しか〜し!である。「何もまつ毛まで白くなることはなかろう!」 と、机をバンバンして叫びたい気分である。
ある日、視界の端で妙に光が乱反射している。「どうしたのだろう?」 と鏡を覗き込むと、左目の目尻近くに一本だけではあるが白いまつ毛を発見してしまい、しばらくは言葉を失ってしまった。まゆ毛やヒゲが白い人は見たことがあるが、まつ毛が白い人など見たことがない。
あわててネットで検索してみると 「まつ毛が白髪の人を見たことがない」 だの 「一般的には白髪にならない」 などという記述ばかりである。国語大辞典で 『白髪』 を調べてみると、「年老いて白くなった髪」 などと書かれている。「”年(とし)” は良いとしても ”老いて” とはなんだ〜!」 と、これまた机をバンバンして文句を言いたくなってしまった。
他にもまつ毛が白い人はいないものかと、会社の行き帰りに白髪の人を見つけては近くに寄って確認しているのだが、未だに巡り合っていない。それどころか確認する場所が場所だけにタイミングが悪いと目が合ってしまい、気まずい毎日を送ったりしているのである。
想い出の居酒屋シリーズも
其の壱、
其の弐を経て今回で第三弾になった。その店には語り尽くせないほどの想い出が詰まっているのである。其の弐でも触れたが、酒の席で仕事の話はご法度としていた。酒は楽しく飲むものであって、仕事の話などすると 「酒がまずくなる」 というのが第一の理由だ。
どうしても仕事の話をしなければならない場合、飲み代は経費で落とすか、上司が全額負担すべきである。酒の席で部下を説教し、飲み代は割り勘などというのは ”もってのほか” だと思う。部下にしてみたらマズイ酒を飲み、金を払ってまで説教など聞きたくないはずだ。
そして第二の理由は酒の席で仕事の話などしても 「どうせ次の日になったら覚えていない」 と思われるからだ。重要な話であれば尚のことシラフで話をするべきである。普段は気が小さいくせに酔った勢いで部下に説教しても、部下は心の中で 「ふんっ!」 と思っているだろうし、酔った勢いで気が大きくなり、「職場の雰囲気や仕事の仕組みを変える!」 などと上司が宣言したところでシラフになると何もできないに決まっている。第一、その席で話したことなど次の日には半分以上は忘れていることだろう。
以前から何度も書いているように、その店には本当に世話になった。金のない若いサラリーマンの憩いの場所だったのである。仕事の都合で二週間ほど店に行けないと、心配して電話をかけてくる。ある日など 「上等なカニが入ったんだ」 と誘いの電話があった。喜び勇んで店に顔を出すと、出てきた料理は沢蟹の唐揚だった。
「あのな〜!カニっていうのは毛蟹とかタラバとか松葉とか・・・」 と文句を言うと 「カニには違いないんだから文句言わずに食え!」 などとぬかす。そんなことにも大笑いしたり、文句を言ったりしながら結局はバリバリと音を立てながら味を楽しんでいた。
ある年には忘年会(会社とは別)で、超低予算にも関わらず 「いつも来てくれるお礼」 だと言って豪華な料理を用意してくれたことがある。店に行くとすっかり準備は整っており、テーブルには店のメニューにはない料理が山のように並べられている。「お〜すごい!」 と一同驚き、我を忘れて貪り食っていると空いた器が片付けられ、次から次へと新しい料理が運ばれてくる。
「なんと素晴らしい店か」 と店長や従業員を誉め称え、腹がはちきれんばかりに食べて飲んだ。旺盛な食欲を満たし一息ついたところでテーブルを見渡すと ”お造り” の大皿に何かを模ったワサビがある。「これ何?」 と従業員に聞くと 「店長が張り切って造ったんだよ」 と言う。「これは何ぞや」 とみんなで相談したが、なんだかよく分からない。
どうやら ”鳥” らしいのだが、ずんぐりした東京銘菓 『ひよこ』 まんじゅうのようにも見える。少し立てて見るとペンギンにそっくりだったので 「それに違いない」 という結論に達し、爪楊枝を刺して足をつくり、皿の上に立たせておいた。そこにニコニコと店長が登場。皿の上に立っているワサビを見て 「なんだそりゃ?」 と言うので 「ペンギンはやっぱり立ってなくちゃ」 と答えると、急に不機嫌な顔をして 「それはウグイスだ!」 と怒り出した。
そこでまた大爆笑となり、「何で年末にウグイスなんだ〜!」 「春告鳥とも呼ばれるくらいだから今は時期じゃないよ」 と口々に罵っていると 「うるさい!」 と言ってどこかに行ってしまった。かなり可笑しかったが、せっかく我々のために造ってくれたのだから少し申し訳ない気分になり、”足” をはずして皿の上に置いておいたが、話の途中でそれが目に入るたびに笑いが込み上げてきたのだった。
あの頃、どんなに悲しいことや面白くないことがあっても、その店に行ってお腹が痛くなったり涙が出るほど笑っていた。時間がゆっくりと流れ、その時代がいつまでも続くようにも感じていた。しかし、ある日のこと、店長と従業員の一人が店を辞めて独立することになった。そして、その後は店に行くことはなくなってしまった。ここから先の想い出の居酒屋は新しく開いた店に舞台が移っていくことになる。