謝罪

お買物日記』 担当者が近所の方と話しをしていると、「最近はテレビを見ると誰かが謝ってばかりいる」 と仰っていたという。 確かにその通りで、『白い恋人』 の石屋製菓、伊勢名物の赤福など有名ブランドや老舗までが利益追求を優先する余り、賞味期限を改ざんするなどして企業価値を大きく損ねる結果となってしまい、代表者が深々と頭を下げることになった。

すっかり古い話題だと思っていたが、不二家のずさんな商品管理が問題になったのは今年一月のことであり、どうしてそれを教訓にするなり、その問題を受けて改めるなりしなかったのか。 どんなに有名なブランドでも消費者の信用を裏切れば自力での存続が困難であることが証明されたわけであり、同じ業界に身を置くものであれば、余計に実感できたはずである。

同じような業界でミートホープがデタラメなことをしていたことが大騒ぎになったのも古い話題のようで、実は事件が発覚したのが今年の六月と、記憶に埋もれるには短すぎる期間だ。 同業であればなおさら、まだまだ身を引き締めている期間であるはずなのに秋田県の比内地鶏、宮崎県の産地偽装ウナギやら地鶏やらと、同種の事件が後を絶たず、代表者が頭を下げまくっている。

謝るのは負けを認めることと、意地を張り通していた亀田一家も謝罪していた。 この件に関しては 『管理人の独り言』 にも書いたので何であるが、謝り方も人それぞれであり、世間的には通用し難くとも意地だけで生きてきた人が、たとえ数センチでも頭を下げるというのは相当な心の葛藤を経てのことであろうと予想され、この話題に飽きたこともあるが、もう騒がなくても良いのではないかと思う。

会社更生法を申請した英会話の NOVA も、受講者に対して頭を下げているが、その端緒となった解約金問題に関しては少し複雑な思いで見ている。 予約が取り難い状況だったのに 「簡単に予約が取れる」 などという嘘はいけないし、クーリングオフの期間を偽っていたのも罪ではある。 しかし、判決が出た解約金の件に関しては異論というか疑問を感じざるを得ない。

多くの回数券を低価格で購入し、短期で解約すれば受講者が一方的に得をするというのは、いかがなものだろう。 10回で 10,000円のところを 50回であれば 30,000円だと仮定した場合、50の回数券を購入し、10回だけ使って解約すれば、1回当たり 600円になる。 100回で 50,000円という回数券があれば 1回当たり 500円だ。

そのシステムを悪用するユーザ(生徒)だっていると思われるので、解約の際は 100回 50,000円の回数券でも 10回分しか使っていなかったら 1回当たり 1,000円と見なして清算するという、 NOVA 方式を悪と決め付けて良いものだろうか。 まともな金額で回数券を購入した受講者が不公平感をもつだろうし、受講する全員がシステムを悪用したら会社もやっていけないと思われる。

いろいろな謝罪が続いている世の中ではあるが、年金問題で大騒ぎになった社保庁や、薬害肝炎問題で炎上した厚労省に対しては少しの同情心も湧いてこないのが不思議だ。 どんなに大きな不祥事が発覚しようと、ミートホープ社のように倒産する訳でもなく、不二家のように他に吸収される訳でもないので緊張感というものが不足しているからか。

おまけに担当者や責任者がクビになる訳でもなく、誰も責任を取ろうとしない組織など同情の余地すらない。 さらに事後処理に使われる経費は税金であり、腹立たしさは増幅されるばかりである。 担当者や責任者、各省のトップは亀田選手のように丸坊主になって謝罪し、父上のように省から追放されて復帰不可能にするべきだ。

若い力士が亡くなって大騒ぎになっている大相撲関係、不適切な報道、表現を繰り返すテレビ局など、謝罪ばかりだし、その他にも食品業界で頻発する異物混入、電気業界で続く発火事故、車のリコールなど新聞は謝罪広告であふれている。 いったい、この国はどうなってしまったのか。

