利便性の追求

時代と共に世の中は便利になるものであり、2年前くらいからエアコンにフィルタの自動掃除機能が搭載され、今ではほとんどのメーカーの機種が 10年間掃除いらずになっている。 その 10年後の子供に 「昔は週に一度は掃除したんだよ」 と言っても理解できないだろうし、それがどれほど面倒だったか想像もつかないに違いない。

洗濯機も今は全自動で、しまいには乾燥までしてくれる。 今でさえ手洗いしていた頃を知る人は少ないだろうが、近い将来、汚れた衣類は洗濯機に放り込んでおけば勝手に洗濯して乾燥までしてくれるのが常識となり、ゴシゴシと手で洗って太陽の下で干していたなどということが想像もできない世代が世の中の中心となっていくのだろう。

食器洗浄機、いわゆる食洗機の登場によって洗い物からも開放されつつある。 食事をした後は誰もキッチンに立たず、テレビなどを見て家族の時間を共有できるのは良いことだとは思うが、まともに食器すら洗えない人が現れるのも時間の問題だろう。

いろいろと便利になってはいるが、家事に残された唯一の労働に掃除がある。 いまだに掃除機をゴロゴロと引きずり、ガシガシと床を掃除しなければならない状況は続いている。 しかし、それとて自動化されるのも時間の問題となってきた。 勝手に床を動き回り、掃除をしてくれるロボット型の掃除機が誕生したからだ。

今はまだ吸引力と持続性に問題があるが、機能はすぐに向上するだろう。 燃料電池の開発、性能向上も進んでいるので、メタノール溶液を入れてやれば何時間でも部屋の中をウロウロし、勝手に掃除をしてくれるようになるだろう。 中に堆積したゴミは手で捨てなければならないが、人の欲求はとどまるところを知らないので、勝手に捨てて欲しいと思うに違いない。

そうすると開発者は頭をかかえながら、あれこれと研究を始める。 内部でチリやホコリを圧縮してカチカチに固めたものをノズルからゴミ箱に向って正確に発射し、ゴミ捨てを完了する。 本当にそこまでやる必要があるのか疑問ではあるが、人間は楽な方へ楽な方へと流れていくものなので、数年、あるいは数十年後には完全自動掃除ロボットが一般家庭の床を動き回っているかも知れない。

便利とは少し意味が違うが、テレビもプラズマや液晶で薄くなり、大型化が進んでいる。 『納得!買っとく?メモっとく』 にも書いているように、個人的には有機 EL という技術に期待しているので今は買い換えるつもりはないが、アナログ放送が終了する 2011年までに日本の家庭には圧倒的な数の薄型テレビが普及していることだろう。

そして、その頃には昔のテレビにはブラウン管が使われていて、とっても奥行きが深く、部屋の中で 「でん!」 と存在感を誇っていたことを知らない子供達が大勢いるのだろう。 お父さんとお母さんの結婚式や、自分の成長がビデオテープという媒体に記録され、ときどきテープが絡んで泣きながら直したことなど知らず、光り輝くディスクに保存されていることしか知らない子供たちばかりになるのだろう。

パソコンで動画を再生できるのは当り前で、画面いっぱいの静止画を表示するのに 3分も 4分もかかり、なおかつそれが 8色とか 16色でしかなかったことなど今の子供達は知らないのだろう。 今ではステレオサウンドを楽しめるパソコンも、昔はビープ音と言われるピコピコした音しか出せなかったことを知らないだろう。

機器の性能がどんどん良くなり、利便性が高まるのは良いことではあるが、何もない時代にテレビが登場したり、洗濯機や食洗機が登場して水の冷たさから開放されたりといった、世間に圧倒的に支持されるような画期的な商品は今後生まれるのだろうか。

「もう何もないだろうな~」 と 『お買物日記』 担当者にたずねると、「自動でお風呂の掃除をしてほしい」 と間髪を入れずのお答え。 なるほど、その気になれば世の中はまだまだ便利になるらしい。

命がけ

昨夜の独り言にも書いたが、愛知県で発生していた立てこもり事件で、SAT の隊員が若くして殉職してしまうという悲劇が発生。 彼には一歳に満たないお嬢さんがおられるとのことで、本当に何と申し上げてよいやら。 日本版特殊部隊に身を置くということは、死と隣り合わせの危険な任務につかなければならない状況に至ることであると、本人も覚悟していたであろうが。

