記憶 Memory-16

過去の記憶

夏休みもまだ中盤で、子どもたちは真っ黒になって遊んでいると思いたいところだが、今どきの子供は外で遊ぶことも少ないので日焼けなどしていないかもしれない。

それでも最後の最後になって泣きながら宿題に取り組むのは今も昔も変わらないだろうから、まだまだ余裕で休みを謳歌しているだろう。

昔と違って今は簡単に渡航できるので海外で過ごす家族も多いだろうし、円安の影響から国内旅行を楽しんだり帰省する人も多いに違いない。

自分が小学生の頃は父方の祖父母も健在で、休みのたびに遊びに行っていた。

父親は 7人兄弟で、その末っ子はまだ高校生だったので祖父母の家で暮らしており、自分にとっては叔父にあたるその末っ子と遊ぶのが楽しみだったし、父親にとっては実家でのんびりできるので楽しみにしていたが、母親は色々と気を使うこともあって渋々ながらの帰省だったようだ。

できるだけ長く祖父母宅にいたい父親と自分、一刻も早く帰りたい母親だったが、両親共稼ぎだったので休める期間は限られており、長くても 2-3泊するのが慣例だったように思う。

最初は親と一緒に帰っていた自分だったが、家に戻ってもきょうだいがいる訳ではなく、友だちこそ多かったものの昼は一人で食事をしなければならないし、ちょっと家の中を散らかしたり外で遊んで泥だらけで帰宅するとガミガミと叱られたりする生活だったので祖父母宅にいるほうがずっと楽しかった。

まだ高校生の叔父は色んな遊びを教えてくれるし、野山を駆けまわってどんなに泥だらけになろうが、裏を流れる小川で水浸しになって遊ぼうが祖父母に叱られることもなかったので、子どもにとっては天国のような生活だったのである。

たぶん小学校の 3年生くらいだったと思うが、それまで文句も言わず両親と一緒に帰っていたのに祖父母宅を出る直前になって
「帰りたくない」
と言ったものだから母親は腰を抜かさんばかりに驚き、
「ななな、な、何を言ってるのっ!一緒に帰らなきゃダメでしょっ!」
と怒りで目を三角に吊り上げつつも、祖父母の手前、極めて冷静なふりをして必死に説得を試みたが、自分はまだ叔父と遊びたかったし、何をしても叱られない家で過ごしたかったのに加え、初孫である自分と一緒にいたい祖父母も
「そうだよね~まだ帰りたくないよね~」
などと参戦し、言い争いは泥沼の様相を呈する。

翌日から仕事の父と母はどうしても帰らなければならず、このまま押し問答をくり返しても仕方ないので、帰りたくなったら父親が迎えに来るという条件で合意に達し、一人で祖父母宅に残ることになった。

2-3日もすればホームシックになり、帰りたいと言い出すだろうと母親は高をくくっていたらしいが、待てど暮らせど我が子は自分のもとに戻らず、とうとう夏休みの最終日まで離れ離れの生活をすることになったのである。

それに味をしめた自分は行動が大胆になり、次の冬休みは年末年始の帰省を待たず、電車に揺られて 3-4時間の距離にある祖父母の住む街に一人で行くようになった。

御用納めが終わって両親が来ると、祖父母と一緒になって
「いらっしゃい」
などと言って母親から鬼のような形相で睨まれたりしながらも、すでにすっかり打ち解けた叔父とか祖父の後ろに逃げて影からべ~っと舌など出していたりしていたものだ。

大晦日、正月と実家で暮らし、親の休みが終わりになっても自分は一緒に帰らず、家の前に祖父母と並び、
「またね~」
などと父親の運転する車に手を振って見送った。

そして冬休みの終わりになると電車に揺られて親のもとに帰る。

次の夏休み、また冬休み、そしてまた次の夏休みも同様に、初めから終わりまで祖父母宅で過ごすという生活は小学校を卒業するまで続けた。

最初こそ祖父母と過ごすことを快く思っていなかった母親も、休み中の面倒は見てもらえて食事の心配もしなくてよく、気兼ねなく勤めに出られることを喜んでいたのではないだろうか。

祖父母は孫と一緒に過ごせて嬉しく、自分は小うるさい母親から解放されて伸び伸びと遊んでいられるのだから、それですべてが丸く収まっていたのである。