想い出の居酒屋 其の弐

想い出の居酒屋 おしながき

 以前の雑感でも触れた居酒屋には様々な思い出がある。楽しいこと、辛い事も含めて、何らかの節目には必ずその店で飲み食いしていた。

 はじめて行ったときも、会社の仲間の相談事を聞くためだった。よく見かけるサラリーマンと同様に、結局は上司に対する愚痴だったのだが、ひとしきり話を聞いた後で店内を見渡すと壁に貼られている品書きの値段がどれも安い。焼酎などボトル 2本で 900円くらいだったと記憶している。

 貧乏サラリーマンにとって強い味方であるその店を偶然にも発見した自分達の功績を二人で誉めたたえ、次の日には他の仲間にも報告したのである。その週末に 10人くらいで押し掛けて狂ったように飲み食いした。魚介類、野菜などどれも新鮮で出てくる料理がどれこれも美味しい。会計すると大量に注文したにも関わらず一人 3,000円にもならなかった。

 これでは貧乏サラリーマンのオアシスにならないはずがない。週末はいつも満席で通常は宴会で使用される二階まで開放しても入りきれないほどだった。それからというもの、週末には必ずと言っていいほど店に通うようになったのである。

 「酒がまずくなる」という理由から、その店では「仕事の話禁止令」を出し、いつもくだらない話をしては涙が出るくらい大笑いしていたのだが、時には恋愛に関する相談事などでしんみりと飲んだりもしていた。女の子が結婚に関して悩んでいたため、二人で酒を酌み交わしたこともある。「なんで他人の彼女と酒を飲まなければならないんだ!」と思いつつも、なぐさめたり、おだてたり、勇気づけたりしていたのである。

 その店でアルバイトをしていた女の子が、会社の不満などを口にすることがなく、いつもゲラゲラ笑っているのを見て、よほど楽しい会社なのだろうと勘違いしたらしく、入社のための面接に来たときには本当に驚いてしまった。

 ふと見ると上司がその子と話をしている。さっそくみんなに報告し、通りすがりに「焼き鳥 3人前、タレでね」などと言ってからかっていると鬼のような顔で睨まれてしまった。その夜、みんなで店に行き「悪い事は言わないから俺達の会社は止めたほうがいい」と必死に説得した。禁止令があるから会社や上司の悪口を言わないだけで、どれほど会社に問題があるかを切々と話して思いとどまるように説得したのである。

 その説得が成功したのか、会社が採用しなかったのかは定かではないが、結局その子が入社する事はなかったので一同ほっと胸をなでたりしていたのである。実際に会社への不満は山ほどあった。それでも楽しく食事をしたり、酒を飲んだりしたかったので、みんな「禁止令」を守っていた。

 全員の胸の中で会社への不満が頂点に達したので一斉に会社を辞めることになり、会社への辞表を書いたのもその店である。書き方が分からなかったため、その筋の本を買い、店の二階を開放してもらってみんなで「あーだ、こーだ」言いながら辞表を書いた。そこには悲壮感や暗さはなく、「字が曲がっている」だの「大きさが揃っていない」だの「そもそも字が下手」だのワイワイと楽しく書き上げた。

 その時は我々一派も含め、20人近くがその会社を辞めた。技術者が大量に辞めたとあっては残された人たちは大変だろうと少し心が痛んだりしたが、経営者は感情論だけで行動するタイプの人だったので”彼”に対しては心が痛むことはなかった。5年以上も勤務した人にさえ退職金を出さなかったような”彼”であるから、「ざま〜みろ!」という感情のほうが強かった。

 辞表を提出して会社を辞めることが決定した日も、その店で飲めや歌えやの大騒ぎをして辞めることを”祝って”いたのであるが、店の人たちは「もうみんなで来ることはないのかね〜」などと言ってさびそうにしていたものである。

 会社を辞めた 20人近くは二派に分かれてまとまったところに再就職することになり、2人ほど減ってしまったが店に通っていたメンバーの大半は同じ会社に行く事が決まった。偶然にもオフィスが店の近くに決まったので店に通うペースは衰えず、その後も週末には店に顔を出して「よかったね〜」とオバチャンに喜ばれたりしていたのである。

 そして、それからも「仕事の話をしない」しきたりを継承しつつ、居酒屋での思い出は増えつづけていった・・・のは言うまでもない。