飽き

歳のせいなのか、最近は何事にも飽きが来るのが早いような気がしてならない。

子供の頃は、よく飽きないものだと親から呆れられるくらい同じことを繰り返したり、同じもので遊んだりしていたし、先月の雑感に書いたように同じことを何度繰り返しても苦にならなかった。

今でも同じ本を何度も読んだり好きなドラマを繰り返し見るのは同じだが、ことゲームに関しては以前ほどのめり込まなくなったし、一度クリアしたゲームを最初からやり直すことなどない。

そもそも最後までやる前に飽きてしまい、途中で止めてしまうことが多くなってきたのである。

クリアするのが難しくて挫折してしまうのではなく、途中で興味が薄れて続ける気が失せてしまう。

これは先に進みたいという好奇心というか、向上心みたいな部分が欠落してしまったのだろうか。

だとすれば少し問題だが、飽きてしまうのはゲームだけではない。

世の中の関心が向いている話題も、すぐに飽きてしまう。

たとえば森友学園問題。

最初は超個性的なオッサンとその妻、娘や長男のキャラが面白かったことと、安倍首相婦人である昭恵氏の関わりがどうなっているのかなど、報道内容を興味深く見ていた。

しかし、報道が加熱してヒートアップし、世の中の関心が集まってボルテージが最高潮に達する前に飽きてしまい、ニュースがその話題になると鬱陶しくてチャンネルを変えてしまう。

最近になって急浮上してきた加計学園問題も同様で、すでに飽きてしまっている。

「官邸の最高レベル」「総理のご意向」などと記された文章は本当に存在するのかというところで興味はピークアウトしてしまい、25日に行われた元文科次官である前川氏の記者会見の内容などどうでも良く、見る気にさえならなかった。

天下り問題で辞職に追い込まれた前川氏の報復で単なる作り話なのか、それとも窮鼠猫を噛むの例え通り事実をもっての逆襲なのか、これからの生活を考えて暴露本でも売って儲けようとするイタチの最後っ屁なのかはさておき、私怨が見え隠れしてくると「勝手にどうぞ」という意識が強くなって興味の対象外となってしまう。

その点、飽きさせずに程良い感じで話題を提供してくれるが北朝鮮だ。

連日連夜の報道だと頭のおかしな奴のことなどどうでも良いという気になってしまうが、ミサイルを撃って世間の注目を浴びたと思えばしばしのインターバルがあり、核実験したかと思えば少し間を置き、今度は水爆の実験に成功したと言い出し、また間を置いて弾道ミサイルを発射してみたりと、飽きない程度の間隔で興味を引かせるその手法は天下一品であり、ある意味では天才的だとも言えるのではないだろうか。

世界各国も、中国、韓国、そして肝心のアメリカも忘れたくても忘れられない、かと言って一気に事を進めるほどの事態にもならないという、絶妙なバランスでブレンドされた挑発行動なので対応に苦慮するのだろう。

飽きる飽きないの話に戻れば、海外ドラマも途中で飽きてしまって見るのを止めるものが多くなってきた。

以前であれば、最初は面白かったのにだんだんつまらなくなってきたなどと感じながらも、一応は最後まで見たりしていたものだが、最近は物語の途中であっても見るのを中止してしまう。

これまで 250作品ほど見てきているが、最終シーズンの最終話まで見たのは 50作品ほどではないだろうか。

そして、そのうち何度も繰り返して見たくなるのは僅か 3作品程度である。

色々と飽きっぽくなってきたような気がしているが、食べ物に関してそれはないようだ。

もう何年も毎日食べ続けている食品や食材が我が家には 10種類近くあるのだが、そのどれもに飽きを感じたことはない。

いつまでも、そして今でも美味しく食べることができている。

つまりは根本が変わったのではなく、好き嫌いがハッキリしてきて興味の薄いものは飽きるのも早くなってきたということなのだろうか。

この歳になって好き嫌を自覚するなど遅すぎるような気がしないでもないが・・・。

春爛漫

北海道は初夏の一歩手前、春真っ盛りとなっている。

毎年のことではあるが、梅も桜もチューリップもスイセンにスズラン、ライラックなどなど、ありとあらゆる花が咲き乱れており、雪と樹木のモノトーンの世界から一気に原色まぶしいカラフルな世界へと変貌を遂げた。

そうなれば北海道民もウキウキし、野へ山へと繰り出して行く。

出不精を絵に描いたような自堕落的な生活を送っている我が家も、この時期だけは積極的に外に出て春の陽射しを堪能する。

この時期にはいつも独り言にも書いているように、桜の樹の下で昼ごはんを食べるのが毎年の恒例行事だ。

桜の時期は短いので、雨さえ降らなければ毎日でも出かけようと思っているが、少し前のソメイヨシノの時期は天候に恵まれず、せっかく満開になったと思ったら暴風雨となってしまい、あっという間に桜は散ってしまった。

