嗚呼日本人 9

嗚呼日本人 ~目次~

このタイトルを書くのも久々で、調べてみると約三年ぶりということになる。 その間にも 「日本人って・・・」 思うことは多々あったのだが、過去にこんなタイトルで雑感を書いたことすら忘れていた。 自分の場合は頭が良くないのに加え、年齢とともに記憶力も低下しつつあるので、何事も記憶の彼方へ飛んでいってしまうことは良くあるのだが、日本人そのものが忘れっぽい人種であったりするのかもしれないと思うことがある。

25日、JR福知山線脱線事故から 2年が経過した。 被害者や遺族は JRから事故原因調査の報告をまだ受けられなかったり、補償交渉もまだ決着していないので事故は終わっていないのだろうが、当事者以外は年に一度だけ事故のことを思い出す程度になってしまっている。

あの路線を利用している人も、当時は電車に乗るのが怖かっただろうが、今はそれを思い起こす人も少なくなっているだろう。 一般人、乗客は事故を忘れても仕方のないことだと思うが、JRと運転手にはそれを忘れてもらいたくないものである。

この雑感にも何度か書いているが、1995年の阪神淡路大震災も風化しつつある。 我家でも当初は緊張の日々を送り、非常持ち出し用の荷物をまとめたりしていたが、月日の経過とともに荷物は解体されていた。 「こんなことではいけない!」 と気持を入れ直してあれこれと考え、『お買物日記』 担当者がまとめてくれたので今は復活しているが、これがいつまで続くか疑問である。

2006年 6月 3日に死亡事故が発生して大騒ぎになったシンドラー社製のエレベーターに関しても多くの人が忘れていることだろう。 当時は、「あそこにもここにもシンドラー社のエレベーターがある」 とマスコミも大騒ぎし、乗らないようにと張り紙までしてある建物もあったが、今では誰も気に止めずにエレベーターを利用しているに違いない。

その後、点検作業がどのように行われ、日本中のエレベーターの点検と必要な部品交換が行われたのか、それが完了したのか一切の情報がない。 そして日本人は事故のことをコロッと忘れ、今ではエレベーターのメーカーを気にする人すらいないだろう。

過去の独り言にも書いたように、今となっては IT 企業の悪の巣窟に近い状態になってしまった感のある六本木ヒルズだが、一時期は事務所を構えたり、住んだりしている人たちをヒルズ族などと称してもてはやしていた。 すっかり観光名所ともなった六本木ヒルズだが、完成直後の 2004年 3月 26日に 6歳男児が正面入口の自動回転ドアに頭を挟まれ死亡した事故を覚えている人がいるだろうか。

その回転ドアも取り払われ、今では違う種類の自動ドアになったこともあり、そこを通過する際に事故のことを思ったり手を合わせたりする人はいないだろう。 管理者の森ビルとメーカーの三和シャッターが罪のなすり付け合いをしていた記憶があるが、責任はどちらにあったのか、遺族への補償がどうなったのかは伝えられていない。

最近の話しでは 2月 6日に自殺志願の女性を救おうとして急行電車にひかれ、亡くなってしまった宮本巡査部長の件がある。 残された家族には初七日だけでなく、四十九日も一周忌も毎年の命日もやってくるが、あれだけ市民に愛され、命がけで人命を救った立派な警察官のことが、すでに記憶の片隅に追いやられようとしている。

大阪では桜のシーズンもすっかり終わってしまった。 木が葉で埋め尽くされると、その木が桜であって、つい先日まで綺麗な花を咲かせ、楽しませてくれたことなど忘れてしまうに違いない。 通勤、通学で通る道にある桜の木も、散歩中にある桜の木も誰も気に止めなくなるだろう。 そして、翌年になり、春が待ち遠しくなると思い出す。

しかし、それが日本人なのかも知れない。 過去と決別しなくては前に進むことも難しい。 何かあると蜂の巣をつついたように騒ぎ立て、すぐに何事もなかったように忘れてしまう国民性は、一気に花開いて咲き誇り、そして見事なほどに散りゆく桜に類似性を見いだし、ことさらに愛でたくなるものなのかも知れない。

一極集中

社会問題、政治問題にもなっている中央と地方の格差。 とくに最近はその傾向が顕著に表れているように思う。 それは景気回復だったり地価上昇などという経済的側面のことではなく、自分程度の人間が感じるのはメディアに対してである。

今月初めに行われた東京都知事の選挙にしてもそうだが、都民以外には大きく関係しない話題であるにも関わらず、石原閣下の独善ぶりとか、笑いを通り越して気持悪さ倍増の黒川紀章氏とか、ドラマチックに失敗した浅野史郎氏の顔が、テレビなどで毎日のように映し出される。

日本の首都である東京の長が誰になるのか、国際都市東京の構築には誰が相応しいのか、そして世界に向けて日本の情報をどのように発信していくのか、それは地方にとっても大切なことではあるが、いかんせん投票権すらないのだから、結果だけ分かれば十分であり、事前の選挙戦など毎日のように見せられても何の興味も湧かない。