いろいろな謝罪がある中で、納得できないのは 「大変なご迷惑、ご心配をおかけし・・・」 というくだりで、「誰もお前のことなんか心配してねーよ!」 と言いたくなる。 謝罪の中に、この 「ご心配」 という文言が入ると、感じられる誠意が半減してしまい、何だか腑に落ちず、逆に腹立たしく思ってしまうのは自分だけなのだろうか。

バスの車窓から

昨日は仕事の用事で外出してきたのだが、久々に、本当に久々に大阪市内を循環するバスに乗った。 毎年恒例にしている京都参りでは、駅からバスに乗って目的地まで向うのだが、大阪で乗ったのは実に 15年ぶりくらいのことだと思われる。

目的地が吹田だったので、近畿コカコーラの近くにあるバス停まで歩き、雨が降り続ける中でしばし待つ。 少し遅れて到着したバスに乗り込もうと足を踏み出すと、その乗り口がとても低く、昔のように足を高く上げて 「どっこいしょ」 とする必要がない。 きっと、お年寄りとか子供でも楽に乗れるように配慮されているのだろう。

車内は人もまばらだったので空いている席に腰をおろす。 前方にある料金表をみたり、乗り込む際にとった整理券をみたり、車内広告を見てみたりと何だか落ち着かない。 あまりにも久々のバスなので少し緊張してしまっているようだ。 しばし車内を観察して人心地がつくと、後ろの席に陣取るオバチャンの会話が耳に入ってきた。

どうやら家ではパソコンを使って子供さんとメールのやり取りをしているようで、「いちいちパソコンを立ち上げるのが面倒だ」 などと言っている。 そして、となりのオバチャンも同様にパソコンを使うらしく、話しはシャットダウン(パソコンの終了)の仕方に移っていく。

スタートボタンをクリックして終了させるところで意見は一致したようだが、そのスタートボタンの場所を一人のオバチャンが 「画面の左下」 だと言い、もう一人のオバチャンは 「いや、左上」 だと食い違う。 スタートボタンのあるツールバーは、画面の下だろうと上だろうと、はたまた左右だろうと、好きな場所に移動できることを知らないらしい。

さんざん話し合った後に、パソコンメーカーの話題になり、「うちは富士通」、「うちはソニー」 と違いを見いだし、「だからスタートボタンの場所が違う」 という結論を導き出していた。 心の中で、「違うんだよ~」 と叫び、「パソコンは違っても OS は一緒なんだよ~」 と続けてみたが、そんな心の声がオバチャン達に届くはずもなく、二人は 「そうかも知れない」 と深く納得しあっていた。

バスは次の停留所に到着していた。 乗り込んでくる人が一人しかいないのに車体がグラグラと揺れる。 「なんと柔らかいサスペンションか」 と思いながら揺れに身を任せていると、何だか少し気持が悪くなってしまった。

バスが走りだし、再びオバチャンの会話が耳にはいると、今度は携帯電話の話しに変わっていた。 どうやら携帯電話でもメールのやり取りをしているようだ。 最近のオバチャンはハイテク機器も使いこなし、なかなか順応性が高いようだと感心していると、子供からのメールが受信できないという内容に話しは移り、「たくさんの機能があっても使いこなせない」 と小言を言い始めた。

隣のオバチャンも賛同し、携帯キャリアの話に進む。 オバチャン二人は au で、「一緒だ」 と喜び合い、受信できないメールを送信してくる子供のキャリアを聞かれたオバチャンが DoCoMo だと答えたところで、「会社が違うから受信できないのでは」 という、あらぬ方向に会話が進む。 同じキャリアの端末同士でしか送受信できない方式も確かに存在するが、E-mail は全キャリア共通である。

「違うんだよ~」 という心の叫びは、またしてもオバチャン二人に届かず、「そうかも知れない」 という一言で、省電力化と高性能という相反する課題を克服し、小型化まで実現した高度技術の結晶である端末と、同じく高度な技術で次々と高速通信を可能にしている移動体通信網を根底から否定するがごとくの結論が、今まさに導き出されようとしている。

