犬のいる風景 2013秋

散歩の途中、様々な犬の姿を見ることができる。

以前まで何度か独り言に書いていた美形な犬に関し、最近は記事にすることが少なくなったが、実はすっかり年老いてしまって美貌も失われてしまっている。

耳が遠くなったのか、足音ではこちらに気づかなくなってしまったし、たまに顔を上げても視線が定まらないようなので視力も落ちているのかもしれない。

毛もバサバサになってしまったし、あのクリっとした目もたれて少し小さくなったような気がする。

最近は寝てばかりいるので特筆すべきことがなく、独り言への登場回数も激減したという訳だ。

遠くに引っ越してしまった隣のワンプには、いつか会いに行こうと思っているものの、なかなかタイミングが合わず行動に移せていない。

飼い主さんの話しだとワンプはすっかりボケてしまっており、綺麗にしてもらおうと美容室に行ってもトリマーさんに噛み付いたりするため、何もできないまま帰されたりしているのだそうだ。

かなり高齢なので何かある前に会っておきたいのだが、我が家のこともすっかり忘れていたら悲しいので少し会うのが怖いような気がしないでもない。

遊歩道に沿って流れる川向うに住む犬は、最近になってやっとこちらの顔なのか匂いなのかを覚えてくれたようだ。

以前までだと手をパンパンと叩いて呼ばなければ気づいてくれなかったが、今では近くまで行くと寝ていてもひょっこり顔を上げてこちらを見てくれるようになった。

最近は雑種と言わずにミックスと呼ぶらしいが、川向うの犬も毛の長い大型犬であんな犬種は見たことがないのでミックスだと思われる。

何だかモサッとした犬なのだが何とも言えない愛嬌がある犬だ。

その遊歩道の終わり近くを毎朝散歩しているご老人とシーズがおり、犬はジルという名前なので、我が家ではそのコンビのことをジイちゃんジルちゃんと呼んでいる。

ジルちゃんは登校中の小学生たちには愛想が良いのに我が家には敵意をむき出しにし、ガルルと唸りながら突進してくるのが困りものだ。

犬好きな我が家としては少し寂しい気分になってしまうが、気に入られないものは仕方がないので妙に擦り寄ったりせず一定以上の距離を保って見守ったりしている。

美形な犬が住む家の隣には、とってもファンキーな犬小屋に住むゴールデンレトリバーがいる。

小屋の壁は黄色と緑が入り混じったマーブル模様というか迷彩柄というか、単にペンキがはげて以前の色が見えているだけなのか分からないアバンギャルドで個性的な雰囲気が漂う。

犬がそれをどう思っているのか不明だが、小屋に入っている姿を見たことがないのは事実だ。

一般的には動物を飼うのを禁止されているアパートで堂々と飼われている柴犬がいる。

以前は散歩中のことが多く、滅多に姿を見ることができなかったのだが、最近は散歩時間が変わったのか我が家の行動が遅くなったのか、アパートの一室の外に置かれた犬小屋の前で寝ていることが多い。

最初の頃はいつも吠えられていたが、見慣れたのか最近はあまり吠えなくなった。

それでも立ち止まって見たりしていると、それが気に入らないのか口を閉じたまま、こもったような声でガフッと鳴いて威嚇してくる。

いつもの公園内を歩くと後ろ足が不自由になったコーギーに会う。

以前まで元気に散歩していたのだが、病気が原因なのか事故にでも遭ったのか、ある日を境に後ろ足が不自由になり、飼い主さんは犬の腰につけたリードを引っ張りあげるようにして後ろ足を浮かしてやりながら散歩させるようになった。

さすがに腕が疲れるのか、最近は犬用車椅子に下半身を載せて散歩するようになり、飼い主さんも犬も元気な頃と変わらないくらい楽しそうにしている。

先週の日曜日に会いに行った看板犬だが、昨日の朝の散歩で公園を歩いていると、実によく似た犬がいた。

目を凝らして見てどうやら間違いなさそうに思えたところにもってきて、飼い主さんを見ると明らかに店主さんだった。

いつも同じような時間に散歩をさせているのだとしたら、店に行かなくても会うことができる訳だ。

実を言うと、その犬が暮らす雑貨店はとても洒落たものが多くて我が家に合うようなインテリアも小物もあまりなく、犬を見たさに足繁く通う店ではないのである。

金曜の第五コースを散歩する際は時間厳守で公園を通過するように心がけようと思う。

いつも独り言に書いているポメラニアン黒柴リュウくんは相変わらず元気だ。

その他にも多くの犬に会えるので、朝の散歩はやめられない。

ノブアキノコト

マサルとともに仲良くしていたノブアキが亡くなって久しい。

九月四日が命日なのでこの時期になると様々なことを思い出す。

そろそろ止め時かとは思いつつも、すでに慣例化していることと、やはり忘れたくないという思いから毎年の命日には必ず花を贈るようにしていた。

昨年、母上が他界されたと聞き、その時も今年が最後かと思いつつ、やはり今年も花を送ったところ、ノブアキの叔父に当たるかたから電話をいただき、父上も高齢となって衰弱し、今は施設で暮らしているという。

