いつも海外ドラマを見ているが、そこでいつも疑問に思うのは役者さんの演技力がいかほどのものなのかという点だ。
見ているドラマはサスペンス系が多いのだが、つい 5分前まで善良な市民だった人が手のひらを返したように悪人へと変貌を遂げる。
今まで被害者であるかのように動揺し、さめざめと泣き、ひとりでなど生きて行けないようなタイプに見えた人が、もの凄く冷淡かつ残虐に人を殺害していたりする。
日本のドラマであれば、視線を合わせないとか目が泳いでいるとか言動が怪しいなど、どう考えても怪しかったりする登場人物がいるし、多くの場合はそれが犯人だったりするものだ。
ろくに英語が分からず、微妙なニュアンスなど分かるはずもないので言動の怪しさが伝わってこないのか、文化の違いから態度を見ても怪しさが分からないのか。
堂々とした態度で正面から目を見据え、視線をはずすことなくオーバーアクションで自分が犯人ではないと訴える姿からは犯人らしさが伝わってこない。
これは言語と文化の違いによるもので、アメリカ人や英語が堪能な人であればドラマを見ていて、こいつは怪しいなどと思うのだろうか。
もちろん犯人が犯人らしく、いかにもおどおどしていて最初から怪しいという登場人物もいるが、全体的には決定的な証拠を突き付けられるまで自信に満ち溢れた態度で、最後にそれが急変するというパターンが多いような気がする。
もう一つ想うのは、権利の主張に関してだ。
取り調べを受ける人、つまりは容疑者が常に権利を主張する。
誰かに危害を加えても身を守る権利、家族を守る権利を言い出し、あたかも正当防衛であるとか復讐するのが当然かのように主張する。
日本人にはそれができず、単なる言い訳とか同情を引きたいがための浪花節的せりふまわしになることが多く、堂々と罪を犯した理由など説明することはない。
確かに当然の権利ではあるが、警察に呼ばれて取調室に入るやいなや弁護士の同席を要求したりするのは毎度のパターンだ。
複数犯の場合、共犯者の情報を提供するかわりに減刑を要求するなど司法取引も日常茶飯事で、そんなだいそれたことをしたのに刑を軽くして良いものかと、見ているこちらが憤りを感じてしまうことも多い。
個人主義と組織の合理主義が微妙なバランスで作用し、お互いに徳があるから取引するのだろうが、被害者やその家族は減刑を不快に想うだろう。
そして、アメリカ人は自分がどんな生活をしていようと犯罪者であろうと子供に会う権利があると主張し、子供を引き取って育てている側がどんなに嫌がろうと姿を現したりする。
自分がどんな立場にあろうと会いたいものは会いたい、そして自分にはその権利があると主張してはばからない。
これが日本人なら
「子供に合わす顔がねぇ」
「こんな自分の姿をわが子に見せるわけにはいかねぇ」
と考え、
「陰からそっと見守っていきまっさ」
ということになるだろう。
そんな浪花節的なせりふが飛び交う典型的な日本のドラマを見て育ってきたので海外ドラマには違和感を覚えてしまうのも当然なのかもしれないが。
色々なところで違和感を覚えつつも海外ドラマは面白く、次から次へと録画して見まくっており、今では日本のドラマを見ることは一切なくなってしまった。
また CS放送の来月の予定が届く時期が近づいてきた。
面白そうなドラマが始まらないかとワクワクしたりしている今日この頃である。