現在、日本の総人口は約 1億 3千万人で、東京を中心とした首都圏の人口は 3千万人と、実に日本の人口の 23%を占めている。 したがって、テレビも首都圏を対象としておけば、ある程度の視聴率を稼げる訳なので、 「東京を中心に編成すれば良い」 という安易なものが目立つ。

グルメ番組も都内の美味しい店、何らかの情報紹介も東京が中心。 東京に住む気などなく、ましてや遊びに行く気すらない人にとっては、まったく必要のない情報だ。 これで最近の視聴率の低迷を嘆く方がおかしい。 インターネットの普及やら娯楽性の多様化など、もっともらしい言い訳をあげつらうが、実際のところは多くの人が楽しめる番組を製作できない側に大きな問題があるように思う。

地方に住んでいると、東京発信の情報よりも、住んでいる土地発信の情報の方が楽しいし、役に立つ。 六本木やら神楽坂やらの洒落た店の紹介よりも、安くて美味しく、腹一杯になる地元の店の情報が気になる。 主婦層をターゲットにしている昼間から夕方にかけてのローカル番組を一家団欒のゴールデンタイムに放送した方が視聴率が高いのではないかと思えるくらいだ。

日本第二の都市であった大阪も、景気の良い名古屋に抜き去られ、底なしの地盤沈下を続けているように思うが、市や府、官僚は裏金を作ったり談合したりするのに忙しく、財政破綻寸前だというのに何の危機感も持っていないようだ。 大阪で大きくなった企業が本社を東京に移すのを指をくわえてみているだけで、必死に食い止めようとしたり、逆に誘致活動をして呼び込むことすらしない。

吉本の芸人さんも下積み時代を大阪で過ごし、有名になって高額所得者になると東京に行ってしまう。 つまり、大阪からは人も企業も高額納税者が出て行き、東京の税収がどんどん増える構図だ。 九州や沖縄のように優遇税制を導入したり、通信、電気などで補助金を出したりして必死に誘致活動をしているところに経済規模や人口推移で負ける日も近いかもしれない。

そういう観点からすると、東京の知事などどうでも良く、大阪府知事の方が重要であり、前の横山(エロ)ノック氏や、現在の太田(デメキン)房江女史なんぞに府政を任せてなどいられない件の方が府民にとって重要で、石原氏の激しいまばたきや黒川氏の気持悪い姿などテレビで観ている場合ではないのである。

東京をロンドンやニューヨークのように世界に通用する都市にすることに異存はない。 しかし、政治の中心であるワシントン的都市や、いろいろな機能を持つ都市だって必要だろう。 人口が一極集中するのは避けられないとしても、金や情報までもが一極に集中し、地方が疲弊している現状が正しいことだとは思わない。

そして、東京を中心としたテレビ番組など見たくもないので、地方のテレビ局には是非とも頑張っていただきたいと思っている。 しかし、制作費を補えるほどの大きなスポンサーが、東京にしかないという一極集中の現実が、ここにも厳然と存在したりするのではあるが・・・。

リアクション

長いこと生きていると、リアクションに困る状況が少なからずおとずれるものである。 以前の雑感にも書いたが、電車の指定席がとれず、帰省先から帰れないというアホみたいな理由で会社を休んだ女子社員からの電話連絡を受けたときもそうだった。

本来であればガツンと叱らなければいけないのだろうが、あまりにもアホらしく、馬鹿馬鹿しい理由を聞かされて唖然としてしまい、叱る気にもならなかったのは、文字通り ”開いた口がふさがらない” という状況に陥ってしまったためだ。

その電話を横で聞いていたであろう彼女の親も、そんなことは仕事を休む理由にならないことを諭したりしないのであろうか。 可愛い我が娘が満員電車で立ったまま揺られて帰るのが忍びなく、「そこまでするくらいなら仕事を休んでもう一泊していきなさい」 とでも言ったのだろうか。

これも以前の雑感に書いたことだが、嘘をついてまで自慢話をする男がいた。 その男を含めた数人で酒を飲んでいたとき、ヒゲを剃るのはカミソリ派か、シェーバー(電気ひげ剃り機) 派かという話題になり、自分はシェーバー派だと応えると、「シェーバーでまともに剃れる?」 と聞かれたので 「剃れるよ」 と答えた。 すると、その男は 「嘘だね~。前に途中で止まって剃れなかったの知ってるもんね~」 と勝ち誇ったように言い放つ。

確かに、その男が家に来ていたとき、急な仕事の呼び出しがあったので慌ててヒゲを剃っていたところ、途中で充電が切れてしまい、あごヒゲを剃ることができなかったことがある。 しかし、それは電気ひげ剃り機なのだから、電気がなくなれば剃れなくなるのは当然のことであり、『まともに剃れるか』 という質問に対して 『剃れる』 と答えたことが嘘だという結果には繋がらないはずだ。

