感謝の気持ち

この歳になって急に善人になった訳でも宗教に目覚めた訳でもないのだが、やはり感謝の気持ちというのは大切であると思うし、それを相手に伝えると双方が軽い幸せを感じることができるという点において、重要とは言わないまでもちょっとした心のふれあいがあって良いものだと思う。

それというのも今朝のこと、近所のスーパーで買いたいものが安売りになっていたので 『お買い物日記』 担当者と出かけたところ、店内には食欲をそそる美味しそうな香りが立ち込めており、そのスーパーの一角で販売されている産地直送の野菜を作っている農家の主婦が、いつも買ってもらっていることを感謝して豚汁を無料で振舞っていた。

遠慮なくそれを頂いたところ実に美味しく、感謝の気持ちを込めて
「ごちそうさまでした」
と挨拶してその場を去った。

その方たちの作る野菜は毎朝届けられる新鮮なもので、さらにしっかりと野菜本来の味がするとても美味しいものであるにも関わらず、一般に流通しているものより割安で売られている誠にありがたい作物であって、むしろ消費者であるこちらこそ感謝すべきものだ。

それなのに、その作物をふんだんに使ったものまで食べさせてもらったのでは頭が上がらないではないか。

こうやって互いに感謝すれば悪い感情など持つはずもなく、むしろ互いに小さな幸せを感じることができる。

大袈裟な感謝ではなくても、何かしてもらって嬉しいと感じれば素直に
「ありがとう」
と言えば良いのであるが、言い慣れない人は照れくさいやら恥ずかしいやらで、そのたった一言が口から出ないものらしい。

我家の場合は 『親しき仲にも礼儀あり』 を心得て、礼を言うのが日常となっている。

立っているついでに何かを取ってもらったとき、コーヒーやお茶を入れてもらったとき、手の届かない背中を掻いてもらったとき、どんなささいなことでも
「ありがとう」
と言うし、
「ありがとう」
と言ってもらっている。

夏の暑い時に食事を作ってくれてありがとう、水の冷たい冬に食事を作ってくれてありがとうと普通に礼を言うし、『お買い物日記』 担当者が偏頭痛などで寝込んでいるときに食事の用意をすればありがとうと言ってもらえるのが我が家の日常会話だ。

自分がリクエストした料理を作ってくれればありがとうと言うし、たまに作れば
「美味しいの作ってくれてありがとう」
と言ってもらえる。

我家の場合は財布はひとつなので何を買うにも金の出所は一緒なのだが、CDやゲームなど自分のものを買ってもらったとき、靴や洋服など 『お買い物日記』 担当者のものを買ったときは互いにありがとうと礼を言う。

いつも 『ありがとう』 の五文字を口に出しているので、言うことに恥ずかしさも照れくささも何の抵抗感もない。

互いに感謝を口に出すので諍いもおこらない。

仕事で何かを頼んだら、それがコピー取り程度のことであっても、相手が部下や新人であってもやってもらったことに対して
「ありがとう」
と言ってきたし、それで職場の雰囲気が良くなりこそすれ、悪くなったことなど一度もない。

何の苦労もせず、金もかけずに暮しが平和になるのだから感謝して損はない。

昔は喧嘩ばかりして、ろくに話もしなかった母親だが、子供の頃から口に出して礼を言うようにしつけてもらったことに対してだけは感謝しなければならないだろう。