2001年 2月04日
多重人格 多重人格
「まさか、あの人が」・・・。事件が発生し、容疑者の知人や近所の人たちが一様に驚く。人は特定の人物に対して、ある一面しか見せていない。ジキルとハイドではないが、日常生活を送っている時とはまったく別の人格を兼ね備えている。
自分自身を冷静に分析すると、二重人格などという程度ではなく多重人格ではないかと疑ってしまうくらいに色々な自分がそこにある。自宅でも仕事の事を考えているとき、な〜んにも考えずにボーッとしているとき。家や家族のことを考えているとき、自分中心に物事を考えているとき。出勤のため家を出てから会社に到着するまでのみちのり、会社に到着したとき。仕事に没頭しているとき、仕事に集中できずにいるとき。前向きなときに落ち込んでいるとき。それぞれのときに、それぞれの”自分”が存在する。
いったい本当の自分はどれなのかと考えてしまうこともある。人から見れば、どれもこれも大きな差はないのであろうが、精神状態や思考回路はあきらかに異なっているのだ。
同じ外出にしても出勤するときと、休日に買い物に出かけるのでは当然のことながら精神状態が異なるわけであるから、多少は人格に影響を及ぼすのかもしれない。よく見聞きすることだが、家にいるときの父親は家族からのウケが良くない。どんなに仕事で頑張っていても家に帰ると「ぐーたら亭主」に成り下がってしまうわけだ。
自分だけなのかもしれないとも思うが、もう一人の自分を顕著に感じるのは”夢”を見たときなのだ。昔から寝ている間に見た夢は目が覚めてからも良く覚えている。そして記憶に残っている夢はすべて自分を客観的に見ている事が多い。
一般的に”夢”は、あたかも自分が体験したような感覚で見ているはずである。具体的には夢の中で見聞きすることは日常との”差”があまりなく、自分の視点で映像を見て、音声を聞いていると思われる。しかし、いつもよく見る夢には”もう一人の自分”が存在することが圧倒的に多い。つまり、”夢”の中の自分の映像を”夢”の中で見ているわけだ。まるで自分が出演している映画とか TV を見ているように自分の姿を”夢”として見ている。自分が出演している”夢”をもう一人の自分が見ており、時にはエンディングまで見ることができる。
一般的に夢であれば結末を見る前に目が覚めたりするものであろうが、物語の最後まで見ているのである。ひどい時にはエンディングでスタッフ・ロール(映画などの最後でスタッフや出演者の文字が画面下からスクロールしてくるやつ)まで見て、最後の最後に「The End」の文字を見てから目覚めることもよくある。
一般常識では考えられないものなのか、こういう夢を見る人が他にもいるのかは定かではないが、このまま精神分裂してしまって本物の二重、いや多重人格者になってしまったらどうしようかと怯えることもあるが、客観的に自分を見ている自分がいる限り、激情や意識喪失が原因で他人に危害を加えたり、他人を死に至らしめるような犯罪だけは犯すことはない。
・・・と、勝手に解釈して安心している自分が・・・・やっぱりそこにいたりするのである。
2001 / 02 / 04 (日) ¦ 固定リンク