その男の嘘を何度も指摘していたので、まるで鬼の首でも取ったかのように責めてくる姿を見て哀れに思い、少しリアクションに困っていると、その嬉々とした態度に拍車がかかり、まるで自分が罪人であるかのように責め立ててくる。 あまりにもしつこいので先に述べたように、電気がなくなれば剃れなくなるのは当然のことであると言ってやった。

すると、一緒に飲んでいた仲間も同じように思っていたらしく、みんな一様に 「そうだ、そうだ」 と言い、それは嘘ではなく、当然のことであるという結論に至り、今度は今までギャーギャーと騒いでいた男がリアクションに困ってシュンとすることになった。

ある日、知人の紹介で職場を訪ねてきた人と会ってみると、どうやら以前に会ったことのある人と知り合いみたいで、「お噂はかねがね・・・」 などと言う社交辞令的会話が開始され、そういうことが苦手な自分は 「いやいや」 とか 「まあまあ」 などと適当な返事をしていた。 そして 「あまり良い噂じゃないでしょうけど」 と返すと、「いえいえ良くキレる方だと・・・」 と言ってくる。

それは、キレ者であるという、最大級の社交辞令的誉め言葉だったのだが、自分の脳は通常と異なる回路に接続してしまい、当時、社会問題化していた 『キレやすい子供たち』 に象徴される、”ぶちギレ” の意味の 『良くキレる』。 つまり、子供たちと同じく 『キレやすい』 と解釈してしまった。 確かに当時は出入り業者にクレームを言ったり、時には怒ったりする仕事上の立場だったのである。

その言葉を受けての第一リアクションは 「いえいえ、そんなことは・・・」 だったので、一応はつじつまが合う。 しかし、次に 「いや、そうかもしれませんね」 などと答えてしまったものだから、その場の空気が変なものになってしまった。

その人は 「は?」 と言ったまま固まっている。 きっと頭の中で (こいつ、ちょっと誉めたら認めやがった~!) と叫んでいたことだろう。 自分も 「え?」 と言ったまま固まっていた。 頭の中では (なんなのだ、どうしたというのだ) という疑問が次々に浮かんでは消える。

何だか妙な雰囲気になってしまったその場は、お互いが 「あははは」 と力なく笑って取り繕い、そそくさと仕事の話を始めたりしたのであった。

物の価値

かなり以前の雑感にも価値観について書いたが、また同じようなことを考える機会があった。 やはり物の価値というのは主観的な要素で大きく変動するものであり、それが高いか安いかは人によって大きく感じ方が異なるものだ。

何度も書いているように、自分はモスバーガーが好物であるが、マクドナルドと比較して売られている金額は高い。 しかし、それでもモスバーガーを選択するのは食後の満足感がマクドナルドより遥かに勝るからである。 味が好みではない人にとっては高い金額を払う価値などないだろうが、自分にとっては価値のある味だと思っているので、マクドナルドがデフレ期に 58円だの 100円だので販売していた時期も頑固にモスバーガーを食べ続けていた。

逆に安いものに価値を見出して結果的に得をする場合もある。 マグロのトロは赤身に比べて何倍も何十倍も高価だが、自分は健康上の理由から油を避ける生活を続けているので、高い金額を支払ってまでトロを購入する必要性がない。 また、一切れや二切れ程度を食するのなら良いかも知れないが、あんな油まみれの身を何枚も食べたいとも思わない。

それは肉類にも言えることで、霜降りも見事なフィレ肉などは食べても胸焼けするだけであるし、上と同じ理由で食べるのも避けているので、自分にとっては価値のないものである。 どうしても肉が食べたいときは鶏肉か、赤身の部分で十分だ。 大好物なのに高くて食べられないのなら我が身が哀れだが、食べたくもないものがどんなに高価であっても何の問題もない。

つい先日、『納得!買っとく?メモっとく』 にも掲載していたデジタルカメラを購入した。 安く買ったとは言え、それはモスバーガーが 100個も買える金額だった。 旅に出る訳でもなく、写真が趣味な訳でもなく、さらに必要に迫られていた訳でもないのに、高い買い物をしたという感覚はない。 機能的にも性能的にも十分で、絶対的必要性はなかったものの、十分な満足感が得られたからである。

最近は購入する頻度も費やす時間も減ってしまったが、自分がかつて業界に身を置いていたテレビゲームなどは、その価値が大きく問われるものだった。 そもそもゲームに興味のない人にとっては、本体に数万円も支払い、ソフトに数千円も金をかけること自体が価値のないことだろう。 ところがゲームに興味があったり、それが好きな人にとっては、その金額に値するものなのである。

ただし、ソフトには当たり外れがあり、たとえば 5,000円だとしても、それだけの価値があるものと 「金を返せ!」 と言いたくなるものが存在する。 しかし、それとて個人差があり、仮に自分が楽しめなかったゲームにも十分に満足する人だっているかもしれないので、それが高価か否かは主観によって判断される側面が圧倒的だったりする。

人それぞれ、自分にとって価値があるものに対して、それ相当の対価を支払えば十分なのではないかと思ったりしている今日この頃である。