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2002年 4月21日

報道の自由 報道の自由

  もう 1年以上も前にこの雑感にも書いたことだが、最近のマスコミの報道姿勢には呆れかえっていた。ここにきて ”メディア規制3法案” が国会の場で審議されようとしている。当然のことながらマスコミ関係者は反対の大合唱だが、自分としては 「自業自得だ!」 と思うことが多い。

  マスコミには決して繰り返してはいけない ”あやまち” が過去にある。国の思惑や命令などにあやつられて ”嘘” の情報を国民に与えていた戦争当時のことである。日本は敗戦の色が濃くなっていたにも関わらず国民の士気低下を防ぐために 「〇〇海域で大勝利」 だの 「〇〇を制圧」 だのと嘘の情報を流しつづけた。国民はそれを信じていたから突然の降伏に愕然となってしまった。

  時代は変わったので、そのような利用のされ方は二度とないと思うが、国がメディアを規制することが正しいこととは思わない。しかし、あまりにも過剰な取材合戦は見ていても気分の良いものではないし、取材される側の人も気のどくに思えてしまう。また、怪我をするのではないかとヒヤヒヤすることだってある。どう考えても行き過ぎだったわけだから、ある程度の規制も必要なのではないだろうかという気になってしまう。

  マスコミ各社は 「メディア業界が自主規制によって諸問題を解決できるよう十分な時間をかけて審議すべきだ」 とか 「メディアの自主的、自律的な努力にゆだねるべき」 としているが、問題があると認識していながら自主性を持って改めることができないから法規制の動きが出たのである。今ごろになって 「自主規制します」 「努力します」 とは何ごとか。「うっかり調子に乗って暴走しちゃったけど、これからは気をつけるように ”努力” するから規制しないでね」 と言っているのと同じではないか。

  とくに TV報道を見ていて納得できないことが多い。以前の雑感にも書いたが、事件や事故の被害に遭って亡くなった人の葬儀にまで報道陣が押しかけ、肉親が嘆き悲しんでいる姿まで放送する必要があるのだろうか?外務省や雪印、破綻した銀行にも押しかけて出社する一般社員を追いかけまわし、結果的には何も答えてもらえない映像を流す必要があるのだろうか?わざわざ中継を繋ぎ、誰もいないと分かっている家の前でインターホンを押したり、「窓は硬く閉ざされたままです」 という必要があるのだろうか?

  事件を起したのが未成年者だったら親の責任もあるだろうから取材するのもある程度は理解できる。しかし、30にも 40にもなる加害者の親に取材する必要があるのだろうか?親が取材を拒否すると 「世間に対して申し訳ないと思わないのか?」 などと言い放ったり、祖父母や親戚縁者にまで取材の手を広げる。「あの子はそんな事をするような子じゃなかった」 とか 「被害者に何と言ってお詫びしたらいいのか」 などと言っている姿を国民に見せてどうしようというのだろう。

  加害者の家族や親戚はただでさえ肩身の狭い思いをしているのだと思う。それに追い討ちをかけるように写真やビデオまで映し、それを放送する必要があるのだろうか?第一、被害者や世間に対して申し訳ないと思わなければいけないのは加害者本人である。大人が犯した罪を親の責任と言わんばかりの取材には呆れてしまう。

  個人に群がる報道陣も何とかした方が良いのではないかと思う。逮捕された容疑者の顔を撮影しようと揉み合う報道陣、最近はニュースのレギュラーになっている政治家に群がる報道陣などである。一番近い所で撮影しようと先を争って押し合っているが、将棋倒しにでもなって怪我でもさせたらどうするつもりなのだろう?そうなったら潮が引くようにその場を離れて知らないふりをするに違いない。

  今回のメディア規制問題に関して各マスコミはこぞって反対のための特集を放送したりしている。その中で、メディアの力によって解決に向かった事件も少なくないと強調していた。古くはロサンゼルスで発生した殺人事件、例の ”ロス疑惑” から ”桶川ストーカー殺人事件” や ”和歌山毒物カレー事件” などが代表である。確かにそれらはマスコミの取材によって疑惑が深まり、公安や司法が動き出し、事件が解決に向かったのは事実である。

  しかし、”松本サリン事件” に代表されるように無実の人を容疑者呼ばわりして多大な迷惑をかけたのもマスコミである。マスコミに言わせれば 「容疑者・犯人などとは一言も言っていない」 となるのだろうが、一般市民が誤解してもしかたのない文脈や論調で報道したのは事実だと思う。さすがにマズイと思ったのか、後になって当人に出演してもらってお詫びをしている TV局もあったが、自分達がどれだけ大きな間違いをしてしまったのかを掲載している週刊誌や新聞を見たことがない。

  新聞などで 「警察では近く参考人として事情聴取する方針」 という一節をよく見かけるが、そのまま解釈すると 「あ〜やっぱり悪い事をしてたんだな」 と思ってしまう。しかし、この一節はマスコミの見込みである場合が多い。警察に 「取材した結果かなり怪しいから事情聴取すれば?」 と促しているようなものである。また、警察関係者に取材して 「参考人として呼びますか?」 「そうですね。疑いが濃くなったら呼ぶでしょうね」 というやり取りだけでも 「近く参考人として・・・」 という一文になる。

  「表現の自由、言論・報道の自由に国家権力が立ち入るのは問題」 と今回の法案に反発しているが、客観性がなく主観で書かれる原稿を活字にしたり放送に乗せたりするすることまで表現や言論の自由の枠でくくって欲しくない。報道は公平で客観的なものでなくてはいけないと思う。真実や事実 ”だけ” を伝えるのが報道であり、表現の自由、言論の自由とは距離のあるものだと思う。

  論理学者は 「自由とは制限されたものだ」 と説く。自由には必ず義務が伴うと。自由とはそんなに窮屈なものかとがっかりする面もあるが、自主的にでも法的にでも規制がなければ暴走に歯止めがかからない。マスコミに対して否定的なことばかり書いてしまったが、報道の自由に国家権力が立ち入ることに対しては賛成できない気持ちは同じだ。

  マスコミもギャーギャー騒ぐだけじゃなく、各社で協議して自主規制を打ち出す姿勢を示せないものだろうか。「協議した結果、これこれの自主規制を設けました。したがって法規制の必要はありません」 と前向きな提案を国にすれば良いのでばないだろうか。それすらもできなく、自由を盾にして騒いでいるだけなのであれば、マスコミに自浄作用を期待するの難しいのではないかと思う。

2002 / 04 / 21 (日) ¦ 固定リンク

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