ノブアキは一人っ子、父上も母上も自宅にいないとなれば、確かにもう花を贈ることを控えたほうが良いだろう。

送ったところでノブアキの実家には受け取ってくれる人はもういない。

中学生のころは学校で毎日顔を合わせ、休み時間はいつも一緒に過ごしていたし、月に一度はノブアキとマサル、そして自分の三人が集まり、遠く岡山に引っ越してしまった友人に向けて声の便りを作成していた。

中学を卒業すると、それぞれ違う学校、学科に進んだので三人が揃うことは少なくなったが、それでも大晦日の深夜に集まって初詣に出かけ、そのまま寝ずに朝まで遊んだりしていたし、それぞれが町を出て違う場所に住んでからもお盆や年末年始で帰省すると集まって夜遅くまで酒を酌み交わしたりしたものである。

中学までは誰が誰のことを好きで、どんな音楽が好きでどんなテレビ番組を見てどんな深夜ラジオを聞き、どんな芸能人が好きで何に興味があるのかが手に取るように分かっていた。

違う学校、違う職場に進み、違う土地で暮らしても会って話せば意識は昔へと戻り、当時と同じ雰囲気のまま会話はできたが、それぞれの好みや興味が何に向いているかまでは分からない。

たとえ好きな人ができたとしても、それは話したことも見たこともない人であり、二人がお似合いなのか、その女性がノブアキやマサルにふさわしい人なのかも分からない。

昔のことはよく知っていても今に関しては何も知らない。

ノブアキが何を思い、何に苦しんで逝ってしまったのかは分からないままだし、それは永遠に知るすべがないことだろう。

あの日以来、それが悲しかったり悔しかったりしていたが、仮に明日マサルが亡くなれば、仮に自分が亡くなったとしても同じことではないかと思うようになってきた。

今日現在、マサルが誰を好きで何に興味があるのか分からない。

相変わらずプロレスや映画は好きだろうと想像はつくが、新たに何か興味を持ったのか、今は意中の人はいるのか。

もう何年もマサルと会っていないので話しをする機会もなく、まさか自分が海外ドラマにはまって日に何本も観ているとは思っていないだろうし、毎朝の散歩を何年も続けていたり、室内でドタバタ運動をして体力づくりをしているなどとは夢にも思っていないだろう。

ノブアキの最後、その時の思考や感情など計り知れないし、知らなくて当然であり、たとえ知ったところで今さら何ができる訳でもない。

最後の花を送った今年、気持ちの上でも区切りをつけようと思う。

やめてほしいこと

世の中にはやめてほしいことが色々とある。

まずは少し前の雑感にも書いた、アナウンサーのくせに
「◯◯じゃないですかぁ」
とか言うやつ。

NHKでかなりな人気を誇っている女子アナ、橋本奈穂子氏も相当ひどい。

深夜の 30分間のニュース番組で
「東京でのオリンピック開催が決まったじゃないですか」
「消費増税目前じゃないですか」
「明日から連休じゃないですか」
などなどと、10回くらいは使うのではないだろうか。

感化されやすい若者ならいざ知らず、すでに 10年のキャリアがあるアナウンサーが使うのはいかがなものかと思う。

次にやめてほしいのはカバー曲ばかりリリースする音楽業界。

まるで芸能人総カラオケ大会でも開催されているのではないかと疑いたくなるほど、どいつもこいつもカバー曲、カバー曲である。

カバーであっても自分なりに歌い込んでいたり、独特なアレンジが加えられていれば多少は価値もあろうかというものだが、原曲のままのオケにのせて原曲と同じように歌う芸のなさだ。

中には
「完コピしました」
などとぬかす大馬鹿者までおり、だったらモノマネ選手権にでも出場していれば良いのであって、小僧やお嬢ちゃんがモノマネした CDを 2000円も 3000円も出して買うはずがなかろう。

今の時代、CDにしても音楽配信にしても曲を売るのは難しく、好みが多様化しているので大ヒット曲を生み出すのも難しいのは分かる。

だとすれば K-POPのように他国を含めてマーケットを広げ、世界に打って出るくらいの気概をみせたら良さそうなものだが、残念ながらそこまで気合の入ったレコード会社は見当たらない。

さほどのマーケティングや多額の宣伝費をかけなくても、過去に大ヒットした曲を人気アーティストがカバーすれば人にも曲にも知名度があるので一定の収益が得られるという安直なビジネスに頼ってばかりいると、今に国内ですら相手にされなくなるに違いない。

我々が受けてきた意味のない英語教育ではなく、バリバリの教育を受けた世代がターゲット層になった場合、歌詞が日本である必要性は薄れてくるだろう。

そうなったら邦楽も洋楽もなく、同じ土俵で世界中と競争しなければならないのだから、つまらない戦略など捨てて世界で勝負できる作詞家、作曲家を育てるべきではないだろうか。

