呼称 呼称
三年以上も書き続けているこの雑感では、自分自身のことを 『自分』 と表現している。 関西では、相手を 『自分』 と呼ぶことが多いため、まぎらわしいのではないかと思い、文書での一人称を変えるべきか悩んだりしている。 ならば自分自身を何と表現すべきか。
仕事で社外の人と話をするときは 『私』 と呼んでいるが、こんな雑な文体に 『私』 は合わないような気がする。 普段は自分のことを 『俺』 と呼んでいるが、それを文書にするのもなんだか気が引けてしまう。 大阪らしく 『わし』 という手もあるが、ただでさえ 「実年齢よりも老けた文書を書く」 と人から言われているのに 『わし』 などという一人称を使うと、もっとオッサン臭い文書になってしまう。
生まれてこのかた 『僕』 などと言ったことはないので、お尻が痒くなってしまうし、『拙者』 では侍みたいだ。 文書では一人称で 『筆者』 という表現方法もあるが、なんだか偉そうで好きになれない。 同じ理由で 『我輩』 などは論外である。 無い知恵をあれこれ絞ってみたところで、妙案が浮かぶ訳もなく、言語を司る左脳が痛くなるだけなので、悩むのは止めてこれからも 『自分』 でいくことにする。
呼び名と言えば、前々から改めなければならないと思っていることがある。 それは親の呼び名で、人に自分の親のことを話すときは 『おやじ』『おふくろ』 という三人称を使っているが、親に直接話しかけるときは 『おとうさん』『おかあさん』 という二人称を使ってしまう。 父親はすでに上界の人となっているので呼ぶことはないが、まだ下界にいる母親は今でも 『おかあさん』 なのである。
こんなオッサンになってまで 『おかあさん』 などと呼ぶのは、マザコンみたいで自分でも嫌なのだが、他の呼び名が思いつかない。 大阪であれば 『おかん』 なのだろうが、残念ながら関西人ではないので、それは当てはまらない。 関東では 『かあさん』 が妥当なのだろうが、それには抵抗がある。
先週の雑感でも少しふれたが、両親共稼ぎだったため、生まれてすぐから小学校の 6年になるまで、他人に育ててもらった。 両親は夜になると迎えに来て、家に帰って寝るだけである。 朝も起きたら慌ただしく朝食をすませて出勤していくので、顔を合わせているのは一日に三時間程度だった。 従って、一日の圧倒的に長い時間を他人と暮らすことになる。
そして、その ”育ての親” を 『とおさん』『かあさん』 と呼んでいたため、今になっても 『かあさん』 は血の繋がっていない ”母親” というイメージが潜在意識の中に刷り込まれている。 それが故に母親を 『かあさん』 と呼ぶことに抵抗があるのである。
不良だったころは、母親を 『ばばあ』 などと呼んで怒らせていたが、この歳になって老いた親を怒らせることもあるまい。 『おふくろ』 と呼ぶのはドラマの世界みたいで気が乗らない。 『かあちゃん』 と、ちゃん付けにするのも気持ちが悪いし、『おっかあ』 だと東北系になってしまう。 いろいろと考えはしたが、結局は妙案が浮かばず、考えるのが面倒になってきた。
今更、この歳になって呼び名を改めるのも面倒であることだし、死ぬまで 『おかあさん』 と呼んでやろうかと思ったりしているのである。
2004 / 01 / 10 (土) ¦ 固定リンク