文字に触れて

活字離れが叫ばれて久しいが、厳密に言うと活字とは活版印刷された文字のことなので、電子写植が100%近い現代では活字など存在しない。 とりあえず、世の慣習に従って活字と呼ぶことにするが、自分の場合その活字に触れる機会は割と多い。 以前の雑感や独り言にも書いたが、定期購読している雑誌があるので毎日かならず目を通す。 それが読み終われば何冊かの小説を読みながら次週の雑誌が届くのを待つ。

独り言を毎日書いたり雑感を書いたりしているので文章を書くのが好きなのかと問われることもあるが、実際はひどく苦手だった。 小学生のころから作文、感想文などは大の苦手で、頭の中にあることをどうやって文章にしたら良いのかさっぱり分からなかった。 それは基本的に文章を読まなかったからであり、基本的なことが何も分からないから苦手だったのだと思う。

もの心ついて初めて触れた文字はグリム童話だったか何だか忘れたが絵本だった。 それがとても面白ければ本を読むのが好きになったのだろうが、その内容は刺激に乏しく、テレビでアニメやヒーロー物を観るほうがはるかに楽しかったので読書量が増えるはずがない。

それ以来、教科書以外は文字に触れることもなく、初めて文庫本を買ったのは中学二年生のときだった。 友人のマサルが本好きだったのでその影響を色濃く受けてしまったことが事の始まりだ。 最初は推理小説から始まり、歴史物、ノンフィクション、エッセーなど手当たりしだいに読むようになった。

時には理解できるはずもない不確定性原理なる本や、宇宙物理学の本まで買ってできの悪い頭から煙を噴出しそうになったりしていた。 海外の小説は登場人物の名前を覚えられないという欠点があったが、それでも推理小説に始まり、ツルゲーネフ、カフカ、ヘミングウェイなどなど、およそ自分のキャラクターに似合わないものまで読んだ。

いくら読んだとはいえ、それが何も身に付いていないのが自分の情けないところで、教養になった訳でもなく、人生訓を得られた訳でもなく、それによって文章を書くのが上手になった訳でもない。 少なからず良かった点は漢字を覚えたことくらいで、少し面倒な漢字も何とか読むことができる程度か。

で、話を元に戻せば今でも文章を書いたりするのは決して得意ではなく、書き出しと結末に整合性がなかったり、言葉遣いが変だったり、誤字脱字の嵐だったりして文章の体をなしていない場合が多い。 それでも書き続けている理由は何だろうと自問自答を試みても明確な答えが見つからない。

少なくともこの雑感は自ら課した義務のように捉えているし、独り言は日記のようなものであり、過去の記憶があやふやになった際に読み返せば解を得られるというまことに便利なツールであると理解している。 そして何より上手ではなくても文章を書くのが嫌いではないのだろう。

実はこのサイト意外にも複数のブログサイトなどを運営しており、毎日複数の場所で駄文を垂れ流している。 大変だと思う日もあるが、それほどネタに詰まることなく長続きしていることからも基本的に嫌いじゃないことが伺われる。 要は相変わらず自分で自分のことが良く分かっていなかったりするだけなのだが、負担に感じていないからにはもう少し続けていくことができそうだ。