スズメのお宿

行きも帰りも雨が予想される中、なんとか晴れ男の面目を保ったまま帰省の日程を終えることができた。

田舎に住む母親も叔母も一年間で極端に老けこんだりするはずもなく、さりとて若返るはずなど有り得もせず、何ら変わらぬ姿で昨年も聞いたような話を繰り返し聞かされ、昨日の昼に聞いたような話を今日の夜に再び聞かされるという、実におぞましい光景が繰り広げられていた。

そこで年老いた母親を小馬鹿にすることなど実に簡単なことではあるが、恐ろしいことに去年の帰省の際に聞かされた話をすっかり忘れており、今年になって再び同じ質問を浴びせる自分もいたりするので、はたから見るとボケの進んだ親子がボケボケの会話をしているとしか思えないことだろう。

そのすっかり忘れていて問いかけ直した内容は、庭の植木やブロック塀の上でスズメが楽しそうに遊んでいる姿を見ながら
「ずいぶんとスズメが遊びに来るんだねぇ」
という他愛もないことであるが、母親の
「軒下をねぐらにしているから毎日のことだよ」
という答えでそれが二年連続の質問であることを自覚した。

そう、毎朝の散歩でスズメを見るのを楽しみにしたりしているが、実家では南向きの窓からボーっと庭を眺めていれば、そこで遊びまわる姿をずっと見ていられる。

どういう建築法なのか知らないが、軒下がコの字になっており、そこにスズメが一列に並んで夜を明かして朝になるとどこかに遊びに行っては日が沈む前に帰ってくるのが日常らしい。

いつの頃からか実家はスズメのお宿状態になっているのである。

眺めていると庭木の枝にとまったり、ブロック塀の上を歩いたり、生垣の中にもぐりこんで涼を取ったりと、何だかちょこまか動いて可愛らしい。

一応はこちらを警戒しているらしく、夜になってカーテンを閉めるまでは軒下のコの字部分に入ることはせず、外から様子をうかがっている。

生前の父は、
「スズメが帰ってくるから早くカーテンを閉めてやれ」
などと母親に言っていたとのことだ。

どうやらスズメを見て楽しむのは遺伝らしい。

母親に何かあったら知らせに来てくれると助かるのだが、実家との距離は直線ですら 250kmほどあるので、それを望むのは無理だろう。

それならば、せめて一人暮らしの婆さんを癒してやっていただきたいと思っている。

テレビ離れ

テレビ離れが言われて久しいが、その傾向に歯止めがかからずテレビ各局は対策に頭を悩ませていることだろうが、今さら何をしようとも焼け石に水状態であり、超悪循環、負のスパイラルからは抜け出せそうにない。

そもそも、これほどの末期症状に陥ったのは、症状が顕著化した初期の段階で効果的な対応を打ち出せなかったテレビ局側に全責任があり、まったくをもって疑いようのない自業自得であるから、このままテレビ業界が衰退したとしても理由を他に転嫁することなどできないはずだ。

しかし、その予兆が現れたとき、業界はテレビゲームの普及を理由にあげた。

家庭用テレビゲームに興じる人が増えたため、同じ映像装置を使うテレビ放送の受信者が相対的に減ってしまったのだと。

それからテレビ離れが加速したとき、業界は解を携帯電話に求めた。

携帯電話を使用している時間の増加とともにテレビの視聴時間が減ったのだから、そこには明らかな相関関係が認められると。

そしてテレビ離れに歯止めがかからない今も外的要因に解を探る。

パソコン、携帯電話、家庭用ゲームが普及、BS、CSを含めた他チャンネル化、趣味の多様化によって視聴者の行動様式は分散化傾向にあり、テレビが娯楽の中心ではなくなったと。

