無宗教 無宗教
今年もまた新年が明けてしまった。昨年の雑感に引き続き 「また歳をとってしまう」 という感慨以外に特別な思いはない。この歳になってまで 「わーい!お正月だ〜」 とアホみたいに喜んでいる場合ではないのである。歳相応に年輪を重ね、落ち着きなども身に付けなければいけないのである。
とは言いつつも大晦日に一年を振り返って反省するとか、元旦に一年の目標を立てるなどということもなく、ただひたすらダラダラと過ごしてしまった。食っちゃ寝、食っちゃ寝の見事な体たらくぶりである。恐ろしくて計測していないが、体重も体脂肪率もド〜ン!!と増えているに違いない。
自分自身で今年一年の目標を定めずにいるくせに神社への初詣にだけは行ってきた。神様にお願いして何とかしてもらおうという魂胆である。普段は限りなく無宗教なくせに、こんな時だけ神様にお願いしても相手にしてもらえないかもしれないと、ちょっぴり不安に思わないこともないが今年一年のことを一生懸命にお願いしてきた。
すぐに始まる戎祭、通称 ”えべっさん” も仕事の関係上、毎年お参りしているが、これとて年に一度である。普段から信心深くした方が良いのであろうが、こういった神社 ”系” に対して普段はどのように接していれば良いのかという知識すらない。結果的に正月、厄年などの ”ここ一番” にしか訪れることはない。
我家では代々、死後は墓に入っているため仏教徒ということになるのだろうが、法事のとき以外は意識したことなどない。父親の命日ですら当日の、それも遅い時間になってやっと気がつくという程の不届き者なので、さぞかし上界ではブツブツと文句を言っているものと思われる。
無宗教なのにも程があるとたまに反省してみたりもするのだが 『先祖を敬い、信心深く』 などという教育は受けてこなかったので今ひとつ身に付かずにいる。第一、仏教徒であるはずなのに三年間も通った幼稚園がカトリック系だった。『三つ子の魂百まで』 と言うが、幼少時代に与えられた思想や性格は、年をとっても変わらないものである。
かと言って 「キリスト教信者なのか」 と問われれば決してそういうことはなく、結果的には無宗教なのであるが、「お願い!」 とか 「頼む!」 などと言う時にとっさに出るのは手のひらを合わせるよりも手を組む ”キリスト系” のポーズが多い。これも幼少の頃に身に付いてしまったものが今になっても自然に出てくるからなのだと思う。
以前の雑感でも触れたが、人がどんな宗教を信じようが本人の自由なのは当り前だが、しつこく勧誘するのだけは止めていただきたいものである。若い頃にバイトしていた店では、営業中なのにも関わらず新興宗教の勧誘にきた親子がいた。ましてや店内にお客さんがいるにも関わらずである。
その時は、さすがに頭にきたので 「その宗教には人に迷惑をかけてはいけないという教えはないのか」 と言って追い出したが、お客さんがいなかった場合はどうしていただろうと考えてしまう。相手は子供連れだけに 「きつく言っては申し訳ない」 とか 「追い出すのは可哀相だ」 などと思ったかもしれない。しつこい勧誘に加えて親子連れの勧誘も止めていただきたいものである。
これからも限りなく無宗教なまま生きていくであろうから自分には関係のない話しではあるが、代々の宗教を替えるというのは簡単なことなのだろうか。仏教の場合は墓石や仏壇があり、それを子供の代、一般的には長男へと受け継がれていく。その長男が違う宗教を選択した場合はどうなってしまうのだろう。しかも ”きょうだい” に男が一人しかいなかったらどうなってしまうのだろう。
仏教の墓に入っている先祖を新しい宗教のものに移し変える訳にもいくまいし、維持を放棄するわけにもいくまい。親戚縁者が一団となって考えを改めるように説得されたりするのかもしれない。法的に宗教の自由は認められていても自由に選択するのは 「大変なんだろ〜な〜」 と正月に似つかわしくないことを他人事のように考えたりしているのであった。
2003 / 01 / 05 (日) ¦ 固定リンク