以前の雑感に「
眠りが浅い」とか「
客観的な夢」を見ると書いたが、眠りが浅いためか毎日のように夢を見る。寝ている間の自分を見ることはできないのだが、「
お買物日記」担当者によれば夢を見ながら笑ったりしているらしい。
目が覚めても夢の内容を覚えていることが多いのだが、笑う夢には必ずといっていいほど同じ人物が登場している。どうやら潜在的にその人物のことが面白くてしようがないらしく、思い出しただけで笑いがこみ上げてくる。
”夢”と言うくらいなので幻想的であったり、自分の希望が実現したかのような夢を見たいと思っているのだがいつも見る夢は、いたって”日常的”なものが圧倒的に多い。登場人物は昔良く遊んだ友達であったり、仕事関係の人間であったりで、夢の中でのストーリーも日常とあまり変化のない、妙にリアルな夢ばかりである。
昔の友達と遊んでいる夢ならましなのだが、仕事関係の夢を見ると目が覚めたときにはすでに疲れており、一仕事終えた気分になってしまう。それに輪をかけて現実の世界でもう一度出勤することを考えると気が重くなるばかりだ。
おまけに、気になっていた仕事が夢の中ではすっかり解決しており、会社に行ってから処理しなければいけないことがたくさん残っている現実を目のあたりにして心底がっかりしてしまうこともある。
妙にリアルな夢ばかりを見るのだが、リアルなのはストーリーと登場人物だけで、背景は現実とは異なっている。実は、いつも夢に現れる”街”があるのだ。昔の友達と遊ぶのも、会社の所在も”夢の中の街”が舞台になっている。
夢の中ではその”街”で生活しており、多くの出来事がその”街”で起こる。文書ではうまく表現できないが、今では”街”の地図も頭に入っている。どこの建物の角を曲がれば何があり、その建物の中には何があるのか。駅がどこにあり、何番ホームの電車に乗ればどこに行くのか。降りた駅からどのバスに乗れば何処に行くのかもすべて分かっている。
その街には行きつけの店まで存在するのだ。いつも立ち寄る本屋。ビルの中の下りエスカレータ付近にある薬局。そのビルから地下でつながっている隣のビルは美術館風で、ロビーは 3階まで吹き抜けの広い空間があり、そのビルを抜けるとゆるやかな下りの坂道にオープンテラスの喫茶店やパスタ屋さんがたくさんある。
その坂道を下りきると大きな通りがあり、左にいくと夜のネオン街がある。顔なじみの店に行き、食事をしたり酒を飲んだりして家路につく。最近では住宅街でひっそりと営業している食事がとても美味しい「隠れた名店」まで発見してしまった。しかし、残念ながらその”街”にあるはずの”自宅”だけは見たことがない。
こんな感じでいつもの”街”で”知人達”と、あまりにも”日常的”な生活をしている”夢”ばかりなのだが、以前に強烈なインパクトのある夢を見たことを今でも覚えている。
川の堤防のような傾斜のある地面にきれいな芝生があり、そこに寝転がっているうちに、いつしか寝てしまったようである。肌寒さを感じ、目を覚ますとあたりはすでに暗くなっていた。仰向けになったまま大きなあくびをして夜空を見ると、そこには無数の星がきらめいていた。しかし、よく見るとそれは星ではなく街の夜景だった。つまり、自分が空中におり、眼下に輝く街の灯りを見ているのである。
「落ちる!!」と思ったところで目が覚めたら、芝生の上だった。「夢だったのか」と思って空を見上げると、そこにはやはり夜景があった。驚いたまま空を見ていると、その夜景は、空一面を覆うような巨大な UFO の機体に街の灯りが反射しているのであった。その UFO はゆっくりと進んでいき、空が見えるようになると、真っ赤な夕日が輝いていた。夢の中の自分が見た夢だったのだが、その光景の美しさは今でも忘れる事ができない。
そのような”夢”や、いつも同じ街が舞台となる”夢”が、精神分析学でどのように解釈されるのか、フロイトさんが生きていたら「ぜひとも分析していただきたかった」と思ったりしているのである。
日本語は海外から見て抽象的でもあるのだが、すぐれた言語なのも事実である。同じ雨にしても、雨、小雨(こさめ)、五月雨(さみだれ)、霧雨(きりさめ)などなどがあり、同じ小雨(こさめ)にしても、小雨が”降る”のと小雨が”ぱらつく”のとでは情景が異なる。
言語が持つ”あいまい”さゆえに、幾通りもの表現が可能なのと同時に海外の人には伝わりにくく、何を言いたいのかを理解してもらえないことが多い。政治の世界においては政策が”玉虫色”で、その表現も”あいまい”であるから、輪をかけて理解できないようだ。・・・実際、同じ日本人であっても政治家の言っていることは理解に苦しむことが多い。
それでも、感情や自然現象には無限のパターンがあるわけで、その時々に応じて使い分けることができる日本語はそれを表現し、情緒を表すのには適していると思われる。しかし、なにげなく使っている言葉でもよく考えると語源は何なのであろうかと考えてしまうような不思議な言葉がある。