それにしても発足以来、奇跡的に死亡者がなかった SAT 部隊隊員が、頭のイカレた元暴力団員の銃弾によって倒れるとは。 それも、防弾チョッキを着用していたにも関わらず、そのわずかな隙間を通って心臓に到達するという不運で殉職してしまったのだから、心の底から悼むしかない。

昨夜のテレ朝に出演していたオッサンは、犯人が不穏な動きをしたら隊員も発砲すべきだったとか、遠距離からライフルで狙撃するなどの手立てもあったはずだなどと好き勝手なことを言っていたが、SAT、機動隊も含めた日本の警察は 『汝(なんじ)殺スナカレ』 の精神のもと、犯人を生け捕りにするのが前提であり、撃たれても撃ってはいけないのである。 テレ朝も、もう少しまともな人を呼べなかったのか。

人質、そして同僚の命を身を犠牲にして守ってくれた SAT 隊員だけではなく、命がけで市民の安全を守ってくれる職業についている人々には心から感謝しなければならないだろう。 交番の警察官、消防士も同様、2004年に発生した新潟中越地震の際に土砂崩れ現場から幼い子供を救出したレスキュー隊もしかりだ。

断続的に余震が起こる中で続けられた救出活動は難航を極め、崩落でゆるんだ土砂がいつ再び崩れ落ちるかもしれない状況の中、危険を顧みずに数時間も救出活動をしてくれた。 助けられた子供の家族だけではなく、血も縁も繋がっていない自分でさえ感謝の念を禁じえなかった。

16日、イラク特措法の期限が 2年間延長されることが衆院で可決されたが、野党は相変わらずギャーギャー騒いでいるだけだ。 自衛隊の海外派遣を非とするならば、パレスチナのゴラン高原に派遣されている自衛隊も違憲行為ということになるだろう。 それを話題にもせず、イラクにばかり議論が及ぶのは参院選を見据えて、目立つ話題に集中させるという魂胆ではないのか。

自衛隊の海外派遣は直接的に日本人を守ってくれている訳ではないが、命がけの任務を遂行しているという点において変わりはない。 国内で大きな災害があった場合、自衛隊は危険な現場にも駆けつけてくれるし、万が一、どこかの狂った奴が日本に向けてミサイルを発射したり、攻めてきた場合は命がけで守ってくれることだろう。

国が保持する組織だけではなく、命がけで仕事をしている人だっている。 パイロットや全ての乗り物の運転士は常に危険と隣り合わせだ。 操縦や運転のミスだけではなく、乗り物の整備状態で事故が起きる場合もあるし、陸路の場合は相手の過失によって事故に巻き込まれることもある。

様々な現場で作業する人も危険だ。 高所の場合だと落下の危険があるだろうし、地下の場合は崩落の危険がある。 機械を扱う人も巻き込まれて手や足を切断したり、命に関わるような重大事故の危険性をはらんでいる。 いや、2005年のJR福知山線事故のように通勤時に大きな事故に巻き込まれる危険性だってあるのだから、安全な職業などないということか。

しかし、自分はどうだろう。 今は在宅なので通勤もしていないし、作業内容といえばパソコンの前に座って指先と、少しばかり脳を動かしている程度だ。 決して命がけの危険な仕事ではない。 男たるもの、こんなことで良いのか!と自問すれど、この歳になって自衛隊に入る訳にもいかず、警察や消防に入るために公務員試験を受けるような頭脳もない。

いや、パソコンの前に座りっぱなしで同じ姿勢のままなので静脈血栓塞栓症、いわゆるエコノミークラス症候群になり、足でできた血栓が脳や心臓に飛んで死に至る危険があるかも知れないので、ものすごく遠い意味では命がけの仕事と言えないこともないような気がする。

そう考えると何となく怖くなってきたので、ちょっと足を動かしたりしてみながら書き終える今日の雑感だったりする。

最近の若い者は

何年もの間、この雑感は義務的かつ事務的に書いており、土曜の午後になればパソコンの前に座ってダラダラと書き始める。 何を書くかは労せずともパッと浮かび、ワーッと一気に書いてしまうことが多いのだが、今日は何を書いたら良いのか思考が定まらない。 書きたいことは思い浮かぶのだが、疲れが残っているのと睡魔と闘っているのが一緒になってボ~ッとしている。

