香りの記憶

食べ物の匂いには敏感なので嗅覚がにぶい訳ではないのだろうが、記憶に残っている匂いというものがない。

母親は子供のころから同じメーカーの化粧品を使っていたが、その匂いがどんなものか思い出せないし、匂いを感じたとしても、それがそうだと気付かず、母親を思い出すこともないだろう。

以前に交際していた女性、いわゆる元カノがどんな匂いだったかもまったく記憶がない。

したがって、同じ化粧品を使っている人がいても何も思い出すこともないのは家庭円満、家内安全のためには誠に好ましいことであろう。

ただし、『お買い物日記』 担当者と同じ化粧品を使っている人がいても、それにすら気付かない可能性が濃厚なので本当に好ましいことなのか疑問をぬぐいきれない面もあるが。

畳の匂や木の香りにはどこか懐かしさを感じ、緑の匂いや潮の香りに癒されることはあるので、まったく無関心でもないのだろうが、香りと思い出が直結することがないのである。

出張で何日も家を留守にして久々に帰ってきた時。

そして、久々に自分の布団に入ったときは何となく自分の匂いがして
「あ~帰ってきたんだな~」
とか思うこともあるが、それも一瞬のことである。

さすがに加齢臭を漂わせる歳になったとは思うのだが、今でも体臭がするとか足が臭いとか言われないところをみると自分はもともと微香性なのかもしれない。

冒頭にも書いたが、食べ物の匂いにだけは敏感で、毎朝の散歩の途中、朝食の準備をしているらしい香りに理性を失いかけることも多い。

緑が多いこの町は、朝の空気も澄んでいて、ほのかに樹や緑の匂いがする。

そんな中、どこからともなく魚を焼く良い匂いが漂って来たりして
「ああ、あの家の朝食は焼き魚に御飯なんだなぁ」
などと思ったり、卵やベーコンの焼ける匂いがすれば
「この家の朝食はパンにコーヒーか」
などと想像できる。

朝から揚げ物の匂いを漂わせている家もあり、
「高校生くらいの子供がいて弁当を作っているんだな」
と思いをめぐらせたりしている。

そうこうしているうちに腹の虫が
「ガルルル・・・」
と野獣化し、空腹を我慢できなくなって家路を急ぐ。

他の匂いには鈍感なくせに、食べ物の匂いに敏感なのは食い意地がはっているからだろうか。

ただし、食べ物の匂いであっても、それを元に昔を思い出すことはない。

しかし、食べ物の場合は香りではなく味が記憶に刻まれているので当然といえば当然か。

そんなこんなで香りの記憶に乏しく、匂いによって何かを思い出したり懐かしんだりすることなど皆無なのだが、ひとつだけ懐かしく思うことがある。

それは約 10カ月前にやめたタバコの香りだ。

あまり多くは触れていないが、今のところ禁煙は見事に成功しており、あれから一度もタバコに火をつけずに暮らせている。

もうすぐ一年が経過しようとしているが、タバコを吸っている夢を見たり、何かの拍子にふとタバコが吸いたくなってしまうので完全なるタバコ断ち、いわゆる 『断煙』 には至っていないのだろう。

人によっては禁煙したとたんに極端な嫌煙家になってタバコから逃げ回る場合もあるが、自分の場合は決して嫌いになった訳ではない。

たまに荷物の配達をしてくれる人が車の中でタバコを吸っていたらしく、応対に出ると体からプンプンと香りを漂わせたりしている場合があるが、その匂いに嫌悪感はなく、むしろ懐かしさを感じるほどだ。

そのタバコが自分にある唯一の香りの記憶かもしれない。