風情 風情
桜の季節も終わり、暖かい日が続いている。先々週の土曜日に極近場に桜を見に行ったが、木々がまさしく桜色に染まり、花が場所を争うように咲き誇っていた。風に吹かれて花びらが舞い、なんとも風情豊かな情景だった。「桜は真下から見るのが一番美しい」 と聞いたので木の下にもぐりこんで見上げて見たところ、抜けるような青空と淡いピンクのコントラストがまことに見事であった。
桜が日本人に愛されるのは、その美しさに加えて 「散る」 潔さがあるからかもしれない。『同期の桜』 という軍歌があるが、「咲いた花なら 散るのは覚悟 見事散りましょ 国の為♪」 などと、自分も含めて現代の若者にはとうてい受け入れられないような歌詞である。しかし、戦争当時は散ることの潔さを誇りに若者達が戦場へ旅立ち、帰らぬ人となった。
花の終わりの表現も色々あり、椿(つばき)は 「落ちる」、梅は 「こぼれる」 そして桜は 「散る」 のだそうだ。それ自体も風情のある日本語だが、落ちたり、こぼれたりするのではなく離れ離れを意味する ”散る” という言葉を人生の終わりに選ぶ日本人も風情のある民族だと感心してしまう。
とかく日本人は 『散りぎわ』 に美学を求めることが多い。スポーツ選手、芸能人などの引退も本人の想いとは無関係に 「散りぎわが見事」 だの 「あざやかな引きぎわ」 だのと周りが勝手に評価する。確かに 「まだいたの?」 と聞きたくなるような芸能人もいるし、妖怪のような政治家が居座っているため若返ることができない政界などを見ると 「散りぎわを考えた方が・・・」 などと思ってしまうのも事実ではある。
したがってホンダの創業者である本田宗一郎氏、ソニーの創業者である盛田昭夫氏が 「老害(ろうがい)になる前に」 と経営から身を引いたことが高く評価されたり、最近では相撲の横綱 貴乃花の引退が 「きれいな散り方」 と評価されたりしている。バブル期に過剰な投資をして会社を借金まみれにした爺さんが銀行から債権放棄をしてもらってまでふんぞり返っているのとは訳が違うということなのだろう。
何かと美しく風情のある情景や言葉の多い日本だが、肝心の日本人はどんどん風情や情緒を失ってしまっているような気がしてならない。日本人(個人)はいつから利己的で傲慢になってしまったのだろう。昔はもっと奥ゆかしく謙虚であったはずである。
家族の話をする時でも妻のことは 「うちの愚妻が」 「できの悪い女房で」 などと、夫のことは 「うちのやどろくが」 「甲斐性なし」 と、息子は 「できそこない」 「バカ息子」、娘は 「じゃじゃ馬が」 などと、本心とは別に謙遜の意味と愛情を込めて呼んでいたはずである。ところが最近では、特に自分の子供のことは自慢こそすれ悪く言う親には御目にかかったことがない。
ドイツに駐在していた人が現地の人に奥さんを 「うちの愚妻です」 と紹介したところ周りが凍り付いてしまったという話を聞いたことがある。それはドイツに身内のことを悪く言うという文化がないためであるが、日本はドイツと違う。先にも述べたとおり、たとえ悪く言ってもそこには謙遜と愛情が込められているのである。たしかに面倒なこともあるが、そういう奥深いところが日本語や日本人の良いところだと思う。
ピカピカのブランド品の服を着せ、髪を染めた子供を連れてすまし顔で歩いている親をよく見るが、子供には高級な服よりもドロだらけになって遊べる服がよく似合う。砂ぼこりを上げながら走り回り、木に登って擦り傷だらけになった手や足が子供の勲章である。おしゃれをさせているのは親の自己満足でしかないような気がする。親が気にするほど人は他人の子供など見もしなければ可愛いとも思っていない。
アホみたいに着飾って元気に飛び回ることもなく、「勉強ができるって先生に誉められましたの」 などと自慢話に花を咲かせるバカ親に育てられて人間性や日本の良いところを失った子供が将来の文化を担っていくのだから風情など薄まって当然なのかもしれない。
2003 / 04 / 20 (日) ¦ 固定リンク