こんな時は過去の記憶に頼るものや、面倒な理論をゴチャゴチャと考えたりする必要がある文章を書くよりも、流れに任せてボンヤリした内容のものをフワフワと書くのに限る。 時事ネタであればエキスポランドのジェットコースター問題が挙げられるが、こんな気分のときに書くにはあまりにも内容が重い。 違う話題と言えば高校野球の特待制度問題もあるが、「高野連は何様のつもりか!?」 程度のことしか思いつかない。

「もっと軽い話題は?」 と思いを廻らし、ポンと頭に浮かんだのは太陽くんと辻ちゃんの結婚だ。 二人はいわゆる 『できちゃった婚』 というやつで、辻ちゃんは妊娠による体調不良から結成されたばかりのユニット 『ギャルル』 を脱退したり、急性胃腸炎を理由に舞台を緊急降板したりしており、結婚会見に集まった報道陣らは責任論を展開する有様で、諸手を挙げて喜べる状態ではなかった。

本人たちも自覚していたであろう様子は、会見の第一声が謝罪だったことからもうかがえる。 若い二人が若いになりに考えて、公式の場で謝罪までしているのだから、後は 『おめでとう会見』 にしてあげたら良いのに、意地も頭も悪い記者どもは二人が困るような質問ばかりしていたように思う。 記者の中に 『モーヲタ(モーニング娘。オタクの略)』 と呼ばれる人種が入り混じっており、嫉妬心を丸出しにしていたのではないかと疑いたくなるほどだ。

中には 『できちゃった婚』 の増加とともに幼児虐待や育児放棄の件数も増加傾向にあることや、それに絡めて熊本市の慈恵病院で運用が始まった 『こうのとりのゆりかご』、いわゆる赤ちゃんポストにまで話しを発展させる番組まであり、若い二人が 「幸せになります」 と言っただけのことが予想もつかぬ社会問題にまで波及する日本はヒマな大人が多い国だという表れでもあるような気がする。

自分にそんな意識はないが、「近頃の若い者は・・・」 と嘆いているオッサン、オバハンも多いことだろう。 自分がどれほど立派になったのかは知らないが、その自分たちですら若い頃には年上の人から 「近頃の若い者は・・・」 と言われていたはずである。 当時、そう言っていた大人も若いころには年上から 「近頃の・・・」 と言われており、時代はどんどんさかのぼる。

日本では平安時代の文章に 「最近の若い者は・・・」 と書かれたものがあるらしいが、考古学者が古代エジプトの発掘調査をしていて遺跡に書かれた象形文字を発見し、何か重要な歴史的事実が書かれているのではと解読したところ 「最近の若い者は・・・」 という年寄りの愚痴がかかれていたらしい。 数千年前の時代にも若者と大人、世代間の対立はあったようだ。

この事実を突き詰めて考えると、常に年長者が立派で若者がなっていないということになる。 それが真であるならば、最古の人類がもっとも高潔で神に近い存在であり、文明や科学技術の進化はあれど、人間自体はどんどん質が低下し、堕落していっているということになる。 確かに坂本龍馬などは 30代にして世界を見渡し日本の将来を憂いていたが、今の 30代はどうだろうなどと考えてしまう。

それほどまでに人間の堕落は進んでおり、このままでは人類の未来にとって・・・などと大袈裟なことを考えている場合ではない。 太陽くんと辻ちゃんの件で人類の未来像まで思考が発展してしまっては、訳の分からない責任論を展開するマスコミや、幼児虐待にまで話題が広がるテレビと大差がない。

ここは 「おめでとう!」 の一言をもって、今週の雑感をお開きにすべきだろう。

言葉の変遷

このごろ気になることの一つとして、オバハンの語尾上げがある。 文章で表現するのは難しいが、「~ですか?」 のように、まるで質問しているみたいに語尾を上げて話すのだが、「お前は 20年前の女子大生か!」 と突っ込みたくなる。 確かに、いい歳をして語尾上げを使うのはバブル全盛期に女子大生だったオバハンが多いようだが、それから社会人を経験しても直らなかったのだろうか。

