つい先日、9/9に故郷に別れを告げてきた。
『お買い物日記』 担当者が見せた前日の様子だと、町を後にする際には号泣するのではないかと少し心配したが、高速バスに乗り込んですぐに小腹が空いたと言ってお菓子をポリポリ食べたりしているうちに隣町まで進んでいたので、最後にゆっくり景色を眺めたり風景を目に焼き付けたりすることもなく、遥か後方に故郷は過ぎ去っていたので泣くヒマもなかったようだ。
その翌日にはショウコも生まれてから 80年以上もずっと暮らしていたその町を離れたが、きっとあの性格なので深い感慨にふけることもなく、あっさりと決別してきたに違いない。
以前の雑感にも書いたように、故郷を失ってしまうは少し寂しいが、深い悲しみが湧いてこないのが不思議だ。
失うとは言っても、すでに故郷には友達も懐かしい場所もなく、ショウコが町を出た以上は帰る必要がなくなり、たとえ何かの用事で行ったとしても、すでに実家もないので宿以外に泊まる場所もなくなってしまっただけの話であって、故郷が消失してしまった訳ではない。
たとえば福島県の一部の地域のように、第一原子力発電所の事故の影響で帰りたくても帰れない、行きたくても行けないという状況ではないし、大きなダムが建設されて故郷がダム湖の底に沈んでしまった訳でもなく、その気にさえなれば行ける状況にあるので、それほど深い悲しみを感じないのだろうか。
しかし、もしかすると一気にダム湖に沈んでしまった方が、美しく楽しいままの状態で思い出に残るだけマシかもしれない。
このままどんどん高齢化、過疎化が進み、賑やかだった町の中心部もどんどんさびれ、シャッター通りばかりが増えてさらに賑わいを失い、使う人が減って負の遺産となった公共インフラを支えるための税負担ばかりが増し、それに耐え切れず住民が流出して過疎化に拍車がかかり、町が自然消滅する過程や、町の末期を見るのは辛すぎる。
それよりも、できるだけ良い思い出が残ったまま縁が切れる方が良いのではないだろうか。
そう考えると、よほどのことがない限りは故郷に帰りたくない。
様々な想いがこもったまま封印してしまった方が良いように思える。
まだ叔母のレイコが残っているので何かあれば帰ろうとは思っているが、その時が来るまでとりあえずの区切りとして、さらば故郷・・・と言っておこう。