本当に必要な部分が欠落し、別の要素が増幅された彼女達の情報がオバチャンの間で瞬く間に伝播し、その内容は見事なほどに欠落と増幅を繰り返すこととなり、根本的な精度を失いつつも、ある程度の信頼性をもって受け入れられ、最終的には原型をとどめず、「ソフトバングの携帯電話が良い」 などという訳の分からないことになっているかもしれない。

そうこうしている間にバスは次の停留所へ。 ドアが開くのと同時に再び車体が揺れる。 そこで冷静になって周りを見てみて驚いた。 なんとバス自体が意思を持って傾いているではないか。 車体の右側が高くなり、左側が低くなって外の風景が斜めに見える。 つまり、乗り口を低くして乗客を迎え入れている訳である。 どうりで乗車するときに、足を高く上げなくても良いくらい低い位置に乗り口があったはずだ。

人が乗り込み、ドアが閉まると 「ウイ~ン」 というかすかな音をたててバスの姿勢がもとに戻る。 何だか巨大ロボットに乗っているみたいで少しワクワクする。 知らぬ間にバスもハイテク化し、人が気付かぬ気配りをしてくれているらしい。

バスが走り出してオバチャン達の声に耳を傾けると、話しは 「整理券をとるのを忘れていた」 という内容に移っていた。 「始発からの料金を払わなければならないだろうか」 と一方のオバチャンは気をもんでいたが、もう一人のオバチャンの 「何とかなる」 という一言に勇気付けられ、「そうかも知れない」 という例の一言ですべての結論が出たようだ。

バスの車窓から、雨が降って悲しく濡れた街並みをながめながら、つくづく思った。 こうして彼女達の一日は過ぎていくのだろう。

マサルノコト scene 15

いつも遊んでいた仲間の一人、セイジが転校してからは自分とマサルとノブアキの三人組となってしまったが、その三人の絆はむしろ深まったような気がする。 セイジが新しく暮らすことになった土地は、遥か 2,000km の彼方であり、簡単に会いに行ける距離ではない。 当時の電話料金からいって、頻繁に話ができる距離でもない。 かと言って、手紙を書くのも面倒だ。

そこで考え出したのが、当時はメジャーな媒体であったカセットテープに声を録音して送るというものだ。 現在であれば、簡単に E-mail で連絡を取り合ったり、その気になれば写真だって動画だって送信できるが、当時は手紙以外の連絡手段で、思う存分に近況を伝えることができるものと言えば、カセットテープに声を吹き込んで送るのが最善の手段だった訳である。

マサルとノブアキが、それぞれ自分のカセットテープレコーダーを持って我家に集合し、それぞれの機器を接続して BGM を流したり、好きな曲を録音したりしながらマイクに向って、あーでもない、こーでもないとしゃべり続ける。 単純に言えば、ラジオ番組の真似事をしながら、A面、B面合わせて 120分くらの声の便りを作成したのである。

それが一カ月に一度の割合だったのか、二カ月に一度の割だったか覚えていないが、まるで定期行事、義務でもあるかのように録音し続けた。 120分の録音時間とは言え、途中で曲を録音したり休憩したりするので、午後から始めた作業が終わるのはいつも夕方おそくになってからだ。 しゃべり疲れ、笑い疲れ、いつもクタクタになってしまうが、それはとても楽しい時間でもあった。

それ以外にもマサルと二人でノブアキの家に遊びに行き、父上のゴルフクラブと練習用の飛ばないスポンジ製のボールで飛距離を競ってみたり、ゴミを捨てるポリバケツのフタをフリスビーの代わりにして投げあって遊び、ノブアキが右手の小指に何針も縫う大怪我をしたり、それなりに男の子らしく、やんちゃで元気な生活を送っていた。

大晦日の夜は三人で待ち合わせして、年が明けると同時に神社まで初詣に行き、すぐに別れて帰宅するのもつまらないので、ノブアキと自分は喫茶店にでも行って話しでもしようと提案するのだが、scene 11 にも書いたような、クソ真面目なマサルが同調するはずもなく、初詣の帰りは我家に集まり、朝まで話しをしたりするのが毎年の恒例となった。

