嗚呼日本人 2

嗚呼日本人 ~目次~

  「渡る世間に鬼はなし」と云うように古来から日本社会の仕組みは ”性善説”を基準に成り立っている。性善説を簡単に言うと「世の中に悪い人なんかいないもんね〜、人間の本性はもともと善なんだよん」ということであり、お互いの信頼関係が大前提になっている。

  昔の人は家に鍵などかけずに外出したし、見ず知らずの人にも親切にしていた。今でも人口の少ない村などでは鍵をかけずに外出していることが多い。それらは「この辺の人に悪い人はいない」「泥棒するような人はいない」という信頼関係があるからだ。

  それ以外にも口約束だけで取り引きが成立したり、話を聞いただけ、相手の目を見ただけで信頼する場合もある。しかし、多くの人が最も信頼するのは ”ブランド”だと思う。各地方にはそれぞれ名家が存在し、その家の血筋であれば無条件に尊敬されたりする。その人自身よりも○○家という苗字、つまりは ”ブランド” に価値があるわけだ。

  会社もそれは同様で、企業名そのものが ”ブランド”となる。最近でこそ能力主義に以降し、個人の能力がどれだけ高いかが重要になってきているが、多くの場合は個人よりもどの企業に所属しているかによって相手の態度が変わる。個人の能力が高かろうと低かろうと「○○株式会社 ○○部長」とかいう肩書が優先されるのである。

  日本では 「お仕事は?」 と聞かれたら「○○社で課長をやってます」などとと答えることが多い。終身雇用制が長く続いたために自分がどの道のプロフェッショナルであり、どのような能力があるのかよりも、どのような企業に所属して、どのような地位にあるのかが本人にとっても相手にとっても重要になってしまったのだろう。

  ある大手企業でリストラされ、再就職の面接の際に「あなたは何ができますか?」 との質問に対して 「部長がきます」 と答えてしまったという笑うに笑えない話もある。単に年功序列で順送りにその地位になれただけで、本人の能力など関係なくても ”ブランド” にこだわってしまう日本人の悲しさだろう。

  ところが今、そのブランドや性善説が崩壊しつつある。言うまでもなく雪印や政治腐敗に端を発する 「食への不安」「社会への不安・不満」 である。結果的に雪印食品は解体されることになったが、それは氷山の一角であり肉、米、野菜、魚などどれをとってもラベル表示を信じることができなくなってしまった。流通の過程や小売店で産地を改ざんしている報道が後をたたないからだ。

  ○○産と表示されていれば 2-3割高くても ”ブランド” を信じ、まさか表示を偽る悪人はいないだろうという ”性善説” を前提に購入にしていたわけだが、そのどちらも信用することができなくなってしまった。さらには賞味期限も信用することができない。プロでもないかぎり産地を見極めることは不可能だが、生鮮食料品に関しては昔ながらの知恵で鮮度を見極めるしかなさそうだ。

  そして相変わらず国会は田中真紀子、鈴木宗男両氏の問題で騒がしい。先週の雑感に書いたとおり体調が悪くずっと家にいたため、たまたま 「ムネオハウス」 が問題になった国会中継をオンタイムで観ていた。国会中継を観て腹を抱えて笑ったのは初めてである。しかし、ひとしきり笑った後で怒りが込み上げてきた。我々の税金が投入されているのになぜ個人の実績として評価されているのか。

  おまけに工事を落札した企業が鈴木宗男氏の後援会関連で、そこから政治献金を受け取っているという。権力者と企業の癒着は今に始まったことではなく、時代劇でも 「お主も悪よのう・・・へっへっへっへ」 などと悪代官と越後屋が癒着しているシーンをよくみる。いつも名前を出される越後屋も可哀想だがドラマの世界だけでなく、現実に昔からそのような癒着があるのであれば、もはやこれは国民性なのかもしれない。米国でもエンロン破綻に端を発する政治家への資金提供が問題になっているので権力者と企業の癒着は国民性を問わず全人類共通の本性なのだろうか?

  田中真紀子氏に対しては同情の声のほうが多い。自分も事務次官だった野上氏や鈴木宗男氏と同様の扱いをされた彼女には同情している。しかし、先日の国会での 「(自分を更迭した)首相の判断は間違い」「首相自身が抵抗勢力」 という発言はいかがなものかと思う。

  過去に何度も書いているが、日本の景気を左右する株価は海外投資家の影響力も大きい。外資が日本から引き揚げられているのは小泉首相の指導力不足、構造改革の先行き不安が大きな理由である。そういう状況の時に更迭されたとはいえ、外務大臣を務めた政治家がすべき発言だったのだろうか?あそこでは ”私怨” をすててでも ”情” や ”国益” を優先すべきだったと思う。

  日本人は古来から現在に至るまで ”性善説” に則って情や和を重んじて社会の仕組みを構築してきた。個人主義が蔓延し、情や和が薄らぎ ”性悪説” つまりは 「世の中に善人などいない。人間の本性はもともと悪なのだ」 と考えて、他国のように簡単な約束事も契約書が前提となるのだろうか?そして問題解決のために裁判を起こすような世の中になっていくのだろうか?

  昔とは違い現代人は毎日風呂に入り、洗濯した下着を身につける。汚れを落とし清潔にするのは結構なことだが、人間味や人間臭さまでも洗い流してしまってはいないだろうか?