今は八重桜が見頃を迎えている。

まだ満開にはなっておらず、おまけに八重桜は花の寿命が長いのでまだまだ楽しめそうだし、天気も大きく崩れることはなさそうなので花を見ながらの昼食は何回くらいできるだろう。

実は今日の昼も桜の樹の下で食べてきた。

北海道の5月にしては暑いくらいの気温だが、木陰は涼しく実に気持ちが良い。

陽の光を全身で浴びると体の芯からポカポカしてきて思わず眠りそうになってしまう。

そんな楽しい思いをしてきたところなので、パソコンに向かってカタカタとキーボードを打つ気分ではない。

そう、今回の雑感は気乗りしないし書くのが面倒だということを訴えたいのである。

なぜ、こんなに気持ちのよい日にグダグダと駄文を書き殴らなければならないのか。

いや、誰に強要されている訳でもなく、誰かが毎週の更新を楽しみに待っている訳でもないので、書きたくなければやめたら良いだけの話ではあるのだが・・・

話は戻って桜のことになるが、若かりし頃は毎年のこの時期を心待ちにするほどではなかった。

なぜ人は年齢を重ねるごとに咲く桜に感動し、散りゆく桜に悲哀を感じるのか。

「それは、生きている間にあと何回くらい桜を見られるかと想うからだ」
とは、義兄の言葉である。

確かにそうかもしれない。

これから先、あとどれくらい桜の咲く時期を迎えることができるだろう。

日本人の平均寿命はどんどん延びて人生100年時代となりつつある。

だとすれば、今まで見てきたのと同じくらいの回数は見ることができるかもしれない。

そうだとしても、子供の頃や若い頃は今と異なり、そんなことは考えもしなかったが、そろそろ人生の終わりを意識する年齢になってきているのは確かだ。

ただし、自分の場合はそれで考えを新たにしたり、立ち振舞を改めたりすることはなく、せっかくだから桜の時期を思い切り楽しんでおこうと思ったりする、不届き者だったりするのであるが・・・。

デジタル化の波 Signal-20

デジタル化の波 ~目次~

スマホの普及率が圧倒的になってきた。

それとともに固定電話の普及(設置)率は大きく下がり、パソコンの普及率は頭打ちから減少傾向となっている。

少し前であれば、公共の書類などに記載するのは固定電話番号と制限され、携帯電話の番号は拒否されたものであるが、今となってはむしろ固定電話を持つ単身世帯は稀だ。

スマホがあればネットも楽に繋がり閲覧も可能なので Webサイトの閲覧も今はスマホからが 70%、タブレットからが 20%、パソコンからは 10%程度という構成になっている。

もちろん、サイトの内容などによって比率は変わるだろうが、Twitter、facebook、Instagramなどの SNSだと 90%以上がスマホやタブレットからだと思われる。

確かにスマホからのネット検索などは便利なことこの上ない。

わざわざ文字入力しなくても音声認識で検索してくれるし、GPS機能で場所を特定できるため、店などは現在地の近くにあるものを優先的に調べてくれる。

以前は『大阪 千里丘 歯医者』 などいうワードで検索していたものが 『歯医者』 と 1ワードで検索すれば自動的に現在地の近くにある歯医者を調べてくれるのだからありがたい。

そんなに便利なものだから、ますます普及するだろうし、手元でいつでもネットが使えるのだからパソコンを持つ必要性も薄れる。

パソコンは大学生の必需品、それがなければ就職活動に大きな支障をきたすという時代もあったが、今はスマホがあれば事足りるのでパソコンまで買う必要がない。

今や日本の学生のパソコン所有率は世界でも最低レベル、それがゆえにパソコンに関するスキルも世界で最低のレベルになってしまっている(Newsweek)。

それは今後ますます必要となるパソコンのスキル、プログラミング能力が低いということで、日本の世界競争力が現在の 8位から低下の一途をたどるのではないかと不安になってしまう。

パソコンが一気に普及して社会の必需品となった 1995年くらいから、スマホが普及する 2010年までの 15年間に社会に出た現在 30~45歳くらいの人たちは、パソコンの使えない上司と部下に囲まれて、さぞかし苦労されているのではないかと思われる。

そのパソコンを使えない上の世代が大量に定年退職するご時世になってきた。

新聞購読を辞めてしまう世帯主の 7割がリタイアした 60代 70代世帯なのだそうだ。

そうなると、パソコンやスマホが使えないため主たる情報源はテレビが圧倒的になってしまうのだろうから、マスコミによって世論を操作することなど簡単なことに違いない。

しかし、これから数年後になれば、テレビの視聴率よりネット閲覧率のほうが遥かに上回る時代が確実にやってくる。

そうなると世論を大きく動かすのはテレビではなくネットということになり、その伝播力のすさまじさから、すべてが萎縮した世の中になってしまわないか心配だ。

今現在もネットで悪評が広がらないよう、神経質にならざるをえない状況になっている。

それはすべての業種に言えることで、接客態度が悪かったりちょっとした落ち度があれば、あっという間にネットで叩かれ、顧客にそっぽを向かれてしまうという危険性をはらんでおり、一瞬たりとも気が抜けない。