夜通し遊び、早朝に帰宅することになるからマサルもノブアキもフラフラで、すぐに布団に入って爆睡状態になるものだから、それぞれの家族が元旦の朝に顔をそろえることがなく、「いつも正月らしい朝を迎えられない」 とマサルの親からもノブアキの親からも半分冗談で嫌味を言われていた。

それほど仲良くしていても、クラス替えというのは非情なものであり、中学三年生になるとノブアキは違うクラスになってしまった。 おまけに三年生ともなれば高校受験が目の前に迫っており、自分などは先のことなど考えずに遊んでいたが、優等生だったノブアキは受験勉強を優先し、日常的に遊ぶ機会は大幅に少なくなってしまった。

しかし、セイジに向けた声の便りだけは、それからも三人で定期的に録音し続けたのであった。

相性

自分はどうやら本当にオバチャンとの相性が悪いらしい。 昨日の夜、自転車で近所をウロウロしていると、脇道からもの凄い勢いで自転車に乗ったオバチャンが飛び出してきたのである。 驚いてブレーキを強く握ると、自転車は 「ギギギギー!!」 と大きな音をたてて急減速し、かろうじてオバチャンのとの衝突を回避することができた。

オバチャンは謝るどころか、まるで 「そっちが止まるのが当然だ」 とでも思っているかのような態度で、自分より大きく広いであろう背中で、これまた立派で広い肩幅の盛り上がった肩をいからせ、大きな尻をブリブリさせながら、こちらを見もせずにズンズンと進んで行く。

あまりにも腹が立ったのでオバチャンの自転車の後方 30cm くらいまで近づき、オラオラとあおってやったが、それに気付いているのか気付かないのか、まったく気にする様子もなく、ただひたすらに進行方向だけを見つめてペダルをガシガシ踏んでいる。 相手にされない寂しさと、アホらしさが入り混じった微妙な感情が心を支配したので後を追うのを止めたが、腹立たしさは胸に残ったままだった。

8月に自転車で近所をウロウロしていたときもそうだった・・・。 脇道から車に乗ったオバチャンが、本線に入ろうと様子をうかがっていた。 自分より太い腕でガシッとハンドルを握りしめ、本線の車が途切れる瞬間を狙っている。 ちょっと嫌な予感がしたので少しスピードを落としながら車に近づいて行ったのだが、オバチャン号は車が途切れても発進しようとしない。

ずいぶん慎重だと思いながらオバチャン号の前を通り過ぎようとした瞬間、ブォンとという音と共に動き出すではないか。 慌ててハンドルを切り、衝突を回避するのと同時にオバチャン号も慌てて止まる。 腹が立ったので睨みつけてやったが、オバチャンは堂々と真っ直ぐ前を見据えたまま目を合わそうともしない。 かえって同乗者の方がワタワタと慌てているくらいだ。

それだけだったらまだしも、後ろを走っていた 『お買物日記』 担当者が前を通り過ぎようとした瞬間、同じようにオバチャン号が発進しようとしたので 「キキキ!」 という甲高い自転車のブレーキ音を、あたりに響き渡らせる結果となってしまった。

オバチャンには学習能力というものが備わっていないのか! ヒヤッとした瞬間を記憶する能力がないのか! そもそもヒヤッとする感覚を持ち合わせていないのか! 周囲に目を配れず、正確な状況判断もできないオバチャンに対しては、警察も免許を交付しないで頂きたいものであり、自転車であれ車であれ、走る凶器と化す可能性があるものを与えないでいただきたい。

自転車のオバチャン、車のオバチャンとも、よく今まで事故を起こさずに済んだものである。 そして、ああいうオバチャンが事故を起こしたときは、何だかんだと機関銃のようにじゃべりまくり、まるで自分が被害者であるかのような論理を展開し、当たり屋よりも性質(たち)の悪い相手に遭遇してしまったことを、本当の被害者に思い知らせたりするのだろう。

そういう意味では、事故にならずに済んだ自分の幸運を喜ぶべきなのか・・・。