そしてやめてほしいのは声優の歌手デビュー。

ここ数年、ものすごい勢いで、特にアニメの声優が CDを発売しているが、どいつもこいつも同じ声にしか聞こえない。

アニメの挿入歌を声優が歌ったりオリジナル曲を発売したりと大忙しだが、単に制作費がなくて有名アーティストを起用できないだけなのではないだろうか。

アニメ好きな若者が大人の策略に乗っかってしまって形成されているだけのマーケットに思えてならない。

次にやめてほしいのは肉汁を 『にくじる』 って言うやつ。

果汁は 『かじゅう』 であって決して 『かじる』 とは言わないのと同じであって、聞いていて気持ちが悪いのでお願いだから 『にくじる』 というのをやめてほしい。

『にく』 は音読みであり、『しる』 は訓読みなので、『にくじる』 などと読んではいけないのであり、重箱(じゅう(音)ばこ(訓))を代表とするような特例的に変則読みを許されるには気持ち悪すぎる読み方は控えるべきだ。

次にやめてほしいのはレジで金額を言われてから財布を出すやつ。

これだけテレビのネタにもラジオのネタにもされているのに、いまだに金額を言われてからゴソゴソと財布を探してノロノロと小銭を数えたりするやつがいる。

昔は女性、それも高齢になればなるほど割合が多かったように思うのだが、そこそこ若い男性までも同じような行動をしているのを見て、これは単に性格とか要領、能力の問題であって男女差、年齢差によるものではないことが分かった。

そしてやめてほしいのは、もの凄い匂いを発散させる柔軟剤。

最近の流行りなのは理解できるが、だれもかれもがこぞって様々な香りを発散させると、それが入り混じってとんでもないことになりそうな気がする。

毎朝の散歩ですれ違う子どもたちも、花の香やらなんやらでプンプンしている。

その子どもたちが一堂に会する教室、朝礼の体育館などはとんでもないことになっているのではないだろうか。

実際、香りが強すぎて気分が悪くなる事例なども出始めているので、今に香りの柔軟剤禁止が発令されるのではないかと思ったりしているところだ。

まだまだ世の中にはやめてほしいことがあるが、こう書いているうちにだんだん腹が立ってきたので、血管が切れる前にやめおくことにする。

北方見聞録 2013

遅い遅い夏休み。

もう夏などと呼べぬほど日も短くなり、涼しくなった夏期休暇。

仕事の都合で予定変更し、少し涼しくなってからと思ってはいたものの、こんなに涼しくなるとは思っていなかったので着るもののチョイスが難しく、思わず札幌で秋物を購入してしまった。

しかし、この時期は気候の変動が激しく、翌日は真夏日を記録した地方もあったほどの陽気となり、せっかく購入した服を旅行中に着ることはなかったが。

予定通りのプチ旅行であれば、午前中は 『お買い物日記』 担当者の通院、午後から別行動にして夜に合流というパターンなのだが、8月に通院は終わっているので午前から夜までの時間は自由に使える。

だとすれば朝一番の高速バスに乗って札幌まで来なくても、家でのんびり海外ドラマなどを見て午後からぼちぼち移動すれば良かったと気づいたのはもう日が沈みかけたころだ。

前述したように服を買ったり昼ごはんを食べたりブラブラしているうちにチェックイン可能な時間になったのでホテルで一休みし、例によって例のごとく毎度おなじみの居酒屋に繰り出した。

平日の夜、それも開店したばかりの店には客がおらず、貸切状態で飲み食いしていると、しばらくして近所の会社の 6人グループが来店した。

聞くとはなしに聞こえてくる話しの内容にとても強い違和感を覚える。

久々に聞くとビジネスパーソン、平たく言えばサラリーマンの会話は実に気持ちの悪いもので、自分も勤め人の頃は同じような話しをしていたのかと疑問になるほどだ。

面白くもない上司の話し、同僚の話しに愛想笑いし、取り繕い感満載の席で虚無な時間だけが流れていく。

自分が勤め人だった頃は、こんなにひどい酒の席ではなかったはずだ。

過去の雑感に何度か書いたと思うが、酒の席で仕事の話しはしない。

酒の力を借りなければ言えない話しなどないし、酔った席で正確に話しを伝えられるはずもなく、その内容を正確に聞くやつもおらず、しまいには酔って何も覚えていないことだってあり得る。

おまけに楽しい酒であれば支払いが割り勘でも構わないが、上司や先輩の説教じみた話しを聞かされて金まで取られるのであっては部下や後輩が不憫すぎるので、仕事の話しをしたければ上司や先輩が全額を支払うべきであるというのが信条だ。

で、その 6人組だが、社長夫妻と社員 4人という構成で、その夫妻のする話しに大きくうなずいたり爆笑したりしている。

聞こえてくるのは、さほどためになるとも思えない内容や、面白くも何ともない会話であって、自分であればその酒席が一刻も早くおひらきになることを願っていることだろう。

さして勉強にもならないことに大きくうなずき、つまらない話しにも大爆笑できたなら、勤め人時代にもっと出世できたかもしれないが。

北方見聞録と銘打ちながら、今回のプチ旅行で深く記憶に残ったのはその程度のことであって、翌日からの帰省では、ただひたすらに飲んで食べていた記憶しかない。

ということは、親子喧嘩するでもなく平和な時間が過ぎたのだろう。