パラリンピック

平昌(ピョンチャン)冬季オリンピックの開催まで1年となり、韓国では盛り上がりをみせているという報道もあれば、国民的関心があまりにも薄いので盛り上げるのに政府や関係組織が必死になっているという情報もあるが、今の韓国は政治不信、政治不安の真っ只中にあるので後者の情報のほうが正しいのではないかと勝手に推測したりしている。

オリンピックと言えば終了後に開催されるパラリンピックへの注目度も少しずつ上がってきているようだ。

以前までは NHKや BSでさえ放送がなく、競技の結果をニュースで伝える程度だったが、前大会のリオオリンピックから放送枠が大きく拡大した。

『24時間テレビ 愛は地球を救う』などと大上段に構える日本テレビが中継しないことが腹立たしいと独り言にも書いたが、本当にその気がないのであれば安易に福祉だ何だと取り上げるべきではないと思う。

自分はと言えば、福祉とかに無関心ではないものの、どうにも自分から積極的に参加するのはちょっと気恥ずかしいというか、自分はそんな立派な人間ではないので偽善的すぎやしないだろうかなどと余計なことを考えてしまうので、陰ながらそっと応援することに徹している。

ただし、手放しですべて受け入れ、すべてに賛同している訳ではない。

例えばパラリンピックの選手がオリンピックの競技に出場したいと訴えているが、それには反対だ。

短距離走もそうだが、とくに跳躍力を競う幅跳び、三段跳び、高跳びなどなどでは義足が高性能すぎて今となっては人間離れした跳躍力を得ることができるようになっている。

決して差別的な意味ではないが、生身の体と人工的な体の持ち主が同じステージで記録を競うのは、やはりフェアとは言い難いのではないだろうか。

それを認めてしまったら、オリンピックで金メダルを得るために足を改造する人だって現れるかもしれず、それは薬物によるドーピングに類似したルール違反となってしまうのではないかと思う。

パラリンピックで活躍する人を見ると感動を覚えることも多いが、それと同時に反オリンピック的精神が見え隠れしたり、不公平感を覚えたりしてしまうこともある。

障害者のための競技だ何だとキレイ事で塗り固められているが、本質はどうなのか。

野球やソフトボールがオリンピックの種目に選ばれたり外されたりするのは競技をするためには様々な道具が必要なため、貧困国などでは普及しないことが問題点として挙げられているからだ。

しかし、パラリンピックの出場者が使っている義足はどうなのか。

まるでフォーミュラーカーのような車椅子はどうなのか。

選手がスポンサーを見つけ、強度を高めるとともに柔軟性の向上をさせて軽量化を図るという相反する難題に取り組み、それが車椅子だと空力性能にまで及び、とても個人ができることではなくなるし、開発には莫大な費用を要する。

パラリンピックはだれもが参加できる大会ではなく、選ばれし者、それは身体能力が優れているのみならずスポンサーや協力企業と手を組める人材でなければならないのではないのか。

そして、どんなに優れた人材がいたとしても発展途上国、いわゆる貧困国ではその人を支えるスポンサーも企業も存在しないと思われるため、参加できたとしてもメダルなど狙えるはずもないだろう。

車椅子マラソンなどで、まるでスポーツカーのようなものを使用する人ばかりの中で、病院で使われているような車椅子で勝てるはずがない。

そんなことを思いながらパラリンピクを見ていると、ひたむきに頑張る選手の姿に感動しつつも心のどこかに冷めた部分があることに気づく。

パラリンピック委員会が一元的にスポンサーから集めたお金や協力してくれる企業を管理し、各国の有能な選手に均等に配分するなどの制度を設けない限り、平等で公平な大会はできないような気がするのだが、現状に不満を持っている選手はいないのだろうか。

本当に公平になるようなルール作りは必要ないのだろうか。