2004年 9月04日
価値観 価値観
デフレ経済が長引いていたが、少しずつ物価の下落率が低くなって出口が見えはじめたと言われている。 経済にとっては良いことなのかも知れないが、庶民にとっては物価が上昇するより物が安くなる方が嬉しかったりするので手放しでは喜べないような気がする。 しかし、インフレといっても悪性のハイパーインフレでなければ何もかもが値上がりし、生活が圧迫されるということもないだろう。
自分が所属するコンピュータ業界などは今も昔もデフレしか経験したことがないような業界である。 昔は数百万円していた高性能な PC が数万円で買えるし、数十万円していたメモリも数千円だ。 HDD などは 1MB(メガ)1万円と言われていたのに、今では 120GB(ギガ)の HDD が一万円以下で売られている。 家電以上に価格の下落率が高いので PC の買い時に悩む人も多いだろう。
しかし、よく考えてみると物の価値など値段で決まるわけではなく、もっと論理的なものだと思う。 大阪人は ”せこい” などと言われるが、一概にそうは言えないと思うことがある。 仮に一万円の食事をしても、それが美味しく、心から満足できれば高いとは言わないだろう。 それが千円の食べ物であっても百円の食べ物であっても同じ事である。 価格に見合った満足感が得られるか否かが重要だ。
食べ物以外でも、その人にとって必要かどうかによって価値が決まるのだろう。 現在の PC の速度に満足できず、もっと処理速度の速い PC が欲しいと思えば、それがその人にとっての ”買い時” であろうし、それから数カ月後に値段が下がっても仕方のないことである。 処理速度が遅いというストレスから開放されたのであれば、下落した分の金額くらいの価値はあっただろう。
阪神・淡路大震災のときに被災して路頭に迷っている人たちを相手に 100円程度で売られているミネラルウオーターを 1,000円で売り歩いてヒンシュクを買った人がいたが、それはそれでたくましい商魂だったかもしれないし、水がなくて困っているだろうからという親切心で販売しに行ったのだが、あの大渋滞の中を運ぶのが思いのほか大変で、ガソリン代も高くついてしまったから 1,000円という価格になったのかもしれない。
いずれにせよ、その水が 1,000円でも 「それだけの価値がある」 と思った人は買うだろうし、思わなかった人は買わないという価値観の問題である。 おかれた状況や、その時々によって物に対する価値が変わることだってあるはずだ。 普段は蛇口をひねれば出てくる水に価値があると思っている人は少ないだろう。 それがたとえ 1,000円でも必要なときは必要なのかもしれない。
本で読んだのだが、1961(昭和 36)年に発生した大阪の ”釜ケ先暴動” の現場では、暴徒と化した群集が放火や投石などで荒れ狂っていた。 そんな中、投石用の石を集めてバケツ一杯 10円で売っているオバチャンがいたらしい。 場合によっては石にまで価値がでることと、大阪人のたくましい商魂に関心しながら活字を目で追っていた記憶がある。
どこの国かは忘れてしまったが、アラブ系の国でノートを購入する際に 5冊まとめて買おうとすると値段が高くなったという話を聞いたことがある。 日本ではまとめ買いすると安くなるはずなのに高くなったことに驚いて店主に抗議すると、「5冊も買うということは、あなたにとって価値があるものなのだろう。だから値段が高くても買うはずだ」 と言われたそうである。
人によって価値観は違うものの、どうしても重要なものがある。 電気やガス、水道などが典型的な例だが、そういう価値あるものを提供できれば大きな商売になることは分かっている。 しかし、残念ながら答えはまだ見つけられずにいたりするのである。
2004 / 09 / 04 (土) ¦ 固定リンク