先日、朝の TV で「滅茶苦茶(メチャクチャ)」の語源を調べていた。それによると、お茶の中には「芽茶(めちゃ)」と呼ばれる貴重なお茶があり、たいそう美味しいのだそうだが、入れかたを間違えるととても苦(にが)い「苦茶(くちゃ)」になってしまうそうで、そこから道筋からはずれたり度が過ぎたり、悪い状態になってしまうことを「滅茶苦茶(芽茶と苦茶)」と言うようになったらしい。
それを見ていて「なるほどね〜」と感心し、以前に自分で調べた「とばっちり」の語源を思い出した。「とばっちり」という言葉があるが、冷静に考えてみると、「とばっちり」は「と」「ばっちり」なのか「とばっち」「り」なのか、日本語なのか外来語なのかすら解らなくなってしまった。現代用語の基礎知識で調べたところ、「とばっちり」は「徒馬塵」と書き、走っている馬のそばにいると馬が蹴り上げた塵(ちり:泥や土)が飛んできて汚れてしまうことから、そばにいて被害に巻き込まれたりすることを「とばっちり」と表現するようになったということだった。
他にも以前に読んだ本に黄昏時(たそがれどき)の「たそがれ」は、「誰ぞ彼(だれぞかれ)」がなまって「たそがれ」と言われるようになったと書いてあった。夕暮れ時になって遠くにいる人の顔が見えなくなり、「あれは誰だ?(誰ぞ彼)」という状態になるため黄昏時(たそがれどき)というらしい。
日本語は奥が深く、情緒豊かな言語なわけであるが話を元に戻すと日本人は、あいまいな表現で日常を過ごしている。したがって、それとは逆に「お笑い」に求められるのは”白黒”はっきりしたものになる。「ぼけ」は徹底したボケであり、「つっこみ」は徹底したツッコミであったほうが見聞きしていてとても面白い。
アメリカのジョークを聞いても日本人が理解できないというか、いまいちピンとこないのは「あいまいだからである」と聞いた。つまり、アメリカの言語は Yes か No をはっきり伝えるのに適しているし、思考も Yes か No がはっきりしているのであろうと思われる。そういう人種が面白いと思う会話やジョークは”あいまい”に表現される内容であることが多い。まったく日本とは逆なのであると結論付けていた。
またしても「なるほどね〜」と思ったが、自分自身がアメリカ人ではないので、それが正しいのかどうかは解らない。しかし、アメリカ映画の「笑い」を狙った場面で腹を抱えて笑った記憶はないので事実なのかもしれない。また、英語に堪能なわけでもないので字幕で表現される”和訳”がいけないのかもしれない。
逆に日本のバラエティー番組や漫才をアメリカ人が見た場合、面白いと思うのだろうか。・・・などと考えると、文化の違いを切実に感じてしまう。違う人種が本当に心から理解し合える日が来るのであろうか。
全世界(地球上)の人種が理解し合い、ひとつになれるのは宇宙人が侵略してきた時しかないのではないか。・・・などと言っていると「また始まった」と言われそうなので、これから先は自分の中だけで楽しむことにしたいと思う。
子供の頃、当時流行っていた音楽を聴いていると、両親とも「最近の曲はどれもこれも同じに聞こえる」と言うのを聞いて、「年をとると曲の区別がつかなくなるのだろうか?」と疑問に感じていた。しかし、最近になって「最近の曲は・・・。」と同じ感覚に襲われ愕然としてしまった。
若い頃は曲(歌)を聞くと”誰の””何という曲”かは瞬時に判断できていたが、最近では曲(歌)を耳にしても「誰の何という曲?」というのが頭に浮かぶ。これでは曲の区別がつかずにいるのを見て「ジジくせー」とか「ババくせー」と心の中で罵っていた当時の親と変わらないではないか!と真剣に悩んでしまったわけだ。
しかし、冷静に考えてみると”年”になって曲の区別がつかなくなってきたのではなく、どれもこれも似たような曲でしかないのではないかと思えてくる。その時々で流行する音楽があり、商業レベル(CD 売上で採算が合うか合わないか)で考えると二匹目とか三匹目のドジョウを追った方が、個性の強い音楽より売れる確立が高くなるわけである。
”コムロ”系の曲は昔流行ったユーロビートの焼き直しが多く、”つんく”系は 70年代後半から 80年代前半の曲と同じ分野だと思われる。”タミオ”系はビートルズの影響が大きく「どこかで聞いたことがある」と思ってもしかたないのではないかと自分を慰めているのである。
若い世代にとっては”新鮮な音楽”であっても、オッサンやオバハンにとっては”なつかしい音楽”に感じてしまう。歴史や時代はくりかえすと言うが、ファッションにしても音楽にしても何年かのサイクルで同じパターンを繰り返しているのが過去の経験から実感できる。それに輪をかけて歌手(アーティスト)にも個性がなく、誰かのモノマネにしか見えないものだから、余計に区別がつかなくなってしまうことが多い。あきらかにアマチュア時代に「コピーしてました」というのがミエミエな場合が多いのである。