確かに理由の一部としては間違っていないだろうが、全体像としては正しくない。

衰退の理由を外的要因に求めるのではなく、内に見い出さなければ業界に未来はないものと思われる。

現在のテレビ局は単に電波を配信しているのに過ぎず、以前のように責任を持って番組を制作することはなくなってしまった。

企画は吉本興業、ジャニーズ事務所、その他にも大手のプロダクションとか外部組織ばかりで、局内で企画したものなど皆無に近い。

おまけに番組を撮影するためのカメラマン、音響、その他のスタッフに到るまで外部の人間で構成されており、局側はスタジオを貸しているだけだ。

外部の手によって企画された番組が外部の手によって制作され、ただ無秩序に電波に乗る。

とうの昔にテレビ局は番組を制作する能力を失い、単なる電波配信屋さんになってしまっており、魅力的な番組作りなどできるはずもない。

あまりにも吉本興業やジャニーズ事務所への依存率が高まりすぎた結果、どのチャンネルを見ても同じような番組で、しかも演者は吉本かジャニーズで占められている。

芸人がワーワー騒いでいるか、漫画が原作の劇をジャニーズ事務所の誰かが演じているか、質が悪く、薄っぺらで通り一遍の取材しかしていない報道番組しか映し出されないテレビを誰が好き好んで見るのか。

テレビがつまらなくなったのか、テレビの感性についていけなくなったのか考えたこともあったが、それは明らかに前者であろう。

我が家でもテレビ離れが著しく、最近はどんどん見たい番組が減っており、全盛期の半分以下くらいになっているものと思われる。

しかし、テレビの前にいる時間が減っているかといえば、多少は少なくなったかも知れないが半分にまではなっていない。

『独り言』 に何度か書いているように、熱中して海外ドラマを見ているのである。

作る側も演じる側も真剣にたずさわって完成した良質なものは見ているものを惹きつける。

それに目をつけたのは良いが、何を勘違いしたのか、単なる安易な発想なのか、日本のドラマでは海外ドラマのストーリーやシチュエーションをそのまま真似したようなものが横行する始末で、もう開いた口がふさがらない。

堕落したまま何の反省も見られず、日本のテレビ業界が変わろうとしない限り、これからもテレビ離れは進んでいくことだろう。

停電の日には

ちょっとだけ心配していた台風 4号は北海道に上陸することなくオホーツク海の彼方に抜けて行き、温帯低気圧に変わってそのエネルギーを失った。

そろそろ台風シーズンなので、これから秋まで 20個程度の台風が現れては日本やその付近を北上するのだろう。

今と昔にどのような技術的な差があるのか分からないが、最近は台風の影響などによる停電というものがめっきり減ったように思う。

大阪に暮らしていた頃は年に何度も台風が近づき、そのたびに強風や豪雨にさらされたし、夕立の回数も多かったので何度も大嫌いなカミナリが発生していた。

それでも大阪で過ごした 13年あまりの間で停電を経験したのは 2-3回ではないだろうか。

電力各社の努力と技術の発展などがあり、倒れにくい電柱、切れにくい電線が広く使われるようになったのかもしれない。

北海道の場合は雪の重みで電線が切れることも頻発していたが、今となってはそのような話しを聞くこともなくなった。

昔は大雪が降っては停電になり、強風で停電になり、事故で停電と、わりと回数が多く、どこの家でも懐中電灯の場所、ロウソクの置き場所は大人から子どもまで把握できていたように思う。

そして、子どもの頃はロウソクで過ごす時間が妙にワクワクしたものだ。

しかし、テレビを観ることもできないので退屈で仕方がない。

親もヒマを持て余しているであろうから、トランプなどをして遊んだりしたかったのだが、ロウソクの明かり程度だと親は 「見え難い」 などと言って遊んでくれない。

子供の目は暗い中でも良く見えるので支障はないが、加齢と共に性能が衰えつつある眼球では辛いものがあるということを最近になって実感できているところではあるものの、当時は理解できるはずもないことなので遊んでもらえないことがひどく不満だった。

きょうだいでもいれば暗い中でもそれなりに楽しみを見つけて遊んだりできるのだろうが、幼くして妹を亡くし、一人っ子同然に育った自分は、ただただロウソクの炎の f分の1ゆらぎをジッと見つめているしかなかった。

そして、普段は何も聞かないくせにヒマなものだから学校のこととか勉強のことを急に親が話しだしたりするので面倒になり、最初はワクワクしていた停電も嫌になって早く復旧しないかイライラしたものである。

時は流れて社会人になってからは停電の回数も激減したが、何年に何度かは仕事中にバチンッ!と社内の電気が消えることがあった。

自分の住む世界はコンピュータ業界、この業界は電気がなかったら終わりであり、どんなに優れた技術者であろうと手も足も出ない。

作業内容はこまめに保存しておかなければいけないということを改めて実感させられる瞬間でもあり、社内が暗くなったとたんに、あちらこちらから叫びとも悲鳴ともつかない微妙な声がもれる。