「だから~。 ○○がぁ~。 ○○でぇ~。 ○○みたいなぁ~。」 と文章を細切れにして話すオバハンも気持ちが悪い。 第一、そんな話し方をされたら句点(『。』まる) のたびにうなずいたり 「ふんふん」 と相槌をうたなければならないので疲れる。 首根っこをつかまえ、「さっさと喋らんかー!!」 と耳元で怒鳴り散らしたい気分だ。

以前は若者文化の発祥と言えば女子大生が中心だったが、今となってはその座を女子高生を中心としたコギャルに奪われてしまっているようだ。 ファッション、化粧品、食べ物の流行まで生み出すパワーを秘めるコギャルには、ある意味で敬服するものがあり、様々なメーカーまでがマーケティングの対象にしたりしている。

年末に発表される流行語大賞には芸能、文化人などが選出されているが、本当の意味での流行語を創っているのは彼女達ではなかろうか。 流行り廃れも早く、オッサンである自分などが理解できるようになるころには、コギャル達の間では死語と化していることが圧倒的だ。

10年以上も前に使われたチョベリグ(超ベリーグッド)/チョべリバ(超ベリーバッド)など、もう誰も使っていないだろうし、その後に生まれたチョバチョブ(超バッド超ブルー)も聞かなくなった。 数年前に使われていたチャケバ(ぶっちゃけ話)なども、すでに廃れているのだろう。

コギャルなどという分類そのものが存在しなかった昔から、若者言葉が生まれては消えることを繰り返していたが、変な生き残り方をしている言葉もある。 その代表例が 『ハッスル』 とか 『フィーバー』 で、今では若者も含めてオッサン、オバハンまで滅多に使う言葉ではないのに、ニュース用語としてのみ、その存在を確認することができる。

「若者のフィーバーぶりが・・・」 「大いにハッスルしていました」 など、「誰に伝えたいんだ?」 と問いたくなるようなニュース原稿を若いアナウンサーが読んでいるのが可笑しい。 原稿を作成しているのがオッサンなのか、取材をしたのがオッサンなのか、それとも本当にニュースの用語として定着しているのか、正確なところは分からないが、このまま将来も生き残る言葉なのだろうか。

その他、日本語の使い方として間違っているものがそのまま定着してしまう場合もある。 今では誰も不思議に思わない 『意外と』 もそうだ。 もともとは芸能人が使い始めたようで、意外は形容動詞であるから、『意外に』 が正しい使い方なのだが、NHK のアナウンサーだろうと新聞の文字だろうと 「意外と美味しい」 などという使い方をしているので完全に市民権を得たようである。

最近になって使われ始めたのが 「普通に美味しい」 という表現で、これは 「味が普通である」 という意味ではなく、「お世辞ではなく美味しい」 という誉め言葉に相当する。 その 『美味しい』 ですら変化しており、とっても美味しいことを 「ヤバイ」 と表現することが多くなってきたようだ。 これは 「ヤバイくらいに美味しい」 という感情表現を 「ヤバイ」 に凝縮したものだろう。

『ヤバイ』 とは 『ヤバ』 が形容動詞化した口語であり、ヤバ(野馬)とはまだ調教されていない馬、つまり危険であるということなので、本来は良い意味を持たないが、長い時を経て、今、まさに、誉め言葉へと昇華しつつある歴史的瞬間に人類は遭遇しており・・・。 などと気楽なことを書いていて良いのだろうか。 このままでは日本語がどうなってしまうのだろう。

「思ったよりも、お世辞ぬきで本当に美味しいですよ」 が 「意外と普通にヤバイ」 で通じる世の中になるのだろうか。 『意外と』 という使われ方のように市民権を得て、将来の標準語となってしまう時が来るのだろうか。 それとも、これらの使われ方は一過性のものであり、正常な状態に戻る日が来るのだろうか。

色々と思うことはあるが、昔は自分も若者言葉を使い、親に注意され、社会人となって矯正されてきたものである。 中には定着し、正式な日本語となっていくものもあるだろう。 仮に江戸時代の人が現代にタイムスリップしてきたとしたら、きっと何を言っているのか理解できないに違いない。 数十年、数百年後の日本語は、現代人には理解できないくらいに変化しているのかもしれない。