個人が発信する情報も、安易な書き込みで個人が特定される場合もあるので気をつけるべきだ。

facebookを除けば多くの場合は匿名でネット住民となっているが、Twitterでもブログでも、たとえば
「昨日、近所に○○という店がオープンしたから行ってみた」
などと書き込めば、その日付と店名、新規オープンなどの情報から店の住所が特定され、そのネット住民は確実にその辺りに住んでいることが分かる。

並行して実名のfacebookなどをやっていて、同じ情報を書き込んでいたりすれば知人に Twitterなどのアカウント名が知られてしまう可能性も低くない。

それらのことを気にすれば、気軽につぶやいたり書き込んだりできなくなってしまう。

しかし、いくらネットの世界でもルールやマナーがあるのだから、一定程度の気を使いながら利用するのは当然か。

マナーと言えば、最近は常識にも変化が起こっているようなので、自分のようなオッサンは特に気をつけなければならないだろう。

少し前に話題となったのは『電話野郎』。

スマホ、LINE世代からすると、携帯電話にいきなり電話してくるのは迷惑千万な行為なのだそうだ。

まずは LINEかメールにて電話しても良いか確認し、了解を得てから電話すべきなのだとか。

・・・。

何のための携帯電話なのだろう。

いつでも、外出中でも電話を受けられるという利便性から生まれたのが携帯電話であり、それが進化したのがスマホな訳で、その根本は携帯性を実現した電話であることに変わりはない。

いつでもどこでも電話できることを前提としているのであれば、なぜ電話して良いかとお伺いを立てなければならないのか。

「ふざけたことをぬかすなっ!」
と、怒鳴ってやりたいオッサンではあるが、それが新常識、現代のマナーなのであれば仕方がない。

ここは素直に従い、若者に電話する時は先に LINEで問い合わせることにしようと思う。

いや、若者に電話することなどないと思われるが・・・。

駄文

かなり以前の雑感にも書いたように、毎日のように独り言を更新したり週に一度はこの雑感を更新したりしているが、実のところは作文は苦手だったりする。

良く書こう、面白く書かなければという意識が強すぎ、結果的に何を書いたら良いのか、どう書けば良いのか分からなくなってしまう。

したがって、小学生から始まった学生時代に一度たりとも文章に関して褒められたことも、優秀な成績を収めたこともない。

今日現在、こうして駄文を垂れ流したりできているのは、開き直りによるところが圧倒的に大きく、良い文章を書こうとか面白い文章を書こうなどという意識を持たず、恥をかくつもりで書きなぐるようにしているからだろう。

細かなことを気にしていては何も書けないし何も伝えられない。

かと言って、文章で何かを伝えたいという意識もないので、そもそもそのことを気にする必要などないというのが現状だ。

読書感想文も同じで、子供のことから作文以上に超苦手なものの一つだった。

この年齢になって読書感想文を書くことなどないが、どっぷりと浸かっている海外ドラマの感想などを書くことはある。

ところが、必要に応じてドラマの粗筋なども記載しようとすると、それがうまくまとめられない。

頭では起承転結を理解しているつもりなのだが、文章化しようとすると時系列がどうなっていたのか、ドラマの中の彼は何を思い、彼女はどう考えていたのかなどさっぱり思い出せないのである。

他人のブログを見たりすると、ドラマの内容、感想が良くまとめられているものが多いので感心してしまう。

自分には文才もなければ物語を正確に理解する能力もないのだと、つくづく情けなくなったりしていたのだが、ある人のブロクを読んでいて才能ではなく努力が必要なのだと分かった。

その人は我が家でも大好きな海外ドラマを一話ごとにまとめているのだが、粗筋を書き、登場人物の心情を分析し、それらについての感想も上手に書いているそのブログを運営するために相当な時間と労力を要しているらしい。

ドラマのストーリーの中には少し難解なものもあり、そんな話も見事にまとめているのは才能だと思っていたのだが、実はブログに文章としてまとめるため、メモをとったりしながら何度も見直し、自分なりに解釈できるまでそれを繰り返しているのだそうだ。

とてもじゃないけどそんなことはできない。

いや、大好きなドラマであれば不可能ではないかもしれないが、それを時間が許してくれないだろう。

時間が許せば何度だって見たいし、自分なりに理解し、解釈できるまで繰り返してみたい。

しかし、仕事だってしなければならないのでそれは無理な話である。

いや、いっその事、それを職業にしてしまえば思う存分、誰に遠慮することなく大好きな海外ドラマを見られるではないか。

いやいや、物書きとなるには努力だけではなく、やはり才能も必要だ。

さらに言えば、自分の好きな作品だけ見ることを努力などといえるはずがない。

やはりこの件に関しては趣味にとどめ、これからも駄文を垂れ流すしかないのであろう。