ここ数時間分の作業内容が一瞬にして飛んでしまった瞬間だ。

しばしの沈黙のあと、深い溜息とともに私語が始まる。

普段はキーボードの音しか聞こえない社内に声があふれ、むしろ人間として正常になったとさえ言える光景が広がる。

電気がなければ本当に何もできないのがこの業界の弱点で、パソコンを使えない開発者はもちろん、今は手描きの書類など皆無に等しいので営業職、事務職、総務から経理まで一切の業務が止まってしまう。

停電が長引くと 「どうせ仕事にならないんだからゲームでもするか」 などと言い出す間抜けな奴がおり、パソコンの電源に指を置いたところで電気のないことに気づき、周りの皆んなから大笑いされたりしていた。

その当時、今は幻となってしまった MSXという規格のパソコンのような玩具のような機器があり、それは乾電池数本で駆動させることができた。

ゲームもできるその機器で遊ぼうとするのだが、画面は普通のテレビを AV端子入力で使う設計になっているため、電気がなくては映像を映し出すすべがない。

それでもスピーカーだけは備えていたので、プログラムさえすれば音は出せる。

名機 MSXを開発者が囲んで精神を統一し、画面を見ることもできないまま頭の中に映像を思い浮かべ、プログラミングしながら音楽を奏でて喜んだり喝采を浴びたりしていたものだ。

今は携帯ゲーム機でも携帯電話でもあるので退屈はしないだろうが、昔、停電の日には、親子、同僚、人と人のコミニュケーションを深めることができる時間でもあったのである。

記憶 Memory-04

過去の記憶

まだ幼稚園にも通っていなかったと思われるので 2-3歳の頃だろうか。

前回と似たような光景だが、勤めを終えた母親が老夫婦の家に迎えに来たので自転車の荷台の子供用イスに座って帰り道を走っていた。

異なる点は、それが冬ではなく春か夏、道路脇の雑草の緑が濃い季節。

周りはまだ明るく風景がはっきりと記憶に残っているので日の長い夏のわりと早い時間だったのかも知れない。

前から車が来た訳ではない。

猫や犬が急に飛び出してきた訳ではない。

なぜだかハンドルを握る母親の手がガクガクと揺れだし、蛇行を始めたかと思ったら自転車は右へ右へと進んで道路から少し低くなっている草むらに向かう。

もう道路はなくなり、自転車が右に大きく傾いて倒れ始めた。

不思議なことに、ここから先は超スローモーションの映像として脳に刻まれている。

バランスを崩して倒れかけた自転車。

母親は左にハンドルを切って何か叫んでいる横顔が見える。

自分の左足が高々と上がり、その先には青空が重なって見える。

右に眼をやると道路より低くなっているところに生える雑草が徐々に大きくなって迫ってくる。

子どもをかばおうとしたのだろう、体を抑えようと母親の右手が後ろに伸びて右腕を強くつかむ。

地面に叩きつけられるという恐怖と、握られた腕の痛さが同時にやってきて気絶しそうになる。

ここからは通常の速度の映像に戻り、ガサガサ、ゴロゴロと雑草の中を転がる自分と母親。

大量の草がクッションになったのか、思いのほか衝撃もなく、フワフワした感じで着地した。

そしてヨロヨロと立ち上がり、少し気が落ち着くとズキズキとした痛みが。

それは、どこかを強打した痛みでもなく、草などでどこかを切った痛みでもなく、母親が力任せに握った右腕の痛みだった。

ワンワンと泣く自分に駆け寄り、母親は
「どうしたの?どこか怪我したの?どこが痛いの?」
と矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。

正直に握られた腕が痛いと言うと、母親はムッとして
「お母さんが助けたから怪我もしなかったんだからね」
とか
「男の子なんだったら少しくらい我慢しなさい」
などと言いながらズンズンと斜面を登って自転車にまたがった。

心の中で
「こんなにやわらかいなら何もしなくても怪我なんかしない」
などとブツブツ文句を言いつつも、そんなことを口に出そうものならゲンコツが飛んでくるのは火を見るより明らかだったので黙ったまま自転車の後ろに乗った。

それから長い間、父親や叔母、近所の人達に話をするたびに
「私が守ったから」
的な発言を繰り返していた母親のそばで
「違うって」
と心の中でささやかに突っ込んでいたりする日々が続いたのであった。