2004年10月30日
運 運
「運がいいとか〜悪いとか〜人は時々〜口にするけど〜♪」(by 1975 さだまさし:無縁坂)。 そういう事って確かにあるとテレビを見ててそう思う。 台風 23号による被害、新潟県中越地震による被災と、自然災害の恐ろしさを見せつけられることが多いが、不幸にも被災者になってしまう人、何も被害を受けない人、不幸にも亡くなってしまう人、無事でいられる人。 その分かれ目は何なのだろう。
もちろん水が流れ込み、溜まりやすい低い土地に住んでいるとか、活断層の上に住んでいるなど地形的リスクを負っている人もいるが、そんな中で命を落としてしまう人までいる。 いつも通る生活道路なのかもしれないが、風の力に負けて倒れる木の下を偶然に通りかかって押しつぶされてしまう人もいる。 なぜ、どうして、その時間にその場所を通ってしまうことになったのか。
新潟で土砂崩れ現場から奇跡的に救出された優太ちゃんは、九死に一生を得た訳だが、どうして土砂崩れの現場を車で走行していたのか。 新潟からの帰りだったと伝えられているが、出発するのが 5分早くても遅くても土砂崩れに巻き込まれなかったはずである。 現場までの道中、一度でも赤信号で停車していたら、災害に遭わずに済んでいたかもしれない。
台風のときに落下物に当たって亡くなってしまった人も、なぜ偶然にもその場所を歩いていたのか。 逆に、なぜその時に物が落下したのか。 人間など小さな生き物である。 その小さな対象にピンポイントで狙いすましたように物が落下してくるのはどうしてだろう。 そしてその人は、なぜその時間、その場所に居合わせるように家を出て、そういう歩行速度で歩いたのだろう。
今回のような天災だけでなく、事故に巻き込まれてしまう人もそうだと思う。 自分に非があって事故を起こしたのであれば仕方ないが、その事故に巻き込まれてしまう人は不運である。 居眠り運転の対向車に突っ込まれて亡くなってしまう人もいるが、車などというのは時速 60km くらいで走っているものである。 1時間あれば 60km も移動可能な速度で走行しているのに、どうしてその地点を走っているのか。
三菱製のトラックに欠陥がありタイヤが外れ、その外れたタイヤの直撃を受けて亡くなった人も、何故その場所を歩いていたのか。 そして、タイヤは何故そのタイミングで外れたのか。 そのトラックが、あと 1km/h でも速度を落として走っていれば、逆に 1km/h でも速度を上げて走っていれば、タイヤの外れる地点は変わっていたはずである。
歴史や過去に ”たら” や ”れば” は使えないことは分かっていても、もう少しこうなってい ”たら” とか、あの時 こうであ ”れば” などと思ってしまう。 亡くなってしまう人達がその場所に居合わせたのは必然だと思えないし、思いたくない。 偶然にも事故が発生する場所に居合わせる結果になってしまうのは、やはり運、不運の問題だと思わざるを得ない。
すぐ隣の兵庫県では台風 23号の影響で 20人以上の方が亡くなり、家屋の倒壊などもあって長期に渡る避難生活を余儀なくされている人が大勢いる。 しかし、世間の目は新潟に向いてしまってることが多い。 1995年 1月 17日に発生した阪神淡路大震災でも、同年 3月 20日に発生した地下鉄サリン事件に世間の関心が向いてしまった過去を持つ。
・・・ これもやはり、運が悪いということなのだろうか。
2004 / 10 / 30 (土) ¦ 固定リンク