2001年 2月18日
言葉の文化 言葉の文化
日本語は海外から見て抽象的でもあるのだが、すぐれた言語なのも事実である。同じ雨にしても、雨、小雨(こさめ)、五月雨(さみだれ)、霧雨(きりさめ)などなどがあり、同じ小雨(こさめ)にしても、小雨が”降る”のと小雨が”ぱらつく”のとでは情景が異なる。
言語が持つ”あいまい”さゆえに、幾通りもの表現が可能なのと同時に海外の人には伝わりにくく、何を言いたいのかを理解してもらえないことが多い。政治の世界においては政策が”玉虫色”で、その表現も”あいまい”であるから、輪をかけて理解できないようだ。・・・実際、同じ日本人であっても政治家の言っていることは理解に苦しむことが多い。
それでも、感情や自然現象には無限のパターンがあるわけで、その時々に応じて使い分けることができる日本語はそれを表現し、情緒を表すのには適していると思われる。しかし、なにげなく使っている言葉でもよく考えると語源は何なのであろうかと考えてしまうような不思議な言葉がある。
先日、朝の TV で「滅茶苦茶(メチャクチャ)」の語源を調べていた。それによると、お茶の中には「芽茶(めちゃ)」と呼ばれる貴重なお茶があり、たいそう美味しいのだそうだが、入れかたを間違えるととても苦(にが)い「苦茶(くちゃ)」になってしまうそうで、そこから道筋からはずれたり度が過ぎたり、悪い状態になってしまうことを「滅茶苦茶(芽茶と苦茶)」と言うようになったらしい。
それを見ていて「なるほどね〜」と感心し、以前に自分で調べた「とばっちり」の語源を思い出した。「とばっちり」という言葉があるが、冷静に考えてみると、「とばっちり」は「と」「ばっちり」なのか「とばっち」「り」なのか、日本語なのか外来語なのかすら解らなくなってしまった。現代用語の基礎知識で調べたところ、「とばっちり」は「徒馬塵」と書き、走っている馬のそばにいると馬が蹴り上げた塵(ちり:泥や土)が飛んできて汚れてしまうことから、そばにいて被害に巻き込まれたりすることを「とばっちり」と表現するようになったということだった。
他にも以前に読んだ本に黄昏時(たそがれどき)の「たそがれ」は、「誰ぞ彼(だれぞかれ)」がなまって「たそがれ」と言われるようになったと書いてあった。夕暮れ時になって遠くにいる人の顔が見えなくなり、「あれは誰だ?(誰ぞ彼)」という状態になるため黄昏時(たそがれどき)というらしい。
日本語は奥が深く、情緒豊かな言語なわけであるが話を元に戻すと日本人は、あいまいな表現で日常を過ごしている。したがって、それとは逆に「お笑い」に求められるのは”白黒”はっきりしたものになる。「ぼけ」は徹底したボケであり、「つっこみ」は徹底したツッコミであったほうが見聞きしていてとても面白い。
アメリカのジョークを聞いても日本人が理解できないというか、いまいちピンとこないのは「あいまいだからである」と聞いた。つまり、アメリカの言語は Yes か No をはっきり伝えるのに適しているし、思考も Yes か No がはっきりしているのであろうと思われる。そういう人種が面白いと思う会話やジョークは”あいまい”に表現される内容であることが多い。まったく日本とは逆なのであると結論付けていた。
またしても「なるほどね〜」と思ったが、自分自身がアメリカ人ではないので、それが正しいのかどうかは解らない。しかし、アメリカ映画の「笑い」を狙った場面で腹を抱えて笑った記憶はないので事実なのかもしれない。また、英語に堪能なわけでもないので字幕で表現される”和訳”がいけないのかもしれない。
逆に日本のバラエティー番組や漫才をアメリカ人が見た場合、面白いと思うのだろうか。・・・などと考えると、文化の違いを切実に感じてしまう。違う人種が本当に心から理解し合える日が来るのであろうか。
全世界(地球上)の人種が理解し合い、ひとつになれるのは宇宙人が侵略してきた時しかないのではないか。・・・などと言っていると「また始まった」と言われそうなので、これから先は自分の中だけで楽しむことにしたいと思う。
2001 / 02 / 18 (日) ¦ 固定リンク