あきらかに レベッカ -> JUDY AND MARY の流れをくむ者、氷室 -> GLAY の流れをくむ者、プリンセスプリンセスや LUNA SEA と歌い方がそっくりなヴォーカルに加え、Misia、宇多田ヒカルからはじまった R&B 路線まで・・・。巷には同じような音楽、ヴォーカル(歌声)があふれている。中には商業レベルで採算が合わなくても興行レベル(コンサート類)で採算が合っている人(またはバンド)もいるわけだから、皆が同じような路線である必要はないと思ったりするし、様々な音楽を聞かせてほしいと願ってもいる。
どれもこれも同じ曲に思えるのは老化現象ではなく、蓄積されている情報量が多いからだと最近では思うようにしているわけだが、日本的音楽に少しだけ興味が出てきたのは”年”のせいかとも思う。
演歌不振の時代が続いていたが、昨年は”孫”などのヒットによって少しだけ勢いが復活したようだ。積極的に演歌を聞きたいとは思わないが、焼き鳥屋さんや居酒屋さんの BGM は演歌が似合う。焼き鳥片手に日本酒を飲んでいる時に最近のチャカチャカした曲では雰囲気がでないような気がするからである。大好きではないが、演歌が絶滅しても良いとは思わない。
”黒(R&B)”っぽい音楽、”白(ユーロ&ロック)”っぽい音楽、”黄色(演歌)”っぽい音楽と、様々な文化を取り入れるのが日本人の良いところであると感じているのだが、理屈っぽく考えてしまう事自体が老化現象の始まりなのかもしれない・・・。と、おびえてしまっているのである。
「まさか、あの人が」・・・。事件が発生し、容疑者の知人や近所の人たちが一様に驚く。人は特定の人物に対して、ある一面しか見せていない。ジキルとハイドではないが、日常生活を送っている時とはまったく別の人格を兼ね備えている。
自分自身を冷静に分析すると、二重人格などという程度ではなく多重人格ではないかと疑ってしまうくらいに色々な自分がそこにある。自宅でも仕事の事を考えているとき、な〜んにも考えずにボーッとしているとき。家や家族のことを考えているとき、自分中心に物事を考えているとき。出勤のため家を出てから会社に到着するまでのみちのり、会社に到着したとき。仕事に没頭しているとき、仕事に集中できずにいるとき。前向きなときに落ち込んでいるとき。それぞれのときに、それぞれの”自分”が存在する。
いったい本当の自分はどれなのかと考えてしまうこともある。人から見れば、どれもこれも大きな差はないのであろうが、精神状態や思考回路はあきらかに異なっているのだ。
同じ外出にしても出勤するときと、休日に買い物に出かけるのでは当然のことながら精神状態が異なるわけであるから、多少は人格に影響を及ぼすのかもしれない。よく見聞きすることだが、家にいるときの父親は家族からのウケが良くない。どんなに仕事で頑張っていても家に帰ると「ぐーたら亭主」に成り下がってしまうわけだ。
自分だけなのかもしれないとも思うが、もう一人の自分を顕著に感じるのは”夢”を見たときなのだ。昔から寝ている間に見た夢は目が覚めてからも良く覚えている。そして記憶に残っている夢はすべて自分を客観的に見ている事が多い。
一般的に”夢”は、あたかも自分が体験したような感覚で見ているはずである。具体的には夢の中で見聞きすることは日常との”差”があまりなく、自分の視点で映像を見て、音声を聞いていると思われる。しかし、いつもよく見る夢には”もう一人の自分”が存在することが圧倒的に多い。つまり、”夢”の中の自分の映像を”夢”の中で見ているわけだ。まるで自分が出演している映画とか TV を見ているように自分の姿を”夢”として見ている。自分が出演している”夢”をもう一人の自分が見ており、時にはエンディングまで見ることができる。
一般的に夢であれば結末を見る前に目が覚めたりするものであろうが、物語の最後まで見ているのである。ひどい時にはエンディングでスタッフ・ロール(映画などの最後でスタッフや出演者の文字が画面下からスクロールしてくるやつ)まで見て、最後の最後に「The End」の文字を見てから目覚めることもよくある。
一般常識では考えられないものなのか、こういう夢を見る人が他にもいるのかは定かではないが、このまま精神分裂してしまって本物の二重、いや多重人格者になってしまったらどうしようかと怯えることもあるが、客観的に自分を見ている自分がいる限り、激情や意識喪失が原因で他人に危害を加えたり、他人を死に至らしめるような犯罪だけは犯すことはない。
・・・と、勝手に解釈して安心している自分が・・・・やっぱりそこにいたりするのである。