昆虫大戦争

それは 8月 1日の散歩での出来事。

夏休みで小学生の姿はなく寂しい朝。

静かに時は流れ、遠くから聞こえる鳥の声。

そんな朝の静けさを壊す出来事が我が身に降りかかる。

田舎町では珍しくないことだが、一匹の虫が視界の中をうろついていた。

単に通りすがりの虫だろうと気にもとめていなかったのだが、妙にしつこくまとわりつき、一向にその場を去る気配がない。

何度も手で追い払っているのに逃げないどころか、その動きは少しずつ激しくなり、顔のすぐ近くを飛ぶようになって大きな羽音まで聞こえるようになった。

その黒くブンブンと大きな羽音をたてる虫の正体ハチだ。

それほど大きなハチではないものの、黒くてシャープな体つきは攻撃性の高さを暗示している。

やっといなくなったと思ったら今度は 『お買い物日記』 担当者の周りを飛び始めたので帽子を使って追い払ったが、逃げるどころかさらに接近して目の前を横切ったりとなかなかの根性だ。

しばらくして姿が見えなくなったので、その場を立ち去ろうと一歩、二歩進んだ所で再び目の前に現れた。

たかが一匹のハチくらいなら思い切って叩き落とそうかとも考えはしたが、もしそれが特攻隊長で、仲間を呼び寄せ大群に襲われたらたまったものではない。

ここは穏便に済まそうと、なるべく刺激しないようにゆっくりと手を動かして追い払うものの、そのしつこさは一筋縄ではいかず、『お買い物日記』 担当者と二人、道路にしゃがみ込んで身を低くしたり、その場でくるくる回ったりしていたので横を通る車に乗った人は何事かと思ったことだろう。

その恐怖の時間はとても長く、5分にも 10分にも感じてしまったが、もしかすると 2-3分のことだったかも知れない。

やっとの思いでハチの威嚇攻撃から逃れ、妙な倦怠感や疲労感を覚えながら帰路を進んだ。

帰宅して散歩着から部屋着に着替え、手洗い、うがいを済ませ、いつもと変わらず朝食の準備をしていると、『お買い物日記』 担当者が室内を飛ぶ黒い影を目撃した。

何とそれは今朝のハチではないか。

黒っぽいポロシャツ、黒いジャージ姿で散歩していたので気づかなかったが、どうやら体にとまったハチを家まで連れて帰ってきてしまったらしい。

それにしても襲撃された地点から家までは徒歩 10分くらいの距離があり、途中で立ち止まったり早歩きしたりしたのにハチはじっと張り付いていたのは驚きだ。

いったいどうしてハチに目をつけられ、何の理由で家までついてきたのか。

とりあえず、こちらとしては同居する気などさらさらないので、さっさと退室願いたいものではあるが、相手がハチゆえに説得する訳にもいかず、ここは強硬手段をもってしてでも追い出すしかなさそうである。

殺虫剤を使うことも考えたが、まだ朝食の準備中であり、食器や食材が出されている状態だったため、少なからず毒性を含むものを噴霧するのははばかられる。

こちらとしては出て行ってくれれば良いのであって、殺傷するまでの恨みもない。

それならば捕獲してやろうと帽子をつかってみたが、そんなに簡単に捕まえられるものでもなく、右へ左へと追いかけ回したが体力を消耗するばかりだ。

しばらくして窓際まで追い込み、レースのカーテンでハチをくるむことに成功した。

さて、ここからが問題で、カーテンをぐるぐると巻き、雑巾をしぼるようにして圧死させることも可能だが、先にも述べたように殺生する気はないのでティッシュに包んで外に逃がしてやりたい。

『お買い物日記』 担当者が用意したティッシュを右手に持ち、左手で少しずつレースのカーテンを広げたその瞬間、左手親指に鋭い痛みが走った。

身の危険を感じたハチが最終手段の攻撃に転じたのである。

血管注射をしたような感覚に加え、同時に毒を注入されたものだから単なる刺し傷とは比較にならないほどの痛みに襲われ、思わずカーテンから手を離してしまったが、それが結果オーライで窓ガラスとカーテンの間にハチを追いやることができた。

カーテンの上から窓を開け、しばらく様子を見ているとハチは外へと出て行き、長い長い戦いに終止符が打たれる結果となったのだ。

しかし、終戦処理はこれからで、刺された指を応急手当てしなければならない。

ネットでハチ刺されを検索してくれた『お買い物日記』 担当者が次々に情報をくれる。
「冷水で洗うといいらしいよ」
「・・・もう洗ったよ」
「刺されたところをつまんで毒を出すといいらしいよ」
「・・・もうやったし、口でも吸い出したよ」
目をパチクリさながら 『お買い物日記』 担当者は
「どうして知ってるの?」
と不思議がっていたが、それは昔取った杵柄であり、子どもの頃、だてに野原を駆けまわっていた訳でなく、それなりの対処法、サバイバル術は年上の友達や父親から伝授されている。

最近の子どもや、その親であれば泣きわめいたりオロオロするばかりで病院に駆け込むのがオチであろうが、野生児のように育ち、ハチに刺された経験が二度や三度のことではない自分にとっては慌てるような事態ではない。

応急処置は終えたものの、もし毒性が強く指が腫れ上がっては仕事に支障がでるので、何か効く薬はないものかと物色してみたが、我が家に常備しているものでは効果がないようだし、唯一効能を謳っていたものは大阪時代に購入したものでとっくに使用期限切れとなっていた。

『お買い物日記』 担当者は心配してくれていたが、たかがハチに刺されたくらい放っておいても治るのだろうと何もせずにいたところ、ズキンズキンと指先で鼓動を感じるような痛みは